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"過去を今に活かす"とは

フィンランドから帰国してから9ヶ月近く、ずっと心がスッキリと晴れない毎日を過ごしていました。
その時その時でその理由は色々だったのだけど、少しずつ思考が落ち着いてきて久しぶりにまとまった文章を書ける気がしているので、なんだかんだ帰国後初の投稿をします。

私が答えを探して彷徨っていたのは、
"今の社会の抱える課題と自分の存在の折り合いの付け方"
なのだと思います。
環境問題、格差社会、戦争といった人間の引き起こす凄惨でやるせないニュースに日々怒り落胆する一方で、自分が生きるために消費している物やエネルギーの延長線上にそれらが引き起こされているという否定し得ない事実に葛藤し、打ちのめされていました。

私自身は特に環境問題に関心を持ってきたのでその分野について言えば、今の社会が科学の力によって素晴らしく便利で快適になる一方で、その上に成り立つ人間社会が地球に大きな負担を強いていることに頭を悩ませていました。
なぜなら、だからといって厳しい自然をコントロールできずに失われた命も多くあったことを考えれば過去を過剰に美化することも、かといって全てを科学の力でコントロールできるような未来を期待することも愚かであるように感じ、今の社会はどこに向かって進んでいくのかが分からなかったからだとも思います。
この文を書きながら改めて実感していますが、きっと私は、例えば縄文時代のようなはるか過去から、まだ見ぬ世代が生きる遠い未来まで、一般的には非現実的といわれるような長いスパンの中で今の社会を考えてしまうのだと思います。
だから、ものすごく現実的で効果のある環境問題への対策も、どうしても「その場しのぎ」のように感じられてしまい、頭では良いことと分かっていながらも心のどこかで疑念を抱いてしまう、そんな自分に対しても嫌気がさしていたのだと思います。
逆にいうと、それが物理的な環境問題の解決にはあまり貢献していないと感じたとしても、昔の人々の暮らしや生き様に触れたときに自分がものすごい安心感を覚えるのだということも自分自身分かってきました。

きっと、物質的なもの・データや数字として目に見えることに拠り所を求める今の社会では、そんな曖昧な精神性は役に立たないどころか怪しいものとして嫌厭されてしまう節すらあるのかもしれません。
だけど、私は何万年と人間が暮らしてきた過去は、先の見えない未来よりもよっぽど確かで揺るぎないものだと思っています。だからその過去とのつながりを確かめないことにはどこか心許なさを感じてしまうし、そのつながりが確かめられたときに初めて、それを受け継ぐ相手としての未来が見えてくるのだとも感じています。

そういう意味で「過去を今に活かす」というのは、必ずしも先人たちの知恵を物質的に取り入れて実践するということだけではなく、今を生きる自分の心の拠り所として過去とのつながりを確かめることでもあるのだと思います。
だからこそ、物質的なものが果てしなく進化してきた中で忘れてきてしまったそういう心の持ち方を蘇らせることが、もっと目的化しても良いのだと思っています。だけど目に見えない精神の話をすることは難しく、それもまた自分の思い悩むことのひとつでもあります。

というわけで、当面の自分の命題は、その"精神性"の中身をもっと客観的に論理的に論じてみること、そしてそれをスッと人の心に入り込ませるような伝え方を考えることなのかもしれないと思っています。
これはある意味で私の単なるエゴであり傲慢さでもあるけれど、本来なら未来志向的なニュアンスを多分に含む"持続可能性"という言葉にすらどことなく行き詰まり感が出てきている中で、そんな心の持ち方に支えられる人も多少なりともいるんじゃないかなって思っています。私がそうだったので。

個人的なアクションとしては、そんな精神性の話を人に伝えることを恐れずにやっていくことかなと思っています。やっぱり精神だとか心だとかいうと、それだけで気味悪がられちゃうんじゃないかと思って、なかなか口にするのも勇気がいるものなので。
だけど精神の話なんて言葉にしない限り伝わらないのだろうし、自分自身はそこにもう少し心を軽くするための絶対的なヒントが隠されていると思っているから、恐れずに伝えることに挑戦していこうと思っています。

というわけで、今後は少しでもnoteも積極的に更新していけたら良いなって思ってます。

こんな取り止めもない文章を最後まで読んでくださってありがとうございました。

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これを考えてたら眠れなくなったので、2001年のM1グランプリを見て頭をリフレッシュ(?)しています。

読んでくれてありがとう!またね!


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