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「好き」と言いたくて ~フリースクール運営代表としての確かな学びの備忘録~

 フリースクールや探究型学習塾を運営していて、関わりのある子どもたちにこれまでに一度も「学校の勉強」を強要したことがない。
 「みんなの学び舎ことのは」でやりたい「学び」は、誰かから与えられるものであってはいけないと思っている。本来、学びは「自らつかむもの」だと考えている。学校での画一的な一斉授業や進学塾の詰込み型の学び方が一般的となっており、「座っていたら投げかけられるもの」が勉強だと思い込んでいる子の多さを憂う。
 こうして本来的な意味の学びを見失った子どもは、あらゆることに受動的で、能動的に何かをつかみとろうとする意志がなくなる。そんな子どもが大人になり、社会や所属する地域に対しての主体的な関わりをもてないでいる。だからこそ、私は、社会を好転させるものは教育であると信じている。本来的な意味の学びを呼び起こすことがその第一歩だと信じている。

 主体的な学びを促すのは、そんなに難しいことではない。
 唯一にして最高の方法は、「好き」から始めることだ。

 主体的な学びにも段階があると思う。
①ただ何となく「好き」だから、自分からやろうと思う段階。
②「好き」が「熱中」に変わる段階。
③「熱中」の幅が派生して広がっていく段階。
④派生した先のテーマの中に新しい「好き」を見つける段階。
 例えば、絵を描くことが何となく「好き」な子がいたとしたら、上記のプロセスはこんな感じになる。
①とりあえず楽しいから絵を描こう。
②上達してきて色彩へのこだわりが出てきた。
③そもそも「色」って何だろう。そもそも「絵の具」は何でできてるんだろう。そもそも…。
④三原色の光。色がもつイメージ。色についてもっと調べてみたい。
 最後の段階まで到達できてしまえば、その人はどこまでも学び続けられる。学びを心から楽しみ、自己を磨く喜びに自覚的になって勉強に取り組むことができる。
 だからこそ、スタートはどんなに小さいことでも「好き」から始めたらいい。持論ながら、手持ちの教育観や教育手法の中では、かなり信頼している部類の考えである。

 フリースクールを始めてからもうすぐ2年。その当初から通い続けている、長い付き合いとなった子がいる。
 私の思いをずっと伝えてきたし、過ごした時間の長さもあり、その子も心を開いて話してくれることが増えてきたと感じている。その子がつい先日、こんなことを言った。
「俺ね、こんなに長い時間ゲームやってても、ゲームの中で好きなキャラとかいないし、一番好きなゲームとかないんだよね。」
「これが好きって言ってみたいよ。」
「今度買うゲーム、ここで好きなキャラ見つける!って思ってるんだよね。」

 これを聞いて、一瞬のうちに私が考えたことは主に3つである。
・「好きなことを見つけよう」にも向き不向きがあり、推し進め方によっては相手にプレッシャーを与えてしまうかもしれないという猛省。
・「好きが見つからない」という自覚にたどり着いてそれを率直に話してくれた子の成長に対する感動。
・「好き」よりもさらに基礎の部分に、「学びに向かうための土台」として必要な要素があるのではないかという推測。

 特に、この推測の部分で、今考えていることを備忘録的に書いておこうと思う。
 学びに向かうために必要な「好き」以外の要素として、今思いついているのは「仲間」と「モデル」と「体験」である。
 「仲間」が必要と思った背景には、「好き」を見つけたいこの子よりも後に入ってきた同年代の子の存在がある。この二人が仲よくなってから、二人とも非常に変わったからだ。こちらから何も言っていないのに、二人とも自分から学校の勉強をするようになった。共に学ぶ仲間の重要性を感じる姿である。
 また、後から入ってきた子は「好き」をすぐに行動に昇華できるタイプで、面白そうだったらとりあえずやってみるという「モデル」を示してくれている。おそらく「好き」を見つけたい子が一人でいても、どう見つけて、それをどう扱えばいいのか分からないで終わったと思う。
 何より大切なのが「体験の多様さ」だと思う。やってみないと何も分からない。「好きだからやろう」なんてことはとても少なくて、「やってみたら好きになった」が圧倒的に多いはずだ。その機会をまだ私は十分に子どもたちに用意できていない。今回子どもが話してくれた本音から得た「学び」をもとに、もっともっとフリースクール内の体験を充実させていこうと考えた。

 私はこの子が「好き」を見つけたいという自分の本音に気付くまでに、長い時間がかかったことを、無駄だとは全く思わない。
 どんなことも、自分の手でつかまなくては、自分の実感として伴うことでなければ、学んだとは言えないからだ。
 時間がかかる子も、かからない子もいる。個性だ。それぞれの個性の中で実感が伴う確かなものを、自分から手を伸ばしてつかみながら成長していく。それがどんな姿であれ応援する。今、私が信じることができて、本気で取り組みたい「教育」はそれなんだと思う。

 夏休み明けだ。今年もすでに多くの相談が寄せられている。
 学校で「仲間」や「体験」や「好き」を見つけられるなら、学校に行く価値はあるし、素晴らしいことだろう。でも、どうしてもそうならない子どももいる。
 公立学校は平たく言えば「偶然集められた近所の同年代の子どものコミューン」である。その中で、上記3つとも見つけられるのは、かなり運がいいのではないかとも思う。何も見つからない場合もある。それは、その子が悪いのではない。たまたまその環境では見つからなかっただけだ。
 ならば、どうするか。環境を変えたらいい。今は色々な選択肢がある。うちも、その選択肢の一つになれるといいなと思って、日々活動している。教えないし、与えない。自分でつかむのをひたすら待つ。何かつかめたら何であれ一緒にめちゃくちゃ喜ぶ。そんな「教育」を実践している場所でよかったら、ぜひ一度のぞきにきてほしい。

 叫べ「好き」。つかめ「学び」。
 これからも「みんなの学び舎ことのは」は、地域教育の拠点としての気概と矜持を胸にがんばります。

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