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デジタル・シティズンシップになぜ取り組むのか

Google for Education認定トレーナー&コーチの笠原です。

今週はデジタル・シティズンシップについてお話をする機会もあり、改めて自分の実践を振り返る時間がありました。

この数年の実践の柱として、デジタル・シティズンシップを外すことはできません。決してリテラシー教育や情報モラルについて詳しいわけではないので、それらと比較して「デジタル・シティズンシップがよい」というような慎重な検討を出来ているわけではないのですが、少なくともこの数年間の生徒たちの姿を見て必要性を強く感じているのです。

ちょうど実践集も発売になるところで、今後、ますますデジタル・シティズンシップ教育は充実していくだろうと感じています。

自分も自信がないから

「なぜ、デジタル・シティズンシップ教育なのか」と問われるならば、自分は「自分もICTがよく分からないから」と答えます。

もちろん、全く無責任に分からないということではありせんが、すべての可能性とリスクについて正しく把握できているとは到底思えないのです。

だからといって、自分がしっかりと全てを把握してから教えようという発想では日々変化するテクノロジーの世界に自分の授業が追いついていけません。

教え子たちが学校を離れたあとにも付き合っていくテクノロジーを使わせないという選択肢は自分の中にはありません。実際問題として、2020年にはICTの力を大いに使わなければならない状況に、望む、望まないに関わらず、行き着いたわけです。

「分からないから使わない」も「分からないけど使わせる」も、どちらもあまり教育として望ましいと感じません。

そのような課題意識に対して、きちんと体系が整っており、放任でも禁止でもなく、社会の問題として、テクノロジーについて考えていくことができるデジタル・シティズンシップの考え方は、取り組まねばならない課題だと考えたわけです。

話に使ったスライドの一部

生徒に必要な力は何か、どうすれば今ここにある課題にすぐに取り組めるか、そういう文脈の中でデジタル・シティズンシップ教育に取り組むことはチャンスでした。

厄介ごとにさせないために

デジタル・シティズンシップの授業は、やれば分かりますが、生徒の日常のデジタル生活が掘り起こされていきます。もしかすると、それは教員や学校にとって「見たくない」事実かもしれません。見てしまったら「厄介ごと」が増えるという感覚が生まれそうな類のものです。

ただ、見つけてしまって「厄介ごと」と捉えなかったとしても、現実に多くの生徒が直面しているデジタル世界におけるトラブルは無くなることはないのです。トラブルに対する術も持たないでいることは大きなリスクだろうと思います。

「厄介ごと」としてみないふりをするよりは、小さなトラブルにちゃんと向き合い、解決の方法を模索していくこと、そのための方法を授業で経験することはとても大切なことです。

実際にデジタル・シティズンシップの考え方を納得して、取り組んでもらうためには、こういう意義に共感してもらわないと難しいです。「寝た子を起こすな」という対処の方法が楽な場合もあるとは思いますが、子どもたちの10年先を考えた時にどう考えたいですか、ということを話し合うことになります。

可能性のために

デジタルのツールは子どもたちにとっても大きな可能性だと感じます。その可能性の分だけリスクも巻き込むことにはなるのですが、一度、「何かできる」という可能性に気づいてしまったら、それを抑制することは難しいものです。

今はできないとしても、一人ではできないとしても、テクノロジーの活用で可能性は広がります。

その前向きな力とリスクを自律的に判断し、選べるだけの視野を持って卒業できるようになること、そして、テクノロジーの威力を理解して適切に判断して使えるようになることを期待したいのです。

リスクを正しく知識として理解し、よりよい生活のためにテクノロジーを考えていく姿勢をしっかりと体系立てて取り組むことができるデジタル・シティズンシップ教育は今後もちゃんと挑戦していきたいですね。

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