本人確認

小説「本人確認」

 その日の仕事を終えた宇木草鞍史は、いつものように定宿であるネットカフェに入店した。宇木草にとっては帰宅、と言ったほうがしっくりくるが。
 すでに日は暮れていたが、店の中は昼でも夜でも同じ時間が流れている。ドリンクバーでコーラを用意し、お湯を入れたカップラーメンとともに窮屈なネットカフェのプライベートスペースに入る。シートに座るとテレビをつけ、ぼんやりと見ながらラーメンができるのを待つ。ラーメンが出来上がると、それをすすりながらパソコンで今後の仕事を探す。仕事が確定すれば、またテレビをぼんやりと見て時間をつぶす。
 これが彼の日常であった。
 今後の仕事と言うのは、これから数日間の日雇いの仕事だ。地方都市出身の彼は進学を期に上京。大学を卒業した時は未曾有の不況で、就職に失敗した。正社員採用を目指しつつ派遣で食いつないでいたが、安定した仕事になかなかありつけないままおよそ十年が過ぎていた。
 景気が回復しても採用されるのは新卒ばかり。それでも正社員になるのをあきらめたわけではない。食いつなぐための日雇い仕事をしつつ、安定した生活を目指し正社員募集の情報も探していた。食いつなぐための仕事に追われ貯金もできない低収入のため、一度仕事を切らした際に家賃が払えなくなり、学生時代から住んでいたアパートを退去せざるをえなくなった。無職かつ敷金礼金も払えない状態では新たにアパートを借りることもできず、以来ずっとネットカフェ暮らしをしている。
 なんの経験も得られぬまま歳ばかりとってしまい、実家にも厄介者扱いされ地元に戻ることもできなかった。毎日の生活に追われるあまり知人らとも疎遠になり、不安と孤独に苛まれる毎日。将来に全く希望が持てない。もう生きることに疲れていた。それでもやっぱりパソコンで求人サイトを見る。自分の悪あがきに嫌気が差していた。
 だがある日、ネットで見つけた求人情報によって彼の人生は大きく変わる。
 それは、今をときめくITベンチャー企業で、顔認証システムの開発・製造で急成長している「デルフォイ」社の会社案内だ。
 宇木草は、企業情報の欄にあった社長の写真を見て、目を疑った。
 デルフォイの社長である志如大介の顔が、自分と極めて似ていた、いや全くの瓜二つだったのだ。宇木草は一瞬混乱し、思わずスマホのインカメラで自分の顔を確認してしまった。
 写真の中で志如大介はさっぱりした短めの髪に黒とも紺とも見える色のスーツを着こなし、いかにも急成長中のベンチャー企業のリーダーという感じだった。一方、インカメラで確認した宇木草の顔は、ボサボサ頭に無精ヒゲ、ファストファッションで買った安いシャツに、もうずいぶん洗ってないジーンズ。あまりの違いに、宇木草は深くため息をついた。
 だが、顔そのものは自分と同じように見える。宇木草は、自分と同じ顔をした人間がどのように生きてきたのか興味が出てきて、志如大介について検索をはじめた。
 業界では有名らしく、情報は次々と見つかった。志如大介名義のSNSからも情報が得られた。
 志如大介。生年は宇木草と同じ。若い頃からITに精通。一流中学から一流高校・大学へ進み、学生のうちに起業。社会に生体認証システムが導入される時流に乗り会社の業績は右肩上がりで、一気に成功者の仲間入りをした。先ごろ元レースクィーンの佐倉桃と結婚し、現在は会社からほど近い一軒家に妻と二人暮らし。妻が元レースクィーンということもあってか、SNSで公開された写真からは華やかな交友関係がうかがえる。
 宇木草の惨めさは増幅された。違う。あまりに違いすぎる。年齢も同じ。顔も同じなのに。だんだん目に涙があふれてきた。俺には何もない。この歳まで何もできていない。検索の手は止まっていた。
 あらためてパソコンに表示された志如大介の写真を見る。同じ顔なのに。同じ顔なのに!宇木草の惨めさはいつしか恨めしさに変わっていった。
 そこで宇木草に、ある考えがひらめいた。
 この志如大介に成りかわることはできないだろうか。
 宇木草は仕事の無い日にテレビを見てだらだらと過ごすことが多いが、日中よく見るサスペンスドラマの再放送で、双子が同じ顔であることを犯罪に利用してたのを覚えていた。
 そうだ。この志如大介を殺し、俺が志如大介としてヤツの人生を乗っ取るのだ・・・と、ここまで考えて、自分の浅はかさに笑ってしまった。そんなにうまくいくわけはない。そもそも人殺しなんて俺にできるわけがない。宇木草は冷静になるよう自分に言いきかせ、リクライニングシートを倒して今考えたことを忘れようと眠った。
 そして宇木草は日常に戻った。次の日も、その次の日も、またその次の日も、生きていくために日雇い派遣の単純労働を続けた。ずっと続けた。その、全く先の見えない、生きるために働くのか働くために生きてるのかわからなくなるような日々に、消えたはずの考えが日一日と大きくなっていった。テレビのニュースで孤独死の特集番組をやっていた。一生低収入な仕事に明け暮れて、結婚もできず、誰にも看取られず死んでいく。俺もああなるのか。親にも見放され、知人も妻もおらず、人生を全く先のない日雇い派遣労働で過ごし、そして死んでいくのか。
 このまま何もせずにただ死を待つのは、嫌だ。
 宇木草は、一度は忘れようとしたアイデアを実行する決意をした。どうせ失うものは無いのだ。一発逆転を狙わなければ、本当に働くだけで一生を終えてしまう。孤独と貧困と将来への絶望が彼の背中を押した。
 その決断をしたら、宇木草の心は急に楽になり、前向きな気持ちになれた。人間、目標ができると人生にハリが出るものだ。
 志如大介になりすますために、あらためてネットで調べた。IT業界では有名なのでニュースサイト等にいろいろと情報が出ていた。個人のSNSからは、交友関係、仕事の内容、趣味、食事の好み、などがわかった。宇木草はそれらを必死で頭に叩き込んだ。こんなに頭を使ったのは大学受験以来かもしれない。
 また、リサイクルショップで安い自転車とサングラスを買い、志如大介を尾行し、日頃の生活を調べることにした。
 志如大介の会社の所在地へ行く。社屋は四階建てのビルで、一階は半地下の駐車場になっていた。ビルの近くで出勤を待っていると、白い高級セダンで出勤し半地下駐車場に入った。運転席には確かに自分と同じ顔をした男がいた。今に見ていろ。俺はお前のすべてを奪ってやる。宇木草の決心はますます強まった。
 夜になり、志如大介が退勤して白い高級セダンで半地下駐車場を出ると、宇木草は自転車で後を追った。都市部のため渋滞が多く、宇木草は汗だくになりながらもなんとか自転車でついていくことができた。志如大介の自宅はクルマで十分とかからない場所だった。白い二階建ての家で、屋根付きの駐車場がある。この家で元レースクイーンの嫁さんと暮らしてるのか。窓の明かりがあたたかな幸せを感じさせ、思わず目をそらした。
 宇木草は尾行を続け、志如大介の行動パターンを把握していった。そして自分が志如大介になりすます自信を得たと確信した日、いよいよ計画を実行に移す決断をした。千円カットの店に行き、スマホで志如大介の画像を写し「これと同じ髪型にしてください」と言って散髪。しっかり髭を剃る。その顔をスマホのインカメラで確認すると、宇木草は満足したようにかすかに笑った。
 いよいよ決意の日。夕方を過ぎ終業時間ごろ、デルフォイ社ビルの半地下駐車場に入り、志如大介の白い高級セダンに近づく。運転席のドアに近づくと、ガチャリと音がした。一瞬ビビったが、手袋をし、落ち着いて運転席のドアに手をかけると、開いた。やはりそうだ。このドアは顔認証システムでロックされていたのだ。志如大介がクルマに乗る様を遠くから見ていたが、鍵をかけたり開けたりする仕草を全くしてなかった。もしかしたらと思ったがやはり自分の会社の顔認証システムを搭載させていたのか。宇木草は口元がゆるむのを我慢しつつ静かにドアを開け内側からロックすると、後部座席に滑りこんだ。後部座席の床に横になり、耳をそばだてて志如大介を待つ。いつも定時で退勤するからもうそろそろ来るはずだが、息を潜め待っている時間はやはり長く感じる。俺はこれから志如大介を殺し、志如大介になりすますのだ。そう考えるとやはり胸の鼓動が高まってきたが、宇木草は落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせた。
 どうやら足音らしき響きがクルマの外から聞こえてきた。来たか、と宇木草は腰のベルトを外し、両手に握った。ドアがガチャリと音を立てロックが解除され、志如大介が運転席に座り、ドアを閉じた。
 今だ!
 宇木草は心の中で叫び、ベルトを志如大介の首に巻きつけてそのまま後部座席に引きずりこんだ。そして志如大介の首に巻きつけたベルトをとにかく力いっぱい締めた。ひたすら締めた。志如大介にとっては何が起こったかわからぬまま首のベルトに手をかけていたが、宇木草の締める勢いのほうが強い。やがて志如大介はぐったりとし、おとなしくなった。
 宇木草は乱れる息を整え、額の汗をぬぐった。そして駐車場に誰もいないことを確認しながら、志如大介と自分の服を交換した。宇木草は自分の財布に自分の(すなわち宇木草鞍史の)免許証を入れ、宇木草の服を着てぐったりしている志如大介の服に入れた。そして、ガムテープで志如大介の手足を縛ると、志如大介の服を着た宇木草は運転席に座った。ルームミラーで自分の顔を確認する。そうだ。今から俺が志如大介だ。服のポケットに入っていた財布、その中の免許証を確認する。そして今一度、俺が志如大介だ、と自分に言い聞かせ、クルマを運転し始めた。
 クルマの行き先は郊外のホームセンター。宇木草はそこで旅行者用の大きなキャリーバッグを買った。それをトランクにしまうとまたクルマを走らせ、人気のない河原でキャリーバッグを開き、志如大介を後部座席でキャリーバッグの中に押し込むと、キャリーバッグをふたたびトランクに入れた。
 さらにクルマを走らせ、都内の繁華街そばの駐車場へクルマを置き、志如大介が入ったキャリーバッグをゴロゴロ転がしながら、繁華街の一番人の多い通りへ出た。そこに建つ雑居ビルとビルの隙間にキャリーバッグを転がし、どこかの店のゴミ置き場のそばにこっそり置いた。
 テレビドラマの再放送で言ってた。木は森へ。人は人混みへ。なまじどこかに穴掘って埋めたりするから足がつくのだ。もう夜だし、こんな繁華街のビルの合間の薄暗いところにキャリーバッグがひとつ置いてあったって、誰が気にするものか。
 それが宇木草の考えだった。
 念のため、死んでるのを確認しようと宇木草はキャリーバッグを開いた。すると、押し込められて苦しい体制の志如大介がウウウと声を上げ始めた。
 まだ息があったのか!マズい!
 宇木草はとっさに志如大介の頭をつかみ、ビルの壁に何度も何度もぶつけた。何度も、何度も。ガツン!ガツン!すると志如大介は静かになったが、ビルの壁に血痕が残った。宇木草はしまったと思ったが、志如大介は今度こそ死んだんだと言い聞かせた。あわてて周囲を見渡し、誰も気づいてないことを確認すると、急いでキャリーバッグを閉じ、その場を離れた。
 額の汗を拭きながら繁華街を歩いた。今着ているのは志如大介が着ていたスーツ。仮に防犯カメラとかで撮影されてたとしても、それがどうだっていうんだ。この繁華街で、スーツを着ている人間がどれだけいると思ってる。誰が誰だかわかるものか。志如大介の服を着た宇木草は何度も何度も頭の中でそう繰り返し、駐車場に止めた白い高級セダンに乗って、はじめての“自宅”に向かった。
 白い高級セダンを車庫に止め、玄関の扉を開ける。「ただいま」と慎重に言ってみた。元レースクイーンの妻・桃は笑顔で迎えてくれ、明るい声で「おかえり、今日は少し遅かったのね」と言った。少し仕事が手間取って、となんでもないような顔をして返した。桃は宇木草を志如大介だと思っている。バレてない。はじめて見る志如大介の家の中。ダイニングにはすでに食事の用意がされていた。色とりどりの食卓が宇木草にはまぶしかった。そして志如大介がそうするであろうことを想像しながら桃と食事をした。桃は笑顔を絶やさなかった。女が自分と食事をしてずっと笑顔でいてくれる。宇木草にとってははじめての体験で、自然と笑顔になった。それは桃が宇木草を志如大介と信じるのに充分だった。
 食事を終えると、宇木草は自分の(自分の)部屋に入り、ざっと見渡した。机の上にはノートパソコン。本棚にはビジネス書やコンピュータの技術書。それ以外はほとんど何もない、宇木草にとっては何の面白みもない殺風景な部屋だった。ネットカフェのほうがよほど面白い。その部屋の片隅に、CDが山ほど積んであった。しかもどれも同じCDだ。どうやらアイドルのCDらしい。確か、アイドルのオタクは何度も握手するために同じCDを何枚も買うという話を聞いたことがある。志如大介にそういう趣味があったとは知らなかった。宇木草はそのCDの山を見て鼻で笑った。
 その夜、宇木草は桃を抱いた。この女は俺が志如大介でないことに全く気づいてない。元レースクイーンだけあって抱き心地は極上であった。奴はこんな快楽を味わっていたのか。飯も美味いしセックスも上手い。この女とこの生活を絶対手放してなるものかと宇木草は強く決意した。
 翌朝、宇木草は“自分の会社”に“出勤”した。最初は動揺を隠すため堂々をしてるふりをしてみたが、社員たちは宇木草をすっかり志如大介だと思って疑いもしなかった。確かに、同じ顔をした人間が普段どおり出勤すれば、いちいち本人かどうかなんて疑う理由はないだろう。まして、ビルの顔認証システムを通って出勤してるのだから。社長ともなればそれなりの知識が要求されそうなものだが、難しいことはだいたい部下がやってくれていた。何かわからないことがあっても、考えてるフリをして机上のノートパソコンで検索すればそれらしい応対はできた。
 会社でも自宅でも、宇木草は志如大介として生活できた。
 最高だ。
 ただひとつ気がかりは、本物の志如大介こと宇木草鞍史が死亡したというニュースを発見できないことだ。ひょっとしてまだトランクの中に入ったまま誰にも発見されてないのだろうか。それともよくある事件としていちいちニュースで取り上げられないだけなのだろうか。
 その不安も、毎日社員にチヤホヤされ、毎夜極上の妻を抱いているうちに、徐々に小さくなっていた。

 本物の志如大介は、まだ生きていた。
 首を締められ、手足を縛られ、頭をビルの壁に打ち付けられ、キャリーバッグの中に詰められ繁華街のビルの隙間に置き去りにされた志如大介であったが、そのビルに入居する居酒屋の従業員がゴミ捨てに来たとき、キャリーバッグの存在に気づいた。中からはうめき声のような音が聞こえ、恐る恐る近づくとガタガタと動き出した。キャリーバッグはツメのひとつがしっかりと閉まってなかったため、窒息せずにすんだのだ。その従業員は119番通報し、志如は病院へ搬送された。
 体調がある程度回復した後、警察の事情聴取を受けたが、なんと志如は記憶を失っていた。最後にガツガツと頭を壁にたたきつけられたせいだろうか。自分の名前すら思い出せない。彼が“所持”していた免許証から、警察も病院の人も彼を宇木草鞍史と認識していた。
 病院のベットで、頭に包帯を巻かれ、宇木草さん、宇木草さんと呼ばれ、事情聴取や看病を受けた。
 彼は宇木草鞍史という名前に全く心当たりがない。それだけは確かだった。
 だが、自分が所持していたという宇木草鞍史の免許証の写真は、確かに自分の顔だった。
 自分は、宇木草鞍史なのだろうか。
 正直、わけがわからなかった。宇木草じゃないとしたら誰なのか。全く見当がつかない。
 頭の怪我も治り、退院する日がきた。記憶喪失の自分を哀れんだのだろうか、病院の人が衣類など最低限の身の回りのものをボストンバッグに入れて用意してくれた。警察の人は、ポケットマネーからいくばくかの金を渡してくれた。
 ボストンバッグを胸に抱え、街を歩く。もちろん知らない街だ。何もかも見たことがなく、ここがどこなのかもわからない。
 途方に暮れる。
 私は本当は誰なのか。自分が何者かもわからずに、何ができるのか、何ができないのかもわからずに、これからどうやって生きていけばいいのか。
 少しでも手がかりが欲しいと、まずは免許証に書いてある住所に向かうことにした。もしかしたら私は本当に宇木草鞍史なのかもしれない。自宅を見たら思い出すかもしれない。
 その住所はアパートのようだった。電車を乗り継ぎ、駅から二十分くらい歩いて着いたその住所は、駐車場だった。近所の人に聞いたら、アパートはとっくに壊されて駐車場になったということだった。
 手がかりに思えたことが潰え、彼はとぼとぼと来た道を引き返した。行くあてもない。今日泊まるところもない。金はたくさんあるわけではない。彼は、昼は図書館やショッピングセンターのフードコートで時間を潰したりし、夜は二十四時間営業のレストランでコーヒー一杯で粘ったりした。金を節約するために、ビルの裏や駅の通路に寝泊まりもした。やがてネットカフェの存在を知ったが、居るだけで金がかかる。数日に一度シャワーを浴びたりするために利用するにとどめた。
 そのネットカフェで仕事を探しもした。だが記憶を失った彼には履歴書に書くことがない。職歴も知らず、住所不定で、電話番号も書けない。仕事は自ずと日雇いの派遣労働などに限られ、それらの金はネットカフェの利用料や日々の食事などに費やされた。また、寝るところもまともにない生活と慣れない仕事は彼を心身ともに疲弊させ、毎日は働けなくなった。そのため常に金銭的には困窮し、食事は偏り、また節約のため野宿をするなどしたため体調は悪化し、それが働くことの制約になるという悪循環に陥った。
 もはや自分が誰かとか考える余力も無くなり、ただただ金欠に脅迫されながら先のない仕事をしていた。苦しくて仕事に行けない日は、自分の無力と無能を責め、泣きながら倒れたように体を地面に横たえることもあった。
 だが、そんな彼に自分の記憶をたどるチャンスが来た。
 ある仕事のない日、彼は日中時間をつぶすため、ショッピングセンターのフードコートで休み、水を飲んでいた。日曜日らしく(もはや曜日の感覚も無い)、周りは家族連れで賑わっていた。自分を囲む幸せな風景が、また彼を苦しめた。
 その時である。
 聴き覚えのある歌声が彼の耳に入ってきた。それは記憶の深いところを刺激する、耳に馴染みのある歌声だった。彼はまるでそうしなければならないかのように、歌声の聞こえてくる方へ足を向けた。
 ショッピングセンターの中央にあるイベントステージで一人の女性が歌っていた。いや女性というか少女か。白いフリルとレースにつつまれたワンピース姿で、大勢の観客がそれを観て、歌を聴いていた。観客は中高年の男性が多いように見えた。ステージの周りに貼ってあったポスターによれば、彼女は「三浦桜」という名前のアイドルらしい。
 歌が終了すると、彼女は挨拶をしてステージから去った。そしてもう一度出てくると、ステージ上では握手会がはじまった。さっきまで歌を聴いていた人々は列をなしてステージ脇の横長テーブルに積まれたCDを買い、ステージ上の彼女と順番に握手をしていた。CDを買うと握手と、少しだけ話しができるのだ。彼にとってはよくある光景に思え、さも当然のように自分も同じように列に並び、CDを買った。金はだいぶ減ったが、なぜか買わなければいけない気がしたのだ。
 列はじわじわと進み、自分の番が来たのでステージに上り、三浦桜と握手をする。
 彼女は驚いたように声をかけた。
「スーツさん久しぶりじゃないですか!どうしてたんですか?」
 彼女は自分のことを、スーツさん、と呼んだ。それが自分の名前なのだろうか。しかしどう考えても本名には思えない。
「今日はスーツじゃないんですね。超めずらしくないですか?」
 ヨレヨレのシャツとジーンズ姿を見て、三浦桜はそう言って親しげな笑顔をうかべた。何か自分のことについて知ってるようだ。ここで質問するのも気が引けたが、やっとつかんだ手がかりを逃したくない。戸惑いつつ三浦桜に声をかけようとすると「ありがとうございました〜」と彼の背後に着いた係員のような男が彼の肩をつかんで横に引っ張り、握手を終わらせようとした。
 二人は手を離した。
「また、待ってますよ!」
 三浦桜は笑顔でそう言った。
 スーツさん。スーツさん。それが自分の名前なのか。
 そして、彼をスーツさんと呼びかける者が他にもいた。
「スーツさん最近来ないからどうしたのかと思いましたよ」
「っていうか、今日はスーツじゃないじゃないですか」
 三浦桜のファンと思しき男性らが二、三人近寄って声をかけた。年齢も服装もバラバラだったが、自分のことを知っている、それも口ぶりからするとずいぶん親しいようだった。思いきって、自分が記憶喪失になって本当の名前もわからなくなってしまったことを打ち明けた。
 それまで親しげな表情を見せていた三浦桜のファンたちだったが、どう接してよいのかわからないといった戸惑いの表情をうかべた。それでも、なにかできることはないかと話し合った。
「ほら、これがスーツさんのページですよ。なにか思い出しませんか?」
 ファンの一人が、ネット上にある三浦桜ファンSNSの“スーツさん”のページをスマホを使って見せてくれた。そこには実に楽しげに三浦桜のライヴについて語ってたり、他のファンとの交流している書き込みがあった。
 やはり何も思い出せない。当然“スーツさん”のSNSにログインすることもできなかった。
 恐る恐る、彼らに訊いてみた。
「私の本名は、“宇木草鞍史”というのだろうか」
 だが、彼らはスーツさんの本名を知らないという。三浦桜のライヴ現場とネット上だけの付き合いなので、彼らお互いも本名も素性も知らないというのだ。それは彼らにとって、ファン活動を楽しむ上での暗黙のマナーのようなものだという。ちなみに、スーツさんという呼び名は、いつもライヴ等に高級そうなスーツで来るので自然とそう呼ばれるようになり、三浦桜もスーツさんで覚えているという。
「難しいかもだけど、気を落とさないでくださいよ」
「桜ちゃんの歌を覚えてたんなら、通ってるうちにまた何か思い出すかもしれない」
 なぐさめとわかっていても、その言葉はうれしかった。だが、ようやくつかんだと思えた手がかりは、またしても消えてしまった。
 そしてまた、ネットカフェ、図書館、路上、ショッピングセンターをめぐりながら仕事をする日々が続いた。全身の疲れはやがて痛みに変わっていき、少しでも体を休めるためにネットカフェの利用が増えていった。そのぶん金がかかる。仕事を増やさなければ。だが体調は悪くなる一方だ。なるべく体を使わないような仕事をと、ネットカフェのパソコンで今まで以上に丹念にチェックした。
 そうして求人情報をネットで探しているある日、驚くべき記事を発見した。
 それは、今をときめくITベンチャー企業で顔認証システムの開発・製造で急成長している「デルフォイ」社の求人情報だ。企業情報の欄にあった社長の写真と名前を見て、脳内にあったもやもやのカケラが急速にクリアになり、無数のカケラが急速に一点に集中し、カチリと音がするように相互にピタリとハマった。
 デルフォイ社。そこに掲載されている写真の男・志如大介が、自分だとハッキリ気づいた。
 この顔も、この会社も、全て覚えている。私が、私こそが志如大介だ。
 自分の名前がわかったところで、その名で検索してみた。会社の情報、ニュース記事、そして自分名義のSNS。全てに覚えがある。まさしく芋づる式に記憶が掘り起こされた。
 だが、SNSの最近の記事を見て戸惑った。つい最近も更新されているのだ。その日付は、明らかに自分が入院し、そして自分が記憶を失いさまよっている間なのに。社員らと楽しげにバーベキューをしてる写真、夜景のきれいな高級レストランで妻と食事をした写真、緑の多い景色を背景に愛車の屋根に肘をついた笑顔の写真。
 どういうことだ。この男は間違いなく自分だ。だが自分が記憶をなくしている間も、“志如大介”はこのような日常を過ごしている。
 志如大介は私だ。その強い想いと現状への戸惑いを抱えながら、彼はデルフォイ社へ行くことにした。社員らが出勤する朝に合わせ、会社のビルに向かった。
 ビルへ入っていく社員たち。もちろん全員顔を知っている。そこへ、見覚えのある白い高級セダンが半地下駐車場へ入っていった。運転席の男が自分とそっくりで目を疑うと同時に、事のあらましがわかりかけてきた。
 誰だが知らんが私と極めてよく似ている男が、私になりすましているのだ。思えば、私は首を絞められ、頭を壁に叩きつけられ、入院していた。あの男が、あの男が私を殺そうとしたのだ。
 白い高級セダンから男が降りてきた。その男が来ている立派なスーツは、私のものだ。
 本物の志如大介が、白い高級セダンから降りた男にくってかかった。
「貴様、何者だ!よくも私になりすまそうなどと!」
 そう言われた偽物の志如大介こと宇木草鞍史は一瞬ギョっとし、ひるんだ。まさか本物の志如大介が生きているとは思ってなかったからだ。
 本物の志如大介は宇木草の胸ぐらをつかんだ。
「ここは私の会社だ。今すぐ立ち去れ!」
 なにやら駐車場から大きな声がすると出勤中の社員が数名遠巻きに見つめる。警備員も駆け寄ってきた。
 宇木草は無理やり余裕のある半笑いの表情を見せ、胸ぐらをつかんだ志如の手をふりほどいた。
「何を・・・何を言ってるんだねキミは」
 後を頼む、と警備員に声をかけ、志如大介の服を着た宇木草は立ち去った。
「待て!」
 なおも宇木草を追おうとする志如を、警備員が止めた。志如はその警備員の顔も知っていたし、警備員も志如の顔を見て軽く驚いた。だが、いつもどおり白い高級セダンに乗って高級スーツで出勤した社長と、疲弊した生活ですっかり具合の悪い顔をした頭ボサボサで無精ひげでヨレヨレのシャツとジーンズ姿の男と、どちらを信用するかは明白だった。
 押し問答の末、警備員が言った。
「これ以上騒ぐと警察を呼びますよ!」
 警察。その言葉に本物の志如大介は体の動きが止まった。自分の身の証を立てる方法が無いことを思い出した。持っているのは“宇木草鞍史”の免許証だけだ。この免許証が私のものでないと(私のものでないと)どうやって証明しようというのだ。
「さあ、帰った帰った!」
 警備員は犬を追っ払うような仕草をして本物の志如大介をニラんだ。志如大介は為す術もなく、トボトボと会社を去るしかなかった。
 しかしこのままではおさまりがつかない。志如大介は自分なのだ。自分が志如大介なのだ。こんな理不尽がまかり通ってなるものか。
 そうだ。妻だ!桃なら私のことをわからないはずはない。志如大介は思った。自分が記憶を失っている間に、志如大介名義のSNSに夜景のきれいな高級レストランで妻と食事をした写真がアップされていることをすっかり忘れていた。
 志如は自分の家に向かった。もはや完全に思い出した。間違えるわけがない。志如は確信を持って、玄関の呼び鈴を押した。
 大きめの玄関の扉が開き、桃が顔を出した。それを見た志如はうれしさに表情をやわらげた。
「桃!」
 突然大きな声で自分の名前を呼ばれ、桃はドキリとしてやや後ずさった。
「桃、私がわかるよな。大介だ!」
 桃の目の前に立っているのは、小汚い格好で不健康そうな顔色の男で、とても自分の夫とは思えなかった。
「朝、クルマに乗って会社へ出ていったのはニセモノなんだ。私と極めてよく似た別の男なんだ。わかるよな。桃ならわかるよな!」
 その声からは焦りと圧力がヒリヒリと伝わってきた。
 桃は戸惑った。正直、何を言っているのかと思った。確かに、この男は頭ボサボサで無精髭で顔色も気味悪いが、大介に似てると言えば似てるかもしれない。背恰好も似ている。ちゃんと身なりを整えてきれいな服を着れば夫のように見えるかも、とは思った。
 だからといって、それがなんだというのだ。
 わけがわからない。夫とよく似た男が夫になりすまして私と生活してた?そんな突拍子もないことをこんな怪しげな男に言われて、信じろという方が無理だ。
 それに。
 私はずっと、今朝まで、さっき出社した大介と一緒にいたのだ。寝食をともにしてきたのだ。抱かれたのだ。ITベンチャー社長で、この家の主で、毎日素敵な姿で仕事をする志如大介こそ、私の夫なのだ。
 それがよく似た別人だったなんて。全く違う男に私は抱かれてたというの?そんなの、ありえない。私の夫は、決してこの薄汚れたキモチワルイ男ではない。
 桃はそう決めた。決めたのだ。
「あなたは大介じゃないわ」
 ゆっくり、慎重に、しっかり相手に伝わるように、桃は言った。
「バカみたいなこと言わないで。帰ってちょうだい」
 そう言って桃は扉を閉めようとしたが、志如は扉に足をはさみ、手をかけ、食い下がった。
「待て!桃、本当に私がわからないのか」
 志如はやや涙声気味に言った。その表情は哀願しているように見えて、桃を戸惑わせた。だが決めたのだ。
「ええ、あなたの言うことはさっぱりわからないわ。私の夫は会社に行ったあの人です。あなたじゃない」
 そう言われた志如は全身の力が抜け、扉から手をはなし足を外した。
 玄関の扉は急にバタンと閉まり、カシャンと鍵のかかる金属音がした。
 この扉は、自分が毎日毎日使っていたのに。
 志如大介は、“自宅”から去らざるを得なかった。最後の希望を断たれ、その足取りは重く、歩いてるだけで感じる全身の痛みがいつもにもましてつらかった。
 どこにも行くところがない。
 志如大介はあちこちをふらふらとさまよった。自宅のまわりも、会社のまわりも、街の風景も、全部知っている。見慣れている。自分は確かにここで生活していたのだ。私は志如大介だ。確信してる。だがそれを信じてくれる人もいないし、証明する方法も無い。
 免許証の再発行も考えた。だが調べてみると、免許証の再発行には住民票が必要で、住民票を請求するには免許証やパスポートなどの本人確認書類が必要だという。なんということだ。手のうちようがないではないか。
 もうだめだ。
 精も根も尽き果て、ある日、志如大介はある長い橋の上にたどり着いた。この橋から見る光景にも覚えがあったが、今となってはそれもどうということはない。
 橋の下には広く、太く、黒い川が流れている。
 空がオレンジ色に染まり、やがて闇につつまれる。こんなに空をしげしげと見たことがあっただろうか。
 時間だけはたっぷりある。しかし他には何も無い。全て無くなってしまった。
 もう終わりにしよう。
 志如大介は靴を脱いで揃えると、遠くを見つめながら欄干に手をかけ、それを乗り越えようと足をかけた。
 その時、何者かが志如の体を後ろからグイと引っ張り、志如は転んだ。
「何やってんですか!ダメです、死んじゃダメです!」
 志如を引っ張った人間も一緒にころんだ。志如がその男の顔を見ると、なんと自分と全く同じ顔をしていた。
 引っ張られたことに驚き、そして相手の顔が自分と同じことにさらに驚き、志如は興奮しながらその男の胸ぐらをつかみ、そのまま男を地面に叩きつけた。
「貴様!貴様が私から何もかも奪ったのではないか!返せ!会社を、妻を、私の人生を返せ!」
 半狂乱になって叫ぶ志如に対し、男は抵抗しながら困惑の表情を見せ、必死に叫んだ。
「どうしたんですか志如さん?ボクです、瓜歩です、瓜歩達也です!以前あなたに命を助けてもらった・・・!」
 その名前を耳にして、志如は胸ぐらをつかんだ腕をゆるめ、瓜歩達也の顔をまじまじと見た。
 思い出した。
 瓜歩達也がまさしくこの橋から身投げしようとしてたところを、たまたま通りがかった志如が止めたのだった。互いの顔を見てまるで鏡みたいだと驚きながら、志如は瓜歩からワケを聞いた。豊かとは言えない家庭に生まれた瓜歩は奨学金制度を利用して大学へ進学し就職したが、その返済のため無理をして働いたため心身も生活もボロボロになり、悩み苦しんだ挙げ句自殺しようとしたと。その話を聞いた志如がまとまった金を渡し生活を再建するよう説得したのだ。見ず知らずの人にそんな施しは受けられないと瓜歩は断ろうとした。だが志如は、通りすがったのも何かの縁、自分と同じ顔の人間は他人とは思えない、施しがいやなら、あるとき払いで返してくれればいいと強く言って瓜歩を助けた。
 おかげで瓜歩も余裕のある収入を得られる仕事に就くことができ、生活も落ち着きを取り戻した。これから志如に返し始めようと矢先、その志如がまさにかつての自分のようにこの橋から飛び降りようとしているのを目にして、必死に止めたのだ。
 二人は橋の欄干にもたれ、志如は瓜歩に事情を話した。何者かに襲われ、殺されかかって記憶喪失になったこと。自分と同じ顔をした何者か(おそらく免許証の宇木草鞍史)が自分になりすまし、会社も家も乗っ取られてしまったこと。自分の身の証を立てる方法が無いこと。
 世の中に同じ顔をした人が三人いるとは言われてるが、本当にいるとは思わなかった、と、同じ顔をした二人は軽く笑った。
 瓜歩達也は目の前の男が志如大介だと確信していた。自分のことを覚えていたのが何よりの証拠だ。とはいえ、それを第三者に証明する方法は、ない。
 二人は黙った。志如は、ここで話しても何も解決しないよなあとの諦めから黙っていた。一方の瓜歩は考えていた。志如大介がもとの生活に戻る方法を。それが恩返しだと思ったからだ。
「もう一度、入れ代わればいいんです」
 長い沈黙の後、瓜歩達也が言った。
「なんだって」
「その、持たされていた免許証の宇木草鞍史ってのが、志如さんになりすましてるんですよね」
「ああ。おそらくこいつだろう」
 志如は宇木草鞍史の免許証を取り出して瓜歩に見せた。
「こいつが志如さんと入れ代われるんだったら、逆もできるってことじゃないですか」
「かもしれん。しかし私が本物だと言うのに、殺人のような危険なマネをするのは合点がゆかん」
「ボクにもできるってことです」
 志如は軽く驚いて、瓜歩の顔をマジマジと見た。
「ボクが、志如さんの人生を取り戻してみせます。ボクを救ってくれた恩返しのつもりです。やらせてください。志如さんには決して迷惑はかけませんから」
 瓜歩は、志如の手から宇木草鞍史の免許証を取った。
「どうするんだ」
「ボクが宇木草鞍史を始末します」
 その言葉に、志如は驚きを隠せなかった。
「しかし、それは・・・!」
「宇木草鞍史を始末したあと、ボクが一時的に志如さんになりすますんです。そうしたら、あとはボクと志如さんが入れ替われば、何もかも元通りです」
「何か良い方法があるのか」
「細かいことは知らないほうがいいですよ。なんかあったときに、なまじ知ってるといけませんから」
 それから瓜歩は会社に電話をし、インフルエンザになったから完治するまでしばらく出社しないと告げた。そしてスマホに自分の住所を表示させると、自分のアパートの鍵とスマホを志如に手渡した。
「しばらくボクのアパートにいてください。どうせ訪ねてくる人もいませんし、そう時間はかからないはずです。事が終わったら連絡します」
 志如は一抹の不安を覚えたが、瓜歩はまさしくいいアイデアを思いついたという感じで、軽い足取りで去っていった。

 瓜歩達也が考えた手はこうだ。瓜歩が志如になりすました宇木草を殺し、瓜歩が志如にとってかわる。その後、瓜歩が志如と入れ替われるというものだ。万が一、宇木草を殺したことがバレても、犯人は瓜歩だ。元々死のうとしてたところを助けてくれたのだ。志如の人生を取り戻す、それが今、自分にできる最大の恩返しだ。仮に刑務所行きになったとしても、命の恩人のためならば、それもかまわない。瓜歩はそう思っていた。もちろん、捕まらないにこしたことはないが。
 まず、宇木草鞍史の免許証でレンタカーを借りた。これで、宇木草鞍史が生きているという“証拠”ができた。そのレンタカーで郊外のホームセンターへ行き、キャリーバッグを買い、レンタカーにしまう。
 その後またレンタカーを走らせて、やはり郊外にあるコンビニの大きな駐車場にレンタカーを停めた。郊外のコンビニの駐車場は長距離トラックの運転手らが利用するためやたら広い。誰が止めたかなどいちいち気に止めるものはいないし、防犯カメラも無い。
 そして瓜歩は徒歩と電車でデルフォイ社ビルの半地下駐車場へ向かった。その道すがら、おそらく生涯で二度と利用しないであろう100円ショップでガムテープを買った。手袋とサングラスも買い、身につけた。
 瓜歩は志如から事件が起こった時の話も聞いていた。顔が同じだから志如の白い高級セダンの顔認証が作動してクルマの中で待ち伏せすることができたであろうことも。
 その手を瓜歩も使うことにした。キャリーバッグを使うことも含めて、宇木草鞍史への意趣返しでもある。
 人気のないのを確認しながら、半地下駐車場に停めてある志如の白い高級セダンに近づく。ドアに手をかけようとすると、ガチャリと音がしてロックが外れた。「ホントに開いた」瓜歩は驚いて思わず声が出てしまった。心の中で冷や汗をかきながらも周囲を見渡し、すばやく白い高級セダンの後部座席に入り、床に横たわった。
 そろそろ終業時刻だ。やがて志如大介になりすました宇木草鞍史がくるはず。
 瓜歩が耳をすましながら待っていると、駐車場にカツカツと足音が響き、近づいてくる。瓜歩は腰のベルトを外して手に握った。
 足音が止まり、ガチャリと音がしてドアが開いた。志如になりすました宇木草鞍史が我が物顔で運転席に座る。その時!瓜歩は手にしたベルトを宇木草の首に巻きつけ後部座席に引きずり込み思いっきり締めた。バタバタと抵抗はするが、宇木草はやがて静かになった。
 宇木草が動かなくなったことを確認すると、自分と宇木草の服を交換した。宇木草の服(つまり自分がさっきまで着ていた服)のポケットに宇木草鞍史の免許証をそっと入れた。その後急いで宇木草の体をガムテープで縛り、死んでいるとは思ったものの、一応目と口にも貼り付けた。
 瓜歩は、早まる鼓動を自覚しつつ平静を装いながら運転席に座り、気持ちをおさめるために深呼吸を何度か繰り返した。
 エンジンをかけ、はやる気持ちをおさえつつ白い高級セダンを発進させた。瓜歩は自動車の免許証を持っていなかったが、ハンドルアクセルブレーキくらいはゲームセンターのレースゲームで知ってたし、ナビに行き先を登録すればあとは指示通りにクルマを操作するだけで走行できた。
 白い高級セダンを運転し、レンタカーを停めたコンビニに着いた。コンビニの広い駐車場に停めたレンタカーの隣りに自分が乗ってきた白い高級セダンを停めると、レンタカーからキャリーバッグを出し、白い高級セダンの後部座席に入れ、宇木草をキャリーバッグに詰めた。
 瓜歩は宇木草の入ったキャリーバッグをレンタカーに積むと再びレンタカーを運転し、前もって調べていた山奥の崖上の場所へ行き、そこへキャリーバッグを落とした。すでに日は暮れており、キャリーバッグは音もなく闇に吸い込まれていった。レンタカーで先ほどのコンビニ駐車場に戻ると、白い高級セダンに乗り換えて駐車場を出た。
 これでいい。
 レンタカーはコンビニに置き去りにした。返却されなければ怪しまれるかもしれないが、なんせクルマを借りた宇木草鞍史は死んだのだ。そう、死んだのだ。もうどうにもならん。仮にキャリーバッグが見つかったところで、宇木草鞍史は自分でレンタカーを借りて自分で山奥へ運転して自分でキャリーバッグに入ったのだ。道路に設置され自動車のナンバーを読み取るNシステムのカメラでもし私の顔が捉えられてたとしても、なんせ宇木草鞍史の顔をしているのだから、警察もさぞ困るだろう。
 さて、あとは志如さんと入れ替わればそれで全て元通りだ。そう安心していたところで、スマホに着信があった。さきほど宇木草と服を交換したときにポケットに入ってて、そのまま今は瓜歩が持っている。もちろん元は志如大介のスマホである。瓜歩は白い高級セダンを道の脇に停めて電話に出た。
 相手は、志如大介の妻・桃であった。
「あなた、今日はずいぶん帰りが遅いけどどうしたの?遅くなるときは連絡ちょうだいっていつも言ってるじゃない」
 瓜歩の耳元でそう言う桃の声は、自分を責めるというよりは心配そうであった。瓜歩には、桃がとても優しく感じられた。肉親以外の女性にこんなに優しい声をかけられたことが今まであったろうか。瓜歩がそう思うほどに桃の声はすべてを受け入れてくれそうに感じられた。
「あ、ああ。ごめん。すぐ・・・帰る」
 瓜歩は動揺を悟られないように平静を装って返事をした。支度して待ってるからね、と電話は切れた。
 握ったスマホを見つめながら、瓜歩の頭にある想いが湧き出てきた。
 一度くらい、志如大介の生活を味わってみたい。
 瓜歩も、志如の現在の生活についてはある程度知っていた。会社が順調なこと。元レースクイーンの妻と都心の一軒家で暮らしていること。等々。
 今まで志如大介に対しては、感謝の気持ち以外の感情を持ったことが無かったが、妻・桃の声を聞いてはじめて「うらやましい」と思ってしまった。
 今、自分は志如大介なのだ。
 これから志如大介として生きることは、できるのだろうか。できるかもしれない。宇木草鞍史ができたのなら、自分にもできるはずだ。
 しかし、志如さんは自分の人生を救ってくれた人だ。裏切るようなことはできない。できないが・・・一晩くらいならいいのではないか。こっちには殺人者というリスクがある。万が一犯行がバレたら刑務所に行くのは自分なのだ。そんな危険を冒しているのなら、一晩くらいいい夢見させてもらっていもいいじゃないか。
 瓜歩はそう自分を納得されると、白い高級セダンを運転して“帰宅”の途についた。
 玄関のドアを開けると、桃が出迎えてくれた。
「おかえりなさい」
 その明るい声と笑顔の包容力に、志如になりすました瓜歩は人生ではじめて感じる心の響きに動揺し、つい目線が泳いでしまった。
「・・・どうしたの?」
 いかん。バレてしまう。瓜歩は静かに深呼吸をした。
「あ、いや・・・少し疲れてね」
「お風呂先にする?」
「あ・・・ああ」
 成り行きで風呂に入ることになったが、瓜歩は浴室や浴槽の広さに驚いた。瓜歩のアパートには湯船が無くシャワーだけだった。実家を出て以来何年ぶりかに足を伸ばして入浴し、その心地よさに感動した。
 その後、二人で食事をした。人生で金銭に余裕があったことなど一度も無く、勉強や仕事に追われる日々を過ごしてきた瓜歩は、彼女とかガールフレンドとかいう存在とは無縁の青春だった。自分と一緒に笑顔で食事をしてくれる女性が目の前にいることに涙が出そうになる感動を覚えた。
 そしてその夜、瓜歩は桃を抱いた。こんな素敵な女性との体験は瓜歩にとってはじめてだったし、おそらく今後の人生でもないだろう。もはや自分が志如大介でないことがバレてもいいという勢いで快楽を存分に味わった。
 果てた瓜歩はそのまま眠り落ち、朝となった。瓜歩が目覚めた頃には朝食の用意ができていた。どうやら怪しまれなかったようだ。
 会社でも怪しむ者はいなかった。高級スーツを身にまとい、白い高級セダンに乗って出勤した瓜歩を、志如大介だと皆信じ切っていた。めんどくさいことは全て部下がやってくれた。多少わからないことがあっても机にあるパソコンで調べればだいたいなんとかなった。なんせ社長だけに、全ての情報にアクセスできる。何か失敗しても「社長疲れてるんですよ」などと社員たちが気遣ってくれた。あまりに自分の周りの人間に親切にされ、瓜歩は、人はこんなにも他人に優しくなれるのかと驚いた。だがそれは瓜歩に対してではなく、志如大介に対してのものだ。人も羨む急成長ITベンチャー企業の社長で、金と権力を持つものだけが味わうことができる境遇。まわりに気を使い上司などに不興を買うことを恐れて地べた這いずり回るような生活はなんだったのかと、瓜歩は自分のこれまでの人生との差に怒りを覚えた。だが今、志如大介の生活は自分のものになったのだと思うと、怒りは一瞬で消え失せた。
 瓜歩は、この生活をできるだけ長く味わいたいと思うようになった。バレたらバレたでその時はその時だ。
 一方、志如大介は瓜歩の自宅アパートでずっと連絡を待っていたが、待てど暮らせどスマホは鳴らなかった。おそらく倹約生活をしてたのであろう、部屋には余分な食料などなく、少ない所持金で暮らしつつも限界が近くなっていた。さっき大家が家賃を取りに来た。今持ち合わせが無いからもう少し待ってくれとなんとかやりすごしたが、もう限界だ。
 志如は、瓜歩のアパートを出た。
 なぜ連絡が来ない。もしや瓜歩は失敗したのか。宇木草鞍史を始末するつもりが、瓜歩のほうが殺されてしまい、今でも宇木草鞍史が自分のフリをしてるのか。そう考えた志如は会社へ向かった。そこにいるのが宇木草鞍史なら、計画は失敗したということだ。
 終業時刻間際、志如は会社の半地下駐車場の入口から白い高級セダン(それはもちろん志如のクルマだ)を見張った。ここなら必ず“社長”が必ずやってくる。
 そして白い高級セダンに人がやってきた。あれは・・・。クルマに乗ろうとドアに手をかけた男に、志如は早足で近づいた。
 足音に気づいた男は、その方向を振り返り志如のことを確認すると、この世の終わりのような表情になった。
「・・・瓜歩か。瓜歩達也だな」
 いくら顔が同じでも、一度面識がある人間なら見間違わない。こいつは瓜歩達也だ。志如は詰め寄ろうとしたが、瓜歩はあわてて運転席に乗り込み、エンジンをかけると猛スピードで発進した。志如はあやうくはねられそうになり、身を倒しかわした。白い高級セダンはタイヤの悲鳴とともに半地下駐車場を出ていった。
「ボクが、ボクが志如大介だ!志如大介なんだあ!」
 悪事の露見した犯人がそうするように(この場合の悪事は殺人ではなくなりすましだが)脇目も振らず逃げるべくアクセルを踏んだ。
 駐車場で唖然とし立ち尽くしていた志如の耳に、遠くから急ブレーキと破壊的な激突音が聞こえてきた。
 何事かと音の方向へ走っていくと、瓜歩の乗った白い高級セダンは大型ダンプカーと電柱の間に挟まれてグチャグチャになっていた。やがて警察と救急車が来て、警察はダンプカーの運転手に事情を聞いていた。警察や救急隊員らのやりとりを見ると、どうやら白い高級セダンのドライバーは即死したようだ。
 その後、“志如大介”の葬儀が行われた。志如は、自宅で自分の葬式が行われているのを遠くから見つめていた。妻は泣いているようだった。その涙は誰に対してのものか。自分のために泣いてくれているのか。それとも宇木草か。瓜歩か。
 

 志如大介は死んでしまった。では自分はいったい誰なのだ。仕事をしようにも、もはや名前すら無い。手持ちの金はわずかだ。この世に自分の生きる場所は無いのか。そんなことをぼんやりと考えながら、いつしかショッピングセンターのフードコートに座り、無料の水で空腹をごまかしていた。
 そこへ、聞き覚えのある歌声が聞こえてきた。
 知っている。確実に知っている。これは三浦桜の歌声だ。
 ショッピングセンター中央のイベントステージで、三浦桜が歌っていた。客席では知っている顔が何人も三浦桜を応援していた。三浦桜は駆けつけた自分に気づくと、目で合図を送ってくれた。それは自分を知ってくれているという意味だとすぐにわかった。
 ミニライヴが終わると、三浦桜のファン何人にも取り囲まれて、親しげに声をかけられた。
「スーツさん!また久しぶりじゃないですか。どこいってたんですよ」
「スーツさん!桜ちゃん寂しがるから来なきゃダメですよ〜」
 自分を知ってくれている人がここにはいるのだ。そうだ。自分が何者でもいい。自分はここに生きているのだ。なんの理由もないが少しだけ安心し、希望があるように感じられた。

【了】

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