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私の一年とこれから

昨年の自分を何かに喩えるならば、まるで大海に漂う根無し草のようであったと思う。目指したい陸地はあるのに海にふわふわと浮かぶことしかできず、なかなか陸地に根を張れなかった。ときにその様を客観的に見ては悲観的になったり、ときに「今は浮いているしかない」と割り切ったり、全体的にたくさん悩んだ年だった。

一番の理由は昨年の5月からずっと病院に通っているからだ。

ここでは特に詳細まで触れないが、自分にとってここまで長期的に病院に通うことになったのは人生で初めてのこと。これまで味わったことのない、大きな大きな壁が目の前にどーんと立ちはだかっている感覚だ。

これまでと何が一番違うかと言うと「自分ではどうにもできない」という一点に尽きる。自分が頑張れば結果が付いてきたり、お金で解決することができない。

それでもこの事実にひとつだけ感謝していることがある。それは「マイノリティの立場を知ったこと」である。

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思えばこれまで、社会的少数派(マイノリティ)を経験したことがなかったのかもしれない。

仲の良い両親のもとに生まれ、満足に教育を受けさせてもらい、大きな事件や事故に見舞われることもなく、ずっと健康体で生きてきた。ここまでの人生を振り返ってみると、なんて贅沢な日々だったのだろうと思う。そのくせ置かれた環境に満足することを知らず、無駄に人生を嘆いたり、欲張ったりすることが多かった。

確かに一般的に若い頃は何事にも満足しにくい性質があるそうだけれども、それが単に若気の至りでフツフツしているのか、当事者として体験している事柄があるのか(マイノリティの立場を経験しているのか)の区別はつきにくい。

そういう意味で、自分はこれまで単に若気の至りで煮え切らない気持ちを勝手に持っていただけであって、マイノリティの立場など一切無縁だったのだろう。

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病院に行くとそれなりに検査や治療があって、痛みがあることもある。診察台に上がるのが時々怖くなり、診察前の待ち時間で緊張して冷や汗をかいたこともある。薬は副作用もあるから、ものによっては体に合わず吐き気がして洗面台でじっとすることも。

この手の話ならばいくらでもあるのだけど、個人的にはそれよりもつらいのが「仕事」についてである。

病院通いを始めてから、仕事について延々と悩み続けてきた。取りたかった資格にも合格したし、業界での経験を積みたい気持ちも大きかった。働きに行きたかった。

だけれども、治療のことを考えるとそうもいかなかった。通院のスケジュールもまちまちで、いつ体調が悪くなるかも分からないなかで、とてもじゃないけど働きます!とは言えない。この状況に、何度も何度も悔し泣きをした。働きたいのに働きに行けないって本当につらい。

特に自分を苦しめたのは、自分が一体なんのために存在しているのか分からなくなったことだ。誰からも必要とされていない。職場に行けば挨拶があって、上司から感謝されて、同僚とコミュニケーションが取れて、そんな何気ないオフィスの日常風景が思い出された。

それでも最近はこの壁を徐々に乗り越えることができてきている。

理由は、最近会社の倒産ニュースが多いことだ。もう以前みたいに会社に頼って生計を立てる時代は終わろうとしている気がしてならない。そうであるならば、働きに行けないことを機会だと捉えて、自分に確かな力を付けよう。

そう思い、取った資格を自分なりに活かす方法を模索しながらゆっくりと進んでいる。「働く」とは必ずしも組織に所属しなければいけないわけではないと思う。事情があるなら、ミニマルな規模でやりたいことが小さく叶えられることをやるだけでも満足なのではないだろうか。

もともと個人事業を細々と行っていたこともあり、自分の事業に専念すべきというお告げとも捉えている。これまでは何処かへ働きに行くという選択肢を残しておきたかったけれど、いよいよ事業と真正面から向き合うタイミングであるのかもしれない。

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なんとなくいま、以前より「優しい人間」になれている気がする。

同じように治療で大変な思いをしている人がいるだろうな、仕事に関して思い通りに活動できずコンプレックスを抱えている人がいるだろうな、存在意義を見出せず寂しい気持ちになっている人がいるだろうな、そんなことが手に取るように分かるから(より苦労されている方は山ほどいると思うけれど……)。

他者とのコミュニケーションのなかで、聞いて良いこと悪いこと、言われて嬉しいこと悲しいこと、そんなことも以前より分かってきた。何も言わず掘らずただ寄り添う、それもまた優しさなのではないかと思う。

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