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賛成は「人」?「意見」?

今でも時々思い出す中学生の時の話。もう40年以上も前のこと。ある委員会の会議の場で、担当の教師が「意見があります!」と手を挙げた。
その次に教師は「私の意見に賛成する人は、手を挙げて。」とぬかした。(汚い言葉を使って申し訳ないが、その時の自分の気持ちをそのまま表現したものです。)
まだ15歳前後の自分は「はぁ?」と、頭の中にでっかいクエスチョンマークが浮かび、即座に「意見も聞いていないのに賛成・反対も判断できません。そもそも、会議は意見を発表してから賛否を問うものでしょう!」と抗議した。ところが、ノリのいい生徒が「賛成します!」などといったものだから、教師は私の抗議は受け入れずそのまま会議が進んだ。今でも腹が立つ。

ところが、月日がたってみると、日常生活の中であの教師がいったことと同じようなことがよく起きているように思うことがある。

「言っていることはわかるが、あいつのことは虫が好かないから反対した。」だとか、「多少内容に問題があるが、支持している政党が言っていることだから賛成した。」といった評価をしばしばしているように思える。つまり、賛否、支持・不支持を意見ではなく、人物や属性で判断しているのだ。

ちなみに、自分は青臭い中学生のままの頭なので、仲の良い人が言うことであっても反対したり、いけ好かない人の意見でも同意できる部分があれば支持することもある。

話を大きくするが、民主主義では各人各様の意見を出し合い、その中から合意形成を図るプロセスを踏むが、その過程では「意見」そのものが重要ではないかと思う。どう考えても「人」ではないだろう。相手の属性などではなく、意見・考えに対して是々非々で賛否を表明できるようでありたいと思う。

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