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額田王は単なる采女だったのか

万葉集を少し齧ったことのある方ならば
額田王という名前は聞いたことがおありだろう。

   熟田津に 船乗りせむと 月待てば
   潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな

白村江の戦いに赴く時に詠まれたこの歌は
あまりに有名である。
(日本軍は唐に大敗するのだが)

名に王(おおきみ)と付くのなら
額田は皇族の一員だったはずなのだが
一説に鏡王の娘、と記述があるだけで
素性はよく分からない人物である。
単なる采女の一人であったという説が有力だ。


大化の改新で名高い天智天皇が
弟の大海人皇子(後に天武天皇となる)と
この女性を巡って争ったという言い伝えがある。

 香具山は 畝傍ををしと 耳成と 相争ひき
   神代より かくにあるらし いにしへも
   しかにあれこそ うつせみも 妻を 争ふらしき

これも万葉集では有名な『大和三山の妻争い』
と呼ばれる歌であるが、作者は天智天皇であり
畝傍山(額田王)を挟んで、耳成山(大海人)と
対立したという。

額田は最初に大海人皇子の妻となり
十市皇女を産んでいるが
その後、天智天皇の後宮に入った。

いかに美しい女性だったとはいえ、
単なる采女を巡ってここまで争うものだろうか。

昔からそこが疑問であった。
そして名前に「王」が付くのであれば
天智天皇が即位した際に皇后の位についても
おかしくないのではないか。

始めに挙げた熟田津の歌を、その観点から
改めて読むと、これはまさしく
王者か、王者になり代わる人の歌ともとれる。
采女が詠める歌とは到底思えないのである。

額田王の娘の十市皇女は、天智天皇の長男の
大友皇子と結婚したが、天智の死後
壬申の乱において天武天皇に敗れ
大友皇子は自殺した。

十市皇女はその後、天武の長男である
高市皇子と再婚する寸前に亡くなった。
(十市皇女と高市皇子は異母兄妹で、婚姻が可能)
この十市皇女の死因が、また謎なのである。

天武天皇の皇后・鵜野には草壁皇子という
一人息子がいたが、その最大のライバルである
高市皇子が十市皇女を妃にすれば
高市皇子が天武の後継者として
抜きん出た存在となる。
それが故に、十市皇女は鵜野皇后に
消されたのではないだろうか。

そこまで警戒されるほど、十市皇女と
その母である額田王は、高い身分だったと
考えられるのである。


では、額田王はいったい何者だったのか。

天智天皇の異母兄・古人大兄皇子の娘であり
天智が即位した際に皇后に冊立された
倭媛だったのではないか、と私は考えている。

古人大兄皇子は、天智の母・皇極天皇の
後継者と目されていたが、即位を固辞し
出家して吉野にこもった。
しかし、謀反の兆しありとされ、当時
中大兄と呼ばれていた天智に殺された。

薄幸の皇子である。
舒明天皇の長男であり、母親は当時天下を
牛耳っていた蘇我馬子の娘の法提郎女、
血統としては申し分ない。
額田王がその娘であれば、天智と天武が
争ってまで妻にしようとした訳も合点がいく。

大和三山の歌は、ただの恋のさや当ての歌ではなく
天皇位の行方をも左右する、高貴な女性
額田王を争った、政治的な歌だったのかもしれない。

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