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分業はどの程度が正解なのか?

18世紀の経済学者アダム・スミスが”Division of Labour”という言葉で示した「分業」は、社会における労働の生産力を高める原因であると考えられてきました。スミスいわく、分業を引き起こす原理とは、人が交換性向というコミュニケーションの原理を持っているからであり、分業の成立に伴って、人は必要なモノを交換によって獲得することができるようになったということです。

しかし、社会を経済的に合理化するこの分業ですが、極端に進みすぎると、様々な弊害が生まれることも分かっています。ここでは三つ、例をあげてみましょう。

一つ目が、高度に分業が専門化した結果、専門外の産業への無関心を生み、労働者の酷使につながる危険性です。これを最初に指摘したのは19世紀の社会学者デュルケームでしたが、20世紀を代表する哲学者であるレヴィナスも、他者の「顔」が見えにくくなることで、労働者の酷使がたちまち広がってしまう危険性を示唆しています。丸山真男が「タコつぼ化現象」という言葉で示した日本軍の悪弊も、同じ現象の別の側面だったかもしれません。

二つ目は、各個人が自発的に、自分が望む職務にあたることができず、望まない職務を担当することになってしまう「拘束的分業」です。こちらもデュルケームが指摘したことですが、市民間に「平等は正しい」というテーゼが広まっている現代では、分業の進歩は逆に、「平等な競争を行う」という、外在的条件の平等につながります。ざっくり言えば、「平等な競争市場」では、家庭や地域ごとの文化資本/社会資本の多寡は考慮されません。2年前、教育学者の松岡亮二さんが『教育格差』という新書の中で指摘していましたが、金持ちの子供はいい大学に受かりやすいのです。

また、分業は職業の専門化でもあるため、職務ごとの互換性が弱くなります。そのような社会では、もし一度、社会的に”下層”と思われている職務についてしまえば、より高度な技能を要求され、高い賃金を得ることのできる職に移ることはとても難しいのです。日本はジョブ型雇用ではなくメンバーシップ型雇用なので、この点はまだマシと言えます。それでも、「未経験の仕事に転職したらかなり低い賃金から始まる」というのはあるので、分業の弊害はやはり、こういうところに現れていると言ってよいでしょう。

最後に三つ目が、分業によって極端な専門分化、競争化が起こったことによる、会社横断的な産業組合の喪失です。雇主と職人の相互の義務は、たとえば中世ヨーロッパのギルドにおいては、すべての職務を統括する親方のリーダーシップにより、うまく調整することができていました。

しかし、これが近世・近代に入ってくると、職務の合理化のために親方身分は廃止され、職務ごとのバランスを調節する人材(いわゆるジェネラリスト)はいなくなってしまったのです。労働組合が会社内製のモノになってしまっては、労働者は同じ産業の別の会社に転職する機構・情報筋を持ちにくくもなるため、ジョブチェンジを盾に、賃金交渉を仕掛けることも難しくなります

ここまで分業の危険性・デメリットについて触れてきましたが、では分業をやめてみんなジェネラリストになりましょう!というのはあまりに経済合理性を損ないますし、現実的ではありません。

また、リモートワークが進んでいる現代では、職務の内容があらかじめジョブディスクリプション(職務規程書)で分かりやすく決められているジョブ型の方が、メンバーシップ型雇用よりも優れているのでは?という主張もあります。

大切なのは、分業の危険性を認識しつつ、それをうまくハンドリングしていくということではないかと思います。


          ——リリー,2021年3月31日.

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