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【ワンダーエッグ・プライオリティ】11話 感想

今回は最終回へ向けてアカ・裏アカの過去が語られる回でした。ここでは前回noteに書いた第9話までの感想を踏まえつつその続きとして、本作のコンセプトともに改めて第11話の感想を吐き出していきたいと思います。

アカ&裏アカの罪=野島伸司&受け手の罪

前段として前回かいた第9話までの感想の要約になりますが、本作を貫く大きな寓意として「少女の美しさの収集」=「少女の物語の創作」=「ワンダーエッグの量産」という仮説から、この作品が作家である野島伸司の「少女の美しさを消費する罪」(あるいは受けての罪)ということが主題として設定しているという立場を取りました。その前提から殻をやぶる新たな物語として、「ワンダーエッグ・プライオリティ」はそういった罪からの卒業を目指すというような内容をしっかりと提示できるかというところが本作の評価を決めるポイントだと考えています。(わりとシン・エヴァンゲリオンに構造としては近い)。ワンダーエッグ・プライオリティという言葉がたぶん誰もが謎だと思っていると思いますが「ワンダーエッグの優先度」と直訳すると上記の文脈においては「少女の美しさにこだわり表現こと」という行為は、「少女の犠牲はどこまで優先することが許されるのか」というよう命題の提示にも思えます。そう考えた場合、だからこそ、そのような「二律背反でない世界の価値の提示」がこの作品の目指すところであり、作品の価値そのものを決めるポイントだと考えています。

「空想-現実」の軸と「少女-大人」の軸が作る4象限

今回、裏アカが語る過去と今後のストーリーを把握する際、上記の4象限を用いて分類して考えることをオススメしたいと思います。

まず、【空想×少女】として作られたのが”フリル”。アカ&裏アカの「理想の少女」として作られた存在ですが、その【空想×少女】からの復讐というのが彼女の持つ寓意となります。フリルが行う復讐の形は以下の3つあるかと思いますがそれぞれ4象限を用いて考えたいと思います。

【現実×大人】への復讐
主にアカの側でおこった【現実×大人】である”あずさ”によって優先度をうばわれたフリルの復讐(あずさの殺害)


【現実×少女】への復讐
主に裏アカの側におこった【現実×少女】である”ひまり”によって優先度を奪われたフリルの復讐(ひまりへの自殺幇助?)

【空想×少女】あるいは拡張された【現実×少女】への復讐
フリルの復讐自体はひまりへの自殺にとどまらず、他の少女の自殺幇助という形で事件が起こっているならば(説明が十分でないので不確定ですが)、自分の優先度(プライオリティ)を奪う”ひまり”と同様の存在となりうる少女の排除という動機が考えられます。あるいは別の動機として、同じく【現実×少女】をこれ以上美しいまま成長しない少女”フリル”と同類の【空想×少女】として変換する行為(あどけない悲しみ?)よって【空想×少女】の価値の証明をすることで同族を生み出しそれによって自己肯定しているということも考えられます。

【空想×大人】を求める沢木先生のいびつさ

アカ&裏アカがワンダーエッグとアイ達を使うことによってどうやって、上記の復讐に対抗するつもりなのかは語られてない謎ですが「タナトスに対抗できるのはエロスの戦士しかいない」というのが今のところのキーワードのようです。がんばって紐解いていくとするならば、ワンダーエッグという現実の少女の自殺をもとに作られた【空想×少女】の物語を媒介にして力を付け、”フリル”とその子分を召喚し、【現実×少女】であるアイ達(かつ死を恐怖しないエロスの戦士)をぶつけることで、フリルによる?自殺事件を止めることができるというルールのようです。しかし、エッグの世界でアイがフリル達をぶん殴ればOKのような物語をわざわざ作るわけがないので、エロスの戦士というものがアカ&裏アカの罪に対しての贖罪や物語の殻を破る新たな少女(女性)の在り方を提示できないとおかしいはずです。よってその考えに従うならば、決着はバトルではなく対話によってアイ達が【現実×大人】に成長(卒業)することで物語が終わるような流れかと思います。ここで気になるのは残された4象限である【空想×大人】の問題。このピースを埋めるのは沢木先生ではないでしょうか。第9話で示されたように沢木先生は自ら書いた絵の中で、アイの大人になった姿を描いています。そしてアイに対してあなたは母親のような人物になれると説き、そして沢木先生はアイの母親を愛しているといっています。しかし、ここは冷静に考えると結構キモイ発言ではないでしょうか。アイの母親が好きであれば、そのままアイの母親を描けばいいものを、沢木先生はアイをモチーフに【空想×大人】を理想の姿として描いています。こう考えると、むしろ沢木先生が愛しているのは【空想×大人】=「少女性を内包した理想の物語化した女性」という形をとっており、アイの母親自体はその代用品として愛している可能性も大いにあるかと思います。そういった点を考えて今回の第11話で語られなかった小糸ちゃんの死の理由として、沢木先生の理想にあった【空想×大人】になることに小糸ちゃんが耐えられない状況があったのではないかと考えることもできるかと思います。(この辺は完全に妄想です!)これは簡単に社会位的な事例に当てはめると女性に対するジェンダーロールの押し付けのようなもので、【空想×少女】であることから抜け出しても次の殻として【空想×大人(女性)】という状況を強いられてしまうという現代社会の現実でもあります。これを回避するため自殺という形をとった小糸ちゃんは皮肉なことに【空想×少女】の状態として固定化されてしまうことになります。細かいことですが、これは”フリル”からのタナトスの誘惑という意味よりはありのままの生への絶望のように思います(本編では”恐怖”という言い方を採っている)。いずれにしても、自由意志として自殺をしているというわけではないので、沢木先生の行動が一体何だったのかによって彼の罪の大小が評価されることになるかと思います。ここでは裏アカの【現実×少女】を【空想×少女】に直接的に閉じ込めるようなエゴとは別に沢木先生のような【現実×少女】を【空想×大人】に強制化させる圧力によって結果、【空想×大人】(少女のままの自死)の道を強いられてるという結果は同じですが、2つの問題が描かれているという構造になっているかと思います。

「おとなのこども」問題

いずれにしても、今回のタイトル「おとなのこども」のようにアカと裏アカは回想シーンでも老けることのない演出のなどのある種の寓意から、前述した通り、作り手&受け手としての罪(少女的物語を消費し続けること、あるいは途中で飽きて捨てること)を持った「おとなのこども」の問題が提示されていると考えられます。言い換えれば彼らは【空想×少年】であることを許されているという人物による罪ともいえるでしょう。一方で沢木先生は【空想×大人(男性)】であり、【現実×少女】を理解しつつも、【現実×大人(女性)】を拒絶しているという問題があるのかもしれません。では本作の自然な着地(アイ達の卒業)としては【現実×少女】が【現実×大人(女性)】になることを肯定することでしょうか?

多声性(ポリフォニー)の獲得とプライオリティの消失

作中の【現実×大人(女性)】は”アイの母親”と”あずさ”ですがどちらも内面の描写が非常に少なく、【現実×大人(女性)】とはこういうものだということが現状提示されておらず、ましてその良し悪しも評価されていません。一方、アイ達がある種の卒業を迎えるのがこの物語の構造として求められているので、アイ達の成長が【現実×大人(女性)】でなることと素直に考えることもできますが、その際、【現実×大人(女性)】自体が定義しずらく、素晴らしいものであるという根拠を示さないといけないため、それも問題を多く含んでいると考えられます。何よりアニメ作品自体がフィクションの可能性を自己否定するのは自己矛盾になってしまうため、わざわざそんなメッセージを野島伸司がするとも思えません。

私の考える現代での望ましい卒業の形とは「空想-現実」の軸と「少女-大人」の軸が作る4象限を自由に行き来でき、同時にそれらの声(ヴォイス)を同時に獲得すること【多声性(ポリフォニー)の獲得】であると思います。(両方を選ぶというプライオリティの消失)そして【多声性の獲得】するには、同時に他者である一人から複数の声を聴くことのできる耳を獲得することが条件として不可欠のように思います。

ちょっと自分でも何をいっているのか分かりづらいので、ジブリアニメの「魔女の宅急便」でいえば、物語の最後の場面で、キキは魔法の力が戻っても猫のジジの声が聞こえなくなってしまいます。これは一見、子供自体から切断され、大人になってしまったという描写にみえますが、しかし、「にゃー」となくジジの声をきいてもキキ自体はうろたえたりしていません。それは、「にゃー」の声と同時にかつて言葉を交わしたジジの声を聞いているからだと考えられます。またトンボやその他意地悪そうな女の子もラストではキキとの和解が示されています。魔法で言えば、ホウキでは飛べなくてもデッキブラシでは飛ぶことができるなど、形は変わっても魔法のちからを維持することができています。「おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。」という形がある種ここでの【多声性の獲得】した形での卒業に近いと私は考えます。

※※
余談ですが、本作でいえば、仮にアイ達のペンダントのペットが全て死んでしまったとしても、そのペンダントを捨てずに、残り握りしめればペットの声を想像できるという演出とはアリだと思います。
(閑話休題)

【物語上の展開予想】
アウトラインだけですが、アイは小糸ちゃんの復活(空想としての)に立ち会った際、自分の知らない小糸ちゃんの内面を突きつけられた形で対峙することになると思います。しかし、小糸ちゃんの知らない声(ヴォイス)を聞いた上で、アイはその声が真実であると認めつつも、今までのアイとの付き合いで聞いていた声も決して偽物ではないと思うという展開が考えられます。それら「小糸ちゃんの多声性」を認めた上で、アイ自身が多声性をもった言葉発することができるではないでしょうか。例えば「キライでスキ」ということが返答して考えられます(この辺は野島伸司が言葉の力でうまくやってくれるはずです)。それによってのみ、この世界の殻に対して少しだけのヒビを入れることができ物語を終えることができるように思います。これはアイの場合ですが、同様にリカであれば、既に母親のだらしない部分と娘を思う気持ちを同時に理解することができており、また桃恵においても、男であり、女であるなどの複雑な相手の声を聞いて受け入れることで、自身の男っぽいカッコいいところと女っぽい可愛らしいところを同時に受け入れることができるという道が既に示されています。ねいるにおいては合理的な言葉と感情的な言葉の多声性でしょうか(二人ならファンタジー)

全体的を多声性で無理やりまとめれば、タナトス(死)とエロス(生)とした場合、「むしろ苦しみも抱えながら生きる喜びも叫ぶことが重要」ということかもしれません。

※※
ここまでいってどうかと思いますが、実は沢木先生が既に多声性を獲得しているめちゃくちゃいいヤツだったというエンドもワンチャン残ってると思います。アイもそのままでいいし、お母さんもそのまま愛しているという言葉通りの人物だったし、なんなら小糸ちゃんも助けようとしてたんだぜ!という内容でもいいかもしれません。
(閑話休題)


ワンダーエッグという仕掛けについての雑考。SFっぽくしたことについての功罪

以上で大体の言いたいことは書いたのですが、本作で引っかかるところとしてSF設定の導入について個人的には心配しています。

特にワンダーエッグの設定周りで不安があって、エッグを割ると自殺した少女がでてくるという仕掛けはかなり回りくどくSF的に回収しづらいギミックだと思います。全体として、「ワンダーエッグ・プライオリティ」という物語はSFよりも、本質としては「メルヘン」や「寓話」に属するものだと考えたほうが私としてはしっくりします。おそらく作者の側もそのようにつくっているように感じます。

メルヘン
メルヘン、メルヒェン(独: Märchen)は、ドイツで発生した散文による空想的な物語。非常に古くて重要な文学形式の一つであり、英語ではフェアリーテール(fairy tale)、フランスではコント(contes de fée)と呼ばれるものに相当する。そのルーツを説話(おとぎ話)、口承文芸に持つフォルクスメルヘン(Volksmärchen、民話、民間メルヘン)と、それらを元に創作したクンストメルヘン(Kunstmärchen、創作メルヘン、創作童話)がある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/12 19:12 UTC 版)
寓話 
教訓や処世訓・風刺などを内容とし、動物や他の事柄に託して語られる物語
出典:https://www.weblio.jp/content/%E5%AF%93%E8%A9%B1

例えば、本作が寓話的であることの理由として、ワンダーエッグ・プライオリティでは第1話の冒頭、カナブン(ホタル?)がしゃべるという描写が書かれそれがとりわけ不思議であるという風にはみせていません。(赤ずきんでいえば狼がしゃべってもだれも不思議に思わないのと同じで本作が寓話であることの宣言であると考えられます)またエッグの世界の敵キャラはすべて寓意としてデフォルメされたキャラクターとして登場しています(アンチ・見て見ぬ振り・悪意のある大人)。また本作がガチのSFと仮定すると、エッグの世界での怪我が現実で引き継がれてしまうのはあまりに非科学的なので、そこを深く考えるよりも寓話として捉えて、意味するメッセージや寓意に着目するほうがこの物語の自然な捉え方だと考えています。

とはいえ、すでにSF設定を結構入れてしまっている時点で、これが寓話だとしても、死んだ人間が生き返るということは第11話によっておかしいということは確定事項でしょう。(アカや裏アカは”ひまり”や”あずさ”を生き返せることができていない)よって、エッグを割って出てくる少女と、アイ達が生き返らせようとしている少女はタマシイを前提とした本物とはいえないととするしかありません。(ただし、なんらかの意味をもつ存在であるSF的な理由付けとして「雌型の実在」という考えの話は第9話までの感想に書いていますがそこまでのSF設定を持ってくるかどうか…)

アカ達(あるいは野島伸司)がこの回りくどいギミックを作り、そこにやけどしそうなSF的な解釈を導入したことには謎が残りますが、あえて考えるとするならば、一つは作劇的な視点において、死んで固定化された物語であるエッグの少女とアイ達の接触(少女の生きづらさの明示)→人間側であるアイ達がその問題を擬似的に解決すること(多声性を獲得するヒントの獲得)→一定程度の成長を経て、自身の友達との自殺の問題の解決に向き合う(自身の成長=卒業)というプロットを想定しているということでしょうか。ただ、一方、物語上の説明は力技になり、例えばアカ達の視点としては、エッグの戦いは擬似的に死に抗う訓練→エロスの力の獲得(生きる勇気の獲得)→エロスの力が一定に達したら、フリル達との対決させて勝利(自殺事件の解決)という動機付けになるでしょうか。しかし、SF的な話をしたばかりにタナトスとかエロスとかいうワードと相性が悪くSF的にも寓話的にも説得力が乏しくなってしまったという問題があるかと思います。あまりSF的な深入りをしなければ寓話と寓意の関係としてスルーできたところが本当に解決しきれるのかというところが最終回では気になります。

私の趣味としては、SFにこだわるならエッグや彫像の少女は前述したAIの情報集積のシュミレーション結果としての「雌型の実在」のような背景設定が必要になってくるかと思いますが、それは作品全体のみずみずしいトーンと合わない気がします。(それ以外にも、第9話のボスである天才博士のドクター関が解けなかった問題「そんな円は存在しない!」が中学生でも解ける初等幾何の問題だったというところが、めちゃくちゃ萎えたので、そういう中途半端なSFで作品が曇るのは正直勘弁してほしい)

というわけで、無理してこの作品の持つ透明感や期待される爽やかな卒業感が損なわれるくらいなら設定はふわっとさせて「寓話ですから!」という体でつっぱることをオススメしたいと思いますが、皆さんはいかがでしょうか。

おまけ アカ「バ美肉おじさん」転生エンドの可能性

第11話をみてふと思ったのですが、アカと裏アカは体を捨てたときに冴えない男性型のマネキンなどではなく、少女の体に転生すればすべての問題が解決するのではないでしょうか。いまでいうところの「バ美肉おじさん」になって科学チャンネルのYouTuberにとかになる方が正しい成長のあり方だったんじゃないかなぁと。真面目に考えて彼らが「多声性(ポリフォニー)の獲得」しつつ、周りに迷惑かけず、同時に少女性を欲望し続けるならば、現実的には自分がバーチャルで少女になる「バ美肉おじさん」しかないのではないと思います。これは大人として社会に貢献しつつ、子供の楽しさも失わないという理想的な存在であり、考えれば考えるほどアカ達に相応しいエンドで、それしかないように思います。野島伸司ほどの脚本家ならばきっと「バ美肉おじさん」転生エンドを持ってくるはずなので、最終回はそこを一番期待して見ていきたいと思います。(私の読みでは、裏アカとフリルが既に入れ替わっていると見ています)

書きたいことは以上です!

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