ごろう

イメージという恐怖に見惚れた臆病者。 筆が進めば進むほど、その軽やかさは重要な何かの忘…

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イメージという恐怖に見惚れた臆病者。 筆が進めば進むほど、その軽やかさは重要な何かの忘却という犠牲の代償なのではないかと思っています。 色々なところで書いてきた文章をまとめています。

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  • 映画作品について

最近の記事

【ある監督と女優の悲劇的ラブストーリー】『サンセット大通り』(ビリー・ワイルダー)

監督は映画もしくはカメラによって、16歳の少女を殺し、そして女優という生命を吹き込んだのだ。彼女は女優としてしか生きられなくなった。そして罪深い監督にとって少女=女優は自らの産んだ子供であり同時に一方で伴侶、無償の愛と永遠の愛の対象となった。その彼女の命がいまや、風前の灯火。時の残酷のせいだけではない。自らの罪に対する責任感の誤解とその誤解に発する間違った愛による延命処置のせいでグロテスクさを増す彼女の姿。事件発生。罰を受け、責任を果たす時、今一度彼女に最大の愛を、尊厳死を。

    • 【ジャームッシュ流ペルセウス】『デッド・ドント・ダイ』(ジム・ジャームッシュ)

      イメージ大喜利というものがあったとして、メドゥーサの首を掲げるペルセウスへのジム・ジャームッシュの回答は、田舎に遊びに来た都会っ子セレーナ・ゴメスがモーテルでゾンビに殺られたところで漁夫の利的に首を刈り取り何事もない顔で掲げるメガネサイコ然としたアダム・ドライバーになるのかと。このナナメでオフビートなユーモアが映画全体に染み渡っていて、結局のところゾンビもゾンビになるやつも憎めない愛おしさを放つ。大量消費社会を憎めどその社会に踊らされる人々は憎めない、というかむしろ好きなんじ

      • 【明るすぎる部屋】『ライトハウス』(ロバート・エガース)

        不在の母を巡るエディプスコンプレックスの物語において、"明るい部屋"改め、男根の先端で輝く明るすぎる部屋に存在するのはおそらく原"光"景。とするとそこでナニをしていたデフォーは極まれし変態で、母なる大地に回帰できて嬉しそうに土をモグモグするのも分からんではない。 ライトハウス(The Lighthouse)/ロバート・エガース(Robert Eggers)/2019

        • 【誰しもの小宇宙】『ノマドランド』(クロエ・ジャオ)

          ノマドたちが自らを疎外したものの象徴とも言える油を飲む機械仕掛けの鉄の箱を住まいとしていることを筆頭に、放浪という概念とは相反する何かへの執着を隠さない矛盾に慣れるにつれて、ヴァンが車輪の付いた小さな家にすぎず、誰しもの世界が小石の穴から覗く世界すなわちノマドランドであることに気付く。凡庸な世界観だがだからこそ普遍なのか。曙光を浴びて透き通るファーンの左目とそこに浮かぶ虹彩が印象的。 ノマドランド(Nomadland)/クロエ・ジャオ(Chloé Zhao)/2021

        【ある監督と女優の悲劇的ラブストーリー】『サンセット大通り』(ビリー・ワイルダー)

        • 【ジャームッシュ流ペルセウス】『デッド・ドント・ダイ』(ジム・ジャームッシュ)

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          16本

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          【現実愛(憎)という映画監督のテネット(主義)】『TENET テネット』(クリストファー・ノーラン

          想像力という子による現実という親殺しを敢行せんという強靭な意志の極北を遥か後方に観客の理解を置いていくイメージの連鎖にまざまざと見せつけられた気がする。幼少期の記憶を回顧し、自ら映画を現実逃避と呼ぶ謙遜の裏にある現実への根源的な怒りと畏怖。実写に執拗にこだわる愛憎模様。世界の時間反転不変性に対して有限に順行することしかできない我々の意識はどのような気持ちで意識していればいいのかという煩悶に現実愛という主義を叩きつけるその確信は、環境問題を憂慮するノーランらしく、自らの死を超え

          【現実愛(憎)という映画監督のテネット(主義)】『TENET テネット』(クリストファー・ノーラン

          【概念の発見、そのセンス・オブ・ワンダー】『未来のミライ』(細田守)

          はじめの嫉妬、サーカス小屋のような子供サイズのテントに入ったあの場面にその後の流れを象徴させたつもりなのだろうか。犬になって家の中を走り回るくんちゃんにお母さんはゆっこ?とペットの名前を囁くのであって、ここに変態マジックリアリズムが始まり、そう僕ゆっこだよ!と矛盾した名付けを喜びを持って全力肯定する奇怪はその突き抜けた疾駆と相まって、簡潔明瞭これ以上なく的確にくんちゃんの心の内を、嫉妬という概念を発見したそのセンス・オブ・ワンダーを表現していたと思う。以降、この調子で並列的に

          【概念の発見、そのセンス・オブ・ワンダー】『未来のミライ』(細田守)

          【石は石、世界にとって】『パラサイト 半地下の家族』(ポン・ジュノ)

          石はどこにでもあるが、価値のある石もあれば価値のない石もあるという抽象性。あの石を有象無象の石ころの中に返したとしても、世界にとっては振り出しに戻ったに過ぎない。地を滑るように根本的な着地を許すことのない物語はポンジュノ節か? パラサイト 半地下の家族(기생충)/ポン・ジュノ(奉俊昊)/2019

          【石は石、世界にとって】『パラサイト 半地下の家族』(ポン・ジュノ)

          【シケモク拾いの物理法則】『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(クエンティン・タランティーノ)

          これでもかと吸いまくるタバコ。トリップするにもタバコ。そしてERでもタバコ。タバコは今もいつの時代もたしかにそこに写っていた映画の名脇役である。そんなタバコこそがタランティーノにとっては映画のアイコンとなる。ERではそんなタバコをマズいじゃねーかと自嘲気味に一蹴してみせたりして、それは、マズくても吸ってしまうどうしようもない愛であって、そっくりそのままタランティーノが持つ映画への愛なのである。つまり彼は映画史の屑拾いであって、それを嬉々としてやってしまうどうしようもないフリー

          【シケモク拾いの物理法則】『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(クエンティン・タランティーノ)

          【メメント・モリ、現世の死神を殺しに来た中世の亡霊】『サマー・オブ・84』(フランソワ・シマール、アヌーク・ウィッセル、ヨアン=カール・ウィッセル)

          鳥肌が立ったのは決して恐怖のせいではない。喜怒哀楽から距離を置いたシンセサウンドの意味付けは、スクリーンに映し出された映像が私に与える通俗的な意味と多くの箇所で半歩ズレていて、この映画はその意味作用の場において、少なくとも私にとっては、安逸を許さないものであった。そんな中、音を立てずに、スクリーンの枠外、屋根裏から降ろされるはしご階段、その登場の滑らかさこそが、この映画の白眉であったことは間違いない。その瞬間、ラストシークエンスの始まりとともにマッキーという世界の裂け目が口を

          【メメント・モリ、現世の死神を殺しに来た中世の亡霊】『サマー・オブ・84』(フランソワ・シマール、アヌーク・ウィッセル、ヨアン=カール・ウィッセル)

          【迷子と郵便配達人のリアリズム、儚き意味に意味を】『トイ・ストーリー4』(ジョシュ・クーリー)

          ブリコラージュという遊びそれ自体から生まれた神の子フォーキーを鏡としてウッディが聞いた内なる声は、極めて現実的な交換・流通される商品としてのおもちゃの声。自らの使命を郵便配達人とするウッディは子離れを決意する親そのものである。ネオン煌めく移動遊園地、そして迷子。圧倒的交流の中で迷子をできる限り少なくしようという、ある理想へ向かう現実的な運動。つまり、元は先割れスプーンだろうが今やカラーモール・アイスの棒・粘土を纏ったからにはおもちゃなんだというように、関係性からしか生まれない

          【迷子と郵便配達人のリアリズム、儚き意味に意味を】『トイ・ストーリー4』(ジョシュ・クーリー)

          【死体の冷凍保存、時間の固定、同一性への執着、アウラとしての芸術への拘泥】『ハウス・ジャック・ビルト』(ラース・フォン・トリアー)

          振り返ってこちらを見つめる幼少のジャックが、カメラレンズのごとき無機質なその目で眼差しているのは草刈りの様子であると同時にスクリーンの前にいる我々観客であり、我々の中に原風景を見る目を我々は見るという映像構造によって、ERの反転した白と黒のようにはっきりとではないけれど、ジャックの目を通してネガの世界=遠い過去となった世界の背景を朧げに意識させられるようで、この映画の詩情の正体は結局忘れ去られたものへの郷愁なのではないかと考えれば、死体の冷凍保存として象徴的に表現される腐敗の

          【死体の冷凍保存、時間の固定、同一性への執着、アウラとしての芸術への拘泥】『ハウス・ジャック・ビルト』(ラース・フォン・トリアー)

          【夢での邂逅は現実での離別】『ミツバチのささやき』(ビクトル・エリセ・アラス)

          夢の中で出会うということは既にして決別なのだという意味で、すなわち、意識の深淵から無意識に襲いくる何者かではすでに亡くなり広義の自我のコントロール下に入ったという意味で、精霊との決別をかけたアナの現実的な闘いが、夢の中でのフランケンシュタインとの遭遇という空想的なイメージにおいて決定的に成し遂げられることには全く嘘が無い。 ミツバチのささやき(El espíritu de la colmena)/ビクトル・エリセ・アラス(Víctor Erice Aras)/1973

          【夢での邂逅は現実での離別】『ミツバチのささやき』(ビクトル・エリセ・アラス)

          【時間錯誤の汗と涙】『カメラを止めるな!』(上田慎一郎)

          ワンカットのカメラの目は私たちの目になるから私たちは撮影現場にいるわけで、はじめから私たちは制作スタッフの一員なのだ。そして映画鑑賞を通して、あの時に汗と涙を流したという記憶を事後的に知る不思議な経験をする。その時間錯誤が催すノスタルジー、それがこの映画になにか特別な熱量が加えている。 カメラを止めるな!/上田慎一郎/2017

          【時間錯誤の汗と涙】『カメラを止めるな!』(上田慎一郎)

          【Act、行為すなわち演技】『スリー・ビルボード』(マーティン・マクドナー)

          閑静な自然に囲まれ朽ち果てた三枚の広告看板は平穏な日常の中で記憶が風化していくことをミルドレットに思い出させた。あるいは、時間経過と記憶の後退により痛みが薄れていってしまうことへの罪悪感がミルドレットに朽ち果てた広告看板を発見させた。両者の歩み寄りの結果として、両者は出会ったのであり、結果論としては必然的な出来事、運命的な出会いであった。この運命的な出会い、すなわち三枚の広告看板の触発によって彼女は闘争状態へ向かうことを余儀なくされる。つまり、これは彼女の意志の問題を超越した

          【Act、行為すなわち演技】『スリー・ビルボード』(マーティン・マクドナー)

          【マジックリアリズム、世界にはn乗の鏡像しかないという認識の頂点】『ネオン・デーモン』(ニコラス・ウィンディング・レフン)

          自我という器に入ったナルシシズムという水。器は自らの内に水を保つことではじめて器としての存在価値を確認できるという点で、ナルシシズムの水面の高度こそが生と死を分かつラインなのである。問題は、これほどにも重要なラインがあまりにも捉え難いことであり、この捉え難さが人生をかくも生き辛くさせるのだが、この測量不可能性において人は夢を観ることができるのだから、ナルシシズムを祝福しようじゃないかというのがこの映画である。自分が夢を叶えられる人間であると思えるか思えないか、自分が夢を叶えら

          【マジックリアリズム、世界にはn乗の鏡像しかないという認識の頂点】『ネオン・デーモン』(ニコラス・ウィンディング・レフン)

          【現象界、人類の罰を背負うレプリカント】『ブレードランナー 2049』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ)

          ホログラムを彼女とし、赤の他人を父親とすることに命を賭けるレプリカント"K"の惨めな生き様が、現象界から抜け出せない全人類の惨めさを背負っているところがこの映画の妙である。だからこそ、なぜ最後のシーンが親子再会なのか解せないのである。ホログラムの雪にクロースアップして終わればよかったのに。 ブレードランナー 2049(Blade Runner 2049)/ドゥニ・ヴィルヌーヴ(Denis Villeneuve)/2017

          【現象界、人類の罰を背負うレプリカント】『ブレードランナー 2049』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ)