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それでもきみは美しい −『ビューティフル・ボーイ』

「なぜ」と問われることは、本当にしんどい。しんどかった。
「なぜ」にもいろいろあって、家族からの「なぜ」がいちばん感覚として重いものだとわたしは思う。重くて持ち上がらないから放り出して、でも放り出してしまったこと自体に深く傷つく。答えられないだけのことがなぜこんなにつらくて、悲しいのだろう。
「なぜ」は外からも飛んでくるし、内側からも常に染み出してくる。
なぜ、優しさには「当てられて」、信じられなくて怖くなって、絶望してしまうのだろう。
優しさはあたたかいものであると自分で分かっているはずなのに、なぜ、自分は受け入れることができないのだろう。
なぜ、なぜ、なぜ。
なぜこんなに、今、つらいのだろう。

ティモシー・シャラメ主演『Beautiful Boy』を観に行った。
別に言っておくべきことでもないとは思うのだけど彼はレオナルド・ディカプリオの再来だといろんなところで言われているが、正直わたしは全然再来してるとは思ってなくて(というのもわたしが圧倒的にレオナルド・ディカプリオが好きだからなのだけど)、そういう「往年の誰かの再来」みたいな言われ方をするのは「往年の誰か」のファンにとっても本人のファンにとっても、ひいては本人にとってもいいことなくない? と、最近のシャラメ氏まわりの売り方を見てて思う。
と言いながらミーハーなので、今をときめくシャラメ最新作? 観る観る~となってしまうのもメディアがこぞってシャラメを持ち上げているからであって、自分のこのちょろさにため息つきたい。

つきたいな~と思いつつ観たのだけど、胸を打たれまくって帰ってきた。

デイヴィッド(スティーヴ・カレル)はNYタイムズやローリング・ストーンズのような大手とも仕事をしているような気鋭のライターで、物事を論理的に、理詰めで説明するのがとても上手い。
その息子ニック(ティモシー・シャラメ)は穏やかで、音楽や読書、文章を書くことが好きで、受験した6大学すべて合格するという優等生。
父親と息子の関係はとても深い。お父さんちょっと干渉しすぎでは? と、観客でもなんとなく分かってしまう。息子を大事に思っているのはわかるけれど、なんだか、重たい。だけどこの重たさがどこから来るのか、一晩寝ても、トータルで見て重たいとしかまだ説明できないし、これからもそれ以上の説明ってできないんじゃないかという気もしている。
理詰めで相手を納得させようとする、とか、息子にもまともな職に就いて欲しいと思っている、とか、息子の薬物依存症を周囲に隠そうとする、とか、どれも決定打ではない気がするし、翻ってどれもが決定打となっているような、ものすごく複合的な要素を持ったお父さんなのだ。
だけどこの「特に何がどうというわけではないけど総合的に重たい」感じがニックの首を、肺を、どれだけ締め付けていたのかはもう、手に取るようにとはこのことかと思うくらい、分かった。
おそらくニックが薬物に手をつけずにいたとしても、ふたりは共依存状態にあっただろうと思う。
共依存環境が整っていたからこそニックは薬物に走らざるを得なかったとも思う。

正直、人間としてどっちが病理的かと言えばお父さんの方なんじゃないかと思った。
トータルで見たときに重たい、というのは恐らく全くの無自覚だと思うし、自分では良かれと思ってやっていることが全然意味を成していないことは観客も含めて明らかなのにこの人だけが気づいていない。
「父さんは全てを管理したがる!」
馴染みの喫茶店で息子に罵倒されても全くピンと来ていない顔を見るのが本当につらかった。
愛していることと相手を理解することは全く別の話であって、自分が良いと思った方法で相手を愛することは必ずしも正しくはない。
どれだけ長い時間一緒にいた息子であっても自分じゃないのだし、彼が何を考えているかなんて本当はミリもわかっていない。みんなそうだ。自分以外の人間については「きっとこう感じるだろう」「こうしたら喜ぶだろう」という自分の推量だけがあるのであって、それがどうしていつの間に、「彼のことならなんでも分かっている」にすり替わってしまうのだろう。
お父さんの一挙一動に絶望した。そうじゃないだろと何度も思った。
だけどこのお父さんの姿を通して突きつけられていたのだろう。
相手が本当にして欲しいように正確に愛するということはできないのだということ。

お父さんは「なぜ息子がこんなことになってしまったのか」と何度も問う。
だけど「原因」を追究するのがそんなにいいことかと思う。
デイヴィッドは昔のわたしのお父さんにとても良く似ていた。
わたしが病んで通院していることを知った父は診察までついてきて、「なぜ娘はこうなったのか」と医者に言った。書いてみると笑えてくるがまさに映画と同じだ。
でも「なぜ」って、ほんとに「なぜ」なんだろうと横で私は考えていた。
その「なぜ」がわからないからこんなことになっているんじゃないのか。
言語化できないわたしが悪いのか、「なぜ」が説明できれば納得するのか、だけどそれは納得であって共感ではないだろう、「なぜ」、わかりません、逆に訊いてもいいですか「なぜ」踏み込んでくるの。言ったところで伝わらないでしょう、特にあなたのような人間には。
「なぜ」は重い。答えなければならない強迫的心理状態、言葉にならない不思議さ、言葉にならないから本当にわからない、何もわからない絶望。
「なぜ」は全てを連れてくる。

ニックが1年と少しをLAで過ごして薬物からも手を切れたと少し自信がついて、ほんの数日サンフランシスコの自宅に帰って家族と過ごしてみて、特に何があったというわけではない、むしろささやかな「幸福な」時間への絶望で、帰路の車で泣きながら電話をかけるあのシーンは、ずっとずっと、忘れないだろうと思う。
彼のことを知っていると思った。会社を休んで実家で過ごしていたときの家族の態度に「当てられて」、自分のどうしようもなさを(本当はどうしようもないことはないのに)勝手に突きつけられたような気がして自分に絶望してしまうあの体験、あの気持ちを彼がそのまま写し取ってくれた。もう元気になったわたしには頰を張られるような思いだった。忘れたの? あの気持ちをと。
拒絶されたわけでもない、むしろあたたかく迎えてくれる、
弟や妹は自分の存在に喜んでくれる、
だからニックも彼らを喜ばそうとして、遊びまわって、思いやる。
「久しぶりに会ってどう?」「最初は別の人になっちゃってるんじゃないかと思って怖かった、けどニックはおんなじニックだった」
自己肯定感の欠如によって心に穴が開いてしまった人に、正直な幼き弟の目は、一言は、圧倒的すぎた。強烈だった。嬉しく受け止めたいはずの言葉が、心に穴が開いているから全部流れ落ちていく。
流れ落ちていくことに絶望する。
人の心は簡単に揺らぐ。石が落ちた水面のように、揺らいで揺らいで止まらなくなる。
ああ、わかる。程度の差はあれ、わたしも知っているこの気持ち。優しさに目が眩んで、眩んだこの目に絶望する気持ち。指の間から滑り落ちていくアイデンティティ。
このまま上手くいって終わるのかなと、だとしたら味気ない映画だなと思いながら観ていた映画はなんにも上手いこといかなかった。みんなぜんぜんダメだった。どんなに手を尽くしても悪い方に転がっていった。
それでよかった。あの、頑張りたくても立ち直りたくてもやっぱりダメで泣きながらお父さんに電話する彼でなくてはならなかった。この姿に、夢も何もない袋小路の絶望にまみれた彼の姿にこそ救われる人がいるはずだと思った。

美しいだけの映画じゃない。
ひとりの人間が、それも、きっと自分の中にもこんな一面があるであろうごくありふれた人間が、ドラッグの手にかかってどれほどボロボロになってしまうのか、同時に、自分に開いた自己肯定感欠如の穴にどれだけ苦しめられるのか、どれほど多くのものを失ってしまうのか、そして周囲はどう関わっていくべきなのか、明確に啓発する映画だ。
今を時めく美青年ティモシー・シャラメ最新作というだけで売り出してほしくない。取っ掛かりはシャラメかもしれないけれど、どんな方法であっても伝わって伝わって、しかるべき人のもとへどうかどうか届いてほしいと思う映画だった。
薬物やアルコール依存を抱える人でなくても、自分を愛せない、自分がよくわからない、自分なんていなくなってしまえばいい、そんな気持ちを少しでも抱える人に届いてほしい。
下を見て安心するとかではなく、確かに映画の彼らはハードにボロボロなのだけど、それでも生きることには意味があるかもしれないことを見せてくれる。
誰もはそれぞれ不完全なのだ。それでも、きみはうつくしいのだ。
きみは、うつくしいのだ。

シャラメ主演作というだけで売ってほしくないと書いておきながら
この芝居を引き受けて体現して見せたティモシー・シャラメという俳優の恐ろしさを知った。
タイトル『Beautiful Boy』で、主演がティモシー・シャラメ。今や誰もが美しいと絶賛する彼。
けれど彼がこの映画の主演を張ったのは、彼の外見が「beautiful boy」だからじゃない。メディアに持ち上げられているからじゃない。ただただ、彼にしか出来なかったからだと私は強く言いたい。
ボロボロになったシャラメも美しいとかそういうことを言わないでほしい。彼のぎりぎりの、揺らぎつづけるお芝居を、見てほしい。
それに決してシャラメだけじゃない。
なんでそうなるんだよと一挙一動に絶望してしまうお父さんの人物はスティーヴ・カレルが作り上げた最高の仕事だし、あんなに何もかも上手くいかなくても、それでも息子を諦めない姿には深く深く感動した。
わたしの話をたびたび持ち出して感じ悪いが、わたしもまた病んだあのとき、両親をはじめとした周囲の助けがなかったら今ここにはいないかもしれない。
「いてくれるだけでいい」という言葉が本当にこの体に響くようになるまで辛抱強く待って、支えてくれた人たちのことを思うと、この映画に出てくる人たちにも無上の感動を禁じ得ない。無神経で干渉しすぎるお父さん、離婚して成長をきちんと見てあげられなかった実のお母さん、言葉の少ない芸術家の今のお母さん、純粋できらきら輝く弟と妹、誰もが不完全なのだ。
それでいいのだ。それでもきみはうつくしいのだ。だからこそ、きみはうつくしいのだ。

本当に、然るべき人のもとへこの映画が届くことを願ってやまない。

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