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イーストウッドのアップデートが追いつかない

クリント・イーストウッド監督最新作『リチャード・ジュエル』を観た。全体的な感想としてはこんな感じでまとめた。



しかしどうしても避けて通りたくないのが作中に登場するキャシー・スクラッグス記者(オリヴィア・ワイルド演じる)の描かれ方である。


「枕営業」の事実関係

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彼女は作中で、爆破テロ事件のスクープ欲しさにFBI捜査官に「枕営業」を仕掛け、その成果あって他社を出し抜くスクープをモノにする。
しかしこの『リチャード・ジュエル』という物語がそもそも実話を基にした映画でありキャシー・スクラッグス記者もまた例外ではなく、彼女もまた実在した記者であり、本事件に関わっていたと思われる。思われると書くのは、彼女がすでに故人であるからだ。

そして作中のキャシーが「枕営業」をしたことについて、「事実ではない」との抗議の声が上がっている。

『リチャード・ジュエル』はだいたい人間は露悪的に描かれている(ように見えた)のだが、その中でもスクラッグス記者はとりわけすごいキャラだったと思う。爆破テロ直後の混乱の最中にして「この事件の真相が面白いものでありますように」「他社を出し抜けますように」と祈り、FBIエージェントのもとに赴いては遠慮なく性的オファーをかけ、ひとたび「容疑者はリチャード・ジュエル」と告げられると「あのデブね!なんで気づかなかったのかしら」とルッキズムなのか外見蔑視なのかとにかく「それ言う?」とこっちがビビってしまうような発言を乱発し、弁護士ワトソンの車の中にも平気で忍び込んで情報を聞き出そうとする。
どんな記者を有能と呼ぶのか、記者でない私にはわからないが、キャシー・スクラッグスは個人的には最も露悪的であり、めちゃくちゃ「ドン引き」キャラだった。

しかしそれが事実でなかったとして、どうしようもないというのが問題だ。
死んだ人間に抗議の場はない。真実は本人の口からは永遠に語られない。キャシー・スクラッグスは自身の名誉挽回の機会が永遠に与えられないままこの映画だけが後世に残り続けていくことになる。「こういう人」として。(こういう人というのは私が上述した全ての要素を持つ人ということだ)

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演出・脚色という名のミソジニー

「事実を基にした」作品であろうと面白くなくては始まらないのだから、そこにはいくらかの演出上の脚色は発生する。
仮に、キャシー・スクラッグス記者の枕営業が事実ではなく、映画的な脚色、映画へのスパイスへのような考え方でこの設定が入り込んだとしても「いやあかんやろ」と言いたい。
「ネタ欲しさに警察と寝る女記者」というのはもう手垢にまみれたステレオタイプであり、それを2020年の映画で、しかもフェイクニュースがいかに人の人生を狂わせる危険なものであるかを訴えるはずの『リチャード・ジュエル』でそんな脚色を入れること自体矛盾も甚だしい。イーストウッドの「脚色」でキャシー・スクラッグスの名誉はボコボコにされているではないか。
ボコボコにされているのはキャシーだけではない。これは「女は所詮枕営業に頼ってのし上がるもの」すなわち「女には真っ当なルートを踏んだ真っ当な仕事ができない」と今を働く社会人女性全てに言われているようなもので、働く女性へのミソジニーでしかありえない。

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「皮肉」ではないだろ

スクラッグス記者の扱いについては彼女がかつて在籍していたアトランタ・ジャーナル・コンスティテューション(AJC)から抗議の声が上がっているが、これに対してワーナー・ブラザーズは以下のように言い返している。

ワーナー・ブラザースは、同作が「広範囲にわたる信頼性の高い情報源」に基づいていると主張。ジュエル氏が疑われていると真っ先に報じたメディアの一つであるAJCが「映画の制作陣とキャストを中傷しようとしているのは残念であり、結果的に皮肉なことだ」と述べ、「AJCの訴えには根拠がなく、われわれは断固として対抗していく」とした。

https://www.afpbb.com/articles/-/3259454

いや皮肉ではないだろ、と思う。
キャシー・スクラッグスという女性の人となりや仕事ぶりを最も近くで見てきて、最もよく知っているのは彼女のAJCの同僚や上司であって当たり前じゃないのか。むしろAJC以外のどこが抗議できるというのか。
「ジュエル氏が疑われていると真っ先に報じたメディアの一つであるAJCが映画の制作陣とキャストを中傷しようとしているのは(中略)皮肉なことだ」と言うが、それとこれとは話が全く関係ない。



以上、私が『リチャード・ジュエル』を観て、スクラッグス記者の扱いへのモヤモヤをひとまず並べてみたが、そもそも、K.イーストウッド監督の「アップデート」が追いついていないのは前作『運び屋』でも感じたことだった。

『運び屋』のモヤモヤ

2018年公開『運び屋』について、そう言えば私はfilmarksで珍しくボロカスに貶していたことを思い出した。

「あの頃はよかった」なんて言い方はしてないにしても、例えば若かった頃、朝鮮戦争に従軍していた頃、花の栽培事業が全盛だった頃、そこに自分の矜持やアイデンティティを見出そうとすること自体を悪いこととは思わない。多かれ少なかれ誰しも「自分の時代」を持っているものだと思う。
でも、やっぱり終わったんだと思うよ、その時代。

久しぶりに読み返してみたら、やっぱり女性の描き方についてめちゃくちゃに嘆いているのだった。

何よりいやだったのが、末期癌になった奥さんのもとにようやく駆けつけて今までの不義理を詫びて後悔してると訴えて、それで奥さんが一発で許してしまうところだった。
男は家を空けて当然、外で働いて当然、女は家に居て夫を待って当然、夫に謝られたら「どれだけひどい人でも愛してるのよ」とテンプレートのごとく許して当然。イーストウッドの家族観の限界を見たような気がして本当につらかった。
結局男というのはこういうもんだと言われているような気がして本当につらかった。


『運び屋』にしても『リチャード・ジュエル』にしても、作品から滲み出るイーストウッド本人の「女性」に関する価値観が「止まっている」ように思えてならない。
「女の切り札は枕営業」「女は男を待って当然」「女は男に不義理を詫びられたら許して当然(男は許されて当然)」残念ながら、イーストウッド氏。女はちゃんと仕事をするし、特に男を待たなくても生きていけるし、男を許すかどうかは女が決めて良い。
ちなみに『運び屋』のおじいちゃんは一生許されなくていいと私は思っている。

イーストウッド作品は好きだ。
『インビクタス』のようなスポーツもの、『硫黄島からの手紙』のような戦争もの、大きな感情の方に針が振れそうな題材でもどこか冷たい、テーマとの一定の距離感を保つことに努めているような視線を感じる映像は好きだ。
けれど最近、その要素だけでは、イーストウッド作品を手放しに好きだと言えなくなってしまった。
自分でもとても残念だと思う。けれど私の目が徐々に開いてきた結果としての気持ちの変化なら仕方がないとも思う。

イーストウッドのアップデートは完了するんだろうか。
再起動、してくれるんだろうか。

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