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もうひとつの「無敵の人」

 失うものがない人。失うものがないから法や道徳を踏みにじることも社会的ステータスを失うこともどこ吹く風の人。奪われている不遇を呪いやがて絶望に至り、最後にせめてもの簒奪さんだつをと死なばもろともの無差別殺人すら起こす人。そんな人が「無敵の人」と呼ばれるようになってひさしい。

 かくいう筆者も過去に幾度となく自暴自棄な衝動に支配されたことがあり、当時の精神状態はそこから脱したかに見える現在の自分にも少なからず影響を与えている。二度とあのころに戻りたくない、あのころ人生に欠落していたものを埋め合わせたいという思いが、生きる原動力の多くを占めている。

 「自暴自棄な衝動」は一般に、殺人というかたちで外へ向かうことも、自殺というかたちで内へ向かうこともあり得る。いずれの場合も、第三者から「死ぬ気になれば頑張れる」、あるいは「誰かに相談できれば」といった提言がなされることがある。

 ところで当時の自分はなぜ「無敵の人」になりかけたのか。詳細は省くが、理由はあまりにも明白だ。ある事情によって社会から切り離されたこと。いわゆる社会的孤立に陥ってしまったことだ。この場合、「誰かに相談する」という提言が機能しなくなる。自殺念慮もまた、「頑張る」ことが機能しなくなっている場合が多いだろう。

 社会から疎外された人間が社会(と見なしたもの)に復讐するという構図自体は目新しいものではない。少し検索すれば実際の事件や数多のフィクションに同様の構造を見出すことができるはずだ。

 ならぱこう問おう。なぜ社会的孤立がときに人を自暴自棄な行動に駆り立てるのか。そして「無敵の人」をめぐる現代性とは何か。

 まず重要なのは先に挙げた「誰かに相談できれば」という提言だ。これは自暴自棄な衝動に囚われた場合も、「社会に包摂されていれば」行動化を免れ得ると言っているのにほぼ等しい。

 哲学者ホッブズが『リヴァイアサン』で想定した有名な「万人の万人に対する闘争」とは、社会状態が設立される以前の、各人が剥き出しの自然権を要求する戦争状態を指す。これは社会状態が瓦解することによって、あるいは社会状態を構築し損ねた結果として、人間は戦争状態に突入すると解することもできる。つまり社会状態と戦争状態はトレードオフなのだ(実際は物理的暴力を背景にした国家と「契約」をむすぶことで社会状態が担保されるとしても)。

 卑近な心理として、わたしを排除する者を排除してやる、となるわけだ。社会からの疎外を「社会的に」解釈するとき、いわば妄想的に負のミラーリングが生起してしまう。だが社会がわたしを排除するという妄想は、「わたしが孤立している」という事実によって、すべてを妄想で片づけられないのがやっかいだ。

 では「相談する」ことも「頑張る」こともままならない人間は戦争状態に陥り、犯罪や自殺のような自暴自棄な行動に解決を見出すしかないのか? それとも毒に侵される自らに手をこまねいて事態を先送りしていればいいのか? それは緩慢な自殺ではないのか? もちろん多くの人は、破滅的な行動化よりそちらのほうがマシだと言うだろう。だがいつまで? やはり人は何かしらの具体的な解決を希求するものではないのか。

 自暴自棄な行動によってしか閉塞を打破できないと思い込んでいる人間にいかなる処方箋があり得るか。だが筆者は、もうひとつの選択肢があると考える。

 それは信仰だ。

 宗教にアレルギーのある人は、信仰という言葉だけで失望するかもしれない。ちなみに筆者は聖書や仏典を好んで読んできたが、特定の宗教の信者ではなかった。もちろん伝統的な宗教に帰依するというのもひとつの解決ではあるだろう。だが筆者の考える信仰とは、必ずしも宗教の教義を信仰し実践せずとも得られるものだ。

 その内容は十人十色でかまわない。たとえば推し活や恋愛や仕事、対象は人でも二次元でもディズニーランドでもいい。

 趣味や恋愛や仕事が切迫した生き死にの問題を解決する? 失望を通り越して怒りが湧く人もいるかもしれない。それのどこが信仰なのか、そんな月並な答えで済むなら苦労はないと。

 だが筆者の考える信仰とは月並なものではない。

 それは自分と世界をつなぐものであり、信仰のためならば自己犠牲も、ときに死すら厭わない何かのことだ。

 任意の対象への愛が信仰のレベルに達したときそこに神が宿る。神の傍らを歩む人は黙っていても「頑張れる」し、小さな一歩くらい容易に踏み出すことができる。

 信仰は死を殺す。あるいは少なくともそれは死に抗う。人が探し求めるべきは生に爆心地のように空いた穴を塞ぐための信仰であり、信仰の名においてのみ人はちっぽけな自分を忘れて対象に愛を注ぐことができる。

 神が死んだ現代においても神の役割は退潮するどころかより切実になりつつあると筆者は考える。たとえば映画『ジョーカー』の世界的ヒットも、神なき時代の「無敵の人」の悲惨を描いたものだからというのも一因だろう(この映画では「父」が描かれず、アーサーが報われないケアリング階級であることも示唆的だ)。だがナチスやオウムの災禍さいかを経て信仰と狂信は紙一重であると周知され、脱魔術化と個人主義が行きつくところまで行きついた現代は、手ぶらで神を信仰できる時代ではないのかもしれない。匿名的な正気とクスリ漬けの生温い狂気が併存する、現代。

 ありふれたものが溢れ、自分すらありふれたものに飲み込まれゆく世界で、あれでもない、これでもないと、ありふれたものを漁ってみる。永遠に変わらないもの、こころの奥深くに眠り続ける懐かしい何かを求めて。きっとそのてのひらには鈍く光るひとかけらの石がある。そして無償の愛のレプリカはいつしかかけがえのない本物と化す。愛せる幸福も、愛せない不幸も、その根拠をエゴイズムのみに求める限り、人は自由の牢獄で癒えない不満を甘受することになるだろうと銘記しておく。

 筆者はよく、漫画『HUNTER×HUNTER』の奇術師ヒソカを思い出すのだ。戦闘狂のヒソカは死を恐れていない「無敵の人」だ。だが彼は自殺志願者ではない。ヒソカには享楽しかない。彼にとって死すら享楽の対象であり、その人生には(本人が直接言及せずとも)信仰が存在することを予感させる。

 そのような対象を見つけること自体は決して楽ではないかもしれない。だが信仰という内なる炎を灯さずして絶望的な解決を目論むよりもよほど「楽しい」だろう。ハートに火を点けること。あなただけの対象を見つけることができれば、それだけで勝ったも同然だ。あなたはきっと絶望することなく「無敵の人」になれる。

 注意してほしいのは「死も厭わない」などという態度は「キモく」なりかねないということだ。だが現代人、とりわけ日本人の不幸は、過剰なるものを徹底的に社会から排除したことに一因があると筆者は考える。信仰とは単なる思い込みのことではない。そこには日常(世俗)の偏見を越える瞬間が必ずある。信仰の果実に与るためには一定の「キモさ」を恐れないマインドが必要となるだろう。

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