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新春企画!一般入試がなくなる世界を考えてみた(6)【「普通」高校の荒廃から起こるであろう知性の崩壊】


一般入試が終わった社会を妄想しています。前回はこちら。

今回は、こんなことを考えてみました。
表現形式は通常のブログでの文体です。

一般入試が廃止されることによって、起こるであろう現象として、中位以下の高校現場で学びの崩壊が起こる可能性があるのではと懸念しています。

少子化は、猛烈な勢いで教育の問題として影を落としています。

偏差値という物差しの機能不全が生じ始めているという点も侵食している現実のひとつだと思います。

そうなると、何が起こるのか。それは、「普通」高校の学びの崩壊ではと思っています。

「普通」高校は、定義上は、普通科の高校ですが、別の表現として、普通の高校という意味も社会的には含まれていると私は理解しています。
つまり、進学校との区別する意味合いです。

平均的な学力の生徒が通う学校。学群がある公立高校で言うと、3番手前後以下。地方では、郡部にある学校。教育困難校のちょっと上・・・そんなイメージでしょうか。

そのような高校に通う生徒は、必然的に世間的には難関大とは呼ばれない大学に進学しているのが現状だと言っていいでしょう(もちろん、例外はあると理解しています)。

なので、一般入試は既に九州の私立大学は、機能していない大学が多数派であると理解しています。それについては、↓で書いています。

そんな状況で、一般入試を廃止するとどうなるのか。それは、普通高校の教育現場が荒廃するのは、そこまで難しい想像ではないと思っています。

少なくとも、一般入試が存在している限りにおいては、英語とか数学は「受験科目」である以上、生徒もそれなりに勉強しないといけないというモチベーションになっているでしょう(実際にできているかは別としても)。

一般入試が廃止されると、その「タガ」ですから外れることになる。そんな中で、どうやって普通高校の現場で彼らの学びの価値を見出すことができるのか。これは結構大きい問題なのではないかなと個人的に強く危惧するところです。

ボトムラインに位置する大学は、教育機関としての機能を保つことができるのかは難しい問題ではと思います。というのも、このような社会になれば、どんな形式であっても入試は機能せず、願書を出すだけで合格が決まるようになる。

その結果、高校での学びに意味を見出せない生徒がいても不思議ではないと思うからです。

確かに、一般入試が存在することで、いろんな歪みが出ていることも事実でしょう。しかし、その一方で一般入試が存在しているからこそ維持できていることが存在していることもまた事実だと思います。

それを広くとらえれば、一般入試が存在することで、かろうじて知識の獲得が保たれているというのも事実なのではと思っています。

つまり、教養への入り口としての機能です。

もし、一般入試が廃止されると、私は岩波書店やみすず書房の経営は立ち行かなくなるのだろうと見ています。大学の研究者程度の市場では、恐らく経営は維持できない。それなりに「教養を求める層」が市場に存在しない限り、知的資源の供給は機能しない。

すでに、中央公論社は、読売新聞の支援でかろうじて存続したという事実もあります。近い将来、その読売新聞も今の新聞の現状では、苦しい経営になることでしょう。その時、系列の日本テレビが支えることもテレビの未来を考えると厳しいのではとも思います。

一般入試が問題だからといって、一般入試が果たした良い面までも否定し、廃止に向かうと、「想定外」の現実が待っているのではと私は思っています。

私が一般入試を廃止せよという発言する方に対して、注意しているのは、その影響をどのように評価している点です。その視点のない意見は、残念ながら浅薄な主張と判断せざる得ない。特にインフルエンサーの方には、より厳しい視点でその発言は注視しています。

ご本人が意図していないことであっても、結果としてデマゴギーを拡散する存在となることはあり得るからです。

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