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地方で「増殖する」メガソーラーパネルが意味するもの【○○を考えないという現代人の思考】

長崎県の離島である宇久島に日本最大級のメガソーラー発電所が建設されるのだとか。

宇久島は行政区分上は、長崎県佐世保市になりますが、五島列島の北端にある島です。

九州は日照時間が本州などより長く、太陽光発電に向いている立地だといわれています。事実、九州各地では規模の大小はともかく「こんなところにも?」という感じでソーラーパネルが「群生」しているところがたくさんあります。

今回の宇久島のような地域でのソーラーパネル発電事業は、今後、本格的な「資本流入」が予想されるビジネスでもあります。

実際のソーラーパネルが設置されているところを見ると、薄気味悪いディストピア感もなくはありません。それは、「人がいない」事業だからでょう。
パネルを設置した後は、火事などの安全の確認と出力の管理もすべて機械化されている以上、当然といえば当然なのですから。

ただ、私が感じる薄気味悪さは、それだけではないのだろうとも感じます。
それは、ソーラーパネル発電が、クリーンな発電方法であるという触れ込みなのに、そう感じない点もありそうです。
なぜなら、宇久島でもそうですが、大量の木々を伐採し、人工物であるソーラーパネルを敷き詰めていく人間の行為の中に、本質的な矛盾をはらみ、その経済行動の中に「狂気」の部分が入りこんでいるように感じるからでしょう。

そして、一度ソーラーパネルを設置した後は、どうするのかを現代人は考えていないこともその不気味さに拍車をかけているのかなと感じます。

このニュースが持続可能な社会を標榜する現代人の二枚舌であることは、その一面を説明しているともいえるのかなと感じます。

現代人は、自然をもとに戻すという視点が決定的に欠けている。このソーラパネル事業は、パネルが劣化し、更新時期が来たら事業を辞め、木を植えなおして元の状態に戻す

とは絶対に考えない。

それが不気味さの根源にあるのかなと思います。宇久島の場合、島の1割がソーラパネルとなるのだとか。そんな光景が少なくとも今生きている世代では恒久的な風景となる。

それが本当に持続可能な社会といえるのだろうか。

そんな感想を持ってしまいます。

また、この太陽光発電ビジネスを批判的に報じることで、原発利権を擁護する側面もあるように感じなくもありません。

現代人の生活を支えるエネルギーは、私たちを支配する最大の存在であることは間違いないところです。

なので、考えるべきは、エネルギー獲得手段の選択だけではなく、私たちの今の生活を見つめなおすことも大事なことではないのかなと感じます。「生活が便利になればいい」という思考は、地球への負荷という点では、すでにピークアウトしているのではないのかなと感じています。

無理をして現在のエネルギー供給水準を維持しようとする動きは、元に戻らないディストピアを作っているかもしれないと思うべきなのかもしれないと感じています。


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