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【エッセイ】明治国道でたどる東海道 14 #1 吉原 海嘯に呑み込まれた道

 吉原は東海道の区間の中では最大の変移を続けた.正確には変移せざるえなかった道筋であった.過去の災害による道の付け替えはどのような理由であったのか.
 2011年の東日本大震災によって津波の被害を目の当たりした日本人にとって,流出する家屋,亡くなった人々のことは忘れることができない.それは何も三陸沿岸だけでのことではなく,東海道においてはこの吉原に深い歴史が刻まれている.
 依田橋地区に残る「義隄記」という先人が後世へ遺してくれた歴史的なそして貴重な自然災害伝承碑から350年前に発生した大海嘯の災害を読み解いてゆく.

逆凹の字なる奇妙な線形

原から吉原に近づくにつれて周辺には製紙工場が多く見られるようになる.かつては眺望できた壮大な富士の姿も,今は工場の煙突で遮られる.

沼津から長く直線のつづいていた明治国道(東海道)も,東海道本線の吉原駅(旧鈴川駅)の手前で右に折れて終わる.本来ならば鉄道に沿って直進して進んでもよいはずの道筋が,ここからは「逆凹の字」を描くように内陸部に湾曲して入っていく.

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図-1:吉原付近の東海道(明治国道)のルート.国土地理院の色別標高図に明治期の地形図を投影(「吉原町」明治28年測量・明治42年7月20日発行に明治国道を投影).茶色は東海道の推定古道.

東海道の道筋の中では,奇妙な動線を示す箇所が二箇所ある.

一つは見附宿(磐田)と,そしてこの吉原宿だ.それぞれに,道筋に刻まれた過去のメッセージがある.まずは,この吉原の「逆凹の字」に由来する過去の「痕跡」を探しながら歩いてゆく.

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写真-1:一里塚があった依田橋地区の道風景

原より出発して約3時間,やや左富士を思わせるカーブに差し掛かった所で依田橋の一里塚跡に到着.一里塚跡は左富士神社(旧名:悪王子神社)の境内にあり,ここでしばしの小休止をとる.

左富士神社は直近に再整備がされたのであろうか,玉石の白洲も綺麗な白色を帯び,当たり一面は不自然なまでに整然としていた.

その昔は「悪王子の森」と呼ばれる木立が密集したエリアであったといわれている.しかし,そのような森の姿はなく,神聖なる神社の空間領域=結界は失われてしまっている.

その中にあって,長年の雨露で鈍色を帯びて特異な光を放つ石碑が一基あった.碑の上面には隷書に似た書体で「義隄記」と彫り込まれている.

碑文は長年の年月で風化し,文字も潰れているため解読は難しかったが,幸いなことにその脇に案内板があり,碑文(漢文)とその訳が添えたれていた.多くの石碑は歳霜にまかせて朽ち果ててゆく中,市の委員会をはじめ地元郷土史の研究者が碑文を保全することには感謝せずにはいられない.

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写真-2: 左富士神社(旧名:悪王子神社)にある「義隄記」

それによれば,この碑が建てられたのは宝暦5年(1755)年.碑文は吉原一帯における過去の大出水の事が述べられ,往時の状況を今に伝えるまさに探し求めていた痕跡の記録であった.

「義隄記」は先人が私達後世へ遺してくれた歴史的なそして貴重な自然災害伝承碑.息を整えてその内容を黙読する.

義隄記を読む

「田子の浦に臨む所であるが,この度の大出水て見渡す限り曲がりくねった草原になり一面海のように氾濫して住家もひっくり返り人々も溺れて大災害を喰った.維時(これとき)廷宝八年庚申八月(一六八〇)のことてある.

思うにこの荒浪は,四方暴風雨の為,家並んで居る所まて拳大の石を交えた大波が打ら寄せ潮水は高い土手の上までのし上がり土地の人も旅人も水を呑んで腹のふくれた溺死者が沢山出て溜息の声が止まらない悲惨さである.」

                                                                                          (義隄記,訳文)

時は延宝8年庚申8月6日.旧太陰暦を現代の太陽暦の西暦換算に直すと1680年9月28日となる.今から約340年前,この日,田子の浦一帯は暴風雨に襲われた.辺り一面は浸水し,あたかも海と化したことが克明に刻まれている.

浸水した原因は河川の氾濫ではなく,「大波が打ち寄せ」とあるように駿河湾からの潮水の流入による.このときの荒浪は「拳大な石」をも動かしたとあるので,巨大な威力を持つ波が押し寄せたことを物語っている.

荒浪は家々を薙ぎ倒すとともに,逃げ遅れた人々は濁流に呑まれ帰らぬ人となった.溺死した旅人や土地の人々の遺体が多数流れていたという惨状は目を覆うばかりの光景であったことであろう.

「四方暴風雨の為」という記載がなければ,あたかも巨大地震による「津波」が来襲した光景を想起させる惨状だ.

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実際,その往時の記録には「津波」と記録する文献もある.例えば,災害30年後の亨保年間(1716~1736)に記された古文書『田子の古道』では,この時の様子を「津波押し来る」と表記している [1].

六日の暁より,にわかに丑寅(北東)風,雨に交えて吹き起こり,しばらくありて,雷一つ鳴りて東風になって猶増さり,五つ時(午前8時)には,はや辰巳(南東)風になり屋根を拭き落とす.

(中略)

五つ過ぎまでは南風なって,その時津波押し来るといえども,八方暗んで分からず」

                                                              (富士市立図書館編,田子の古道)[1]

しかし,この1680年には駿河湾一帯で巨大地震が発生していた解析や古文書類は見あたらない [2].また,『田子の古道』の記述そのものからも,激しい揺れや地鳴りのような地震に由来する記述は一切ない.

確からしいことは,この日は暴風雨が襲ったことは克明にまとめられており,9月末という季節を考えれば,巨大台風の通過による高波と高潮が一級河川の沼川を遡って逆流した海嘯であったと想定される.

高波:強風によって海水が押し上げられる現象
高潮:低気圧によって海面が吸い上げられる現象.1hPaで1cm上昇するとされる.
海嘯:河口に入る潮波が垂直壁となって河を逆流する現象

高潮の潮位を試算する

『田子の古道』から時系列を追うと,勢力の強い巨大台風は8月6日(太陽暦9月28日)の深夜から早朝にかけて通過した.

風向きは北東から東風に変わり,午前8時には南東風となったという経時的な順番であることから,台風は吉原の西側を通過していった可能性が高い.
想定されるに,台風は静岡~浜松にかけて御前崎付近に上陸したのではないか.

「五つ過ぎまでは南風なって,その時津波押し来る」の状況から,海嘯が発生したのは風向きが南風となった午前8時過ぎであったかと思われる.

高潮の被害は,

・台風の上陸時の中心気圧と風向の気象要因
・港湾の形状や海底地形などの地形要因
・満潮や大潮といった天文潮位の要因

の諸条件により被害の状況が変わる.

この時の台風の中心気圧は知る術を持ち合わせていないが,三番目の天文潮位については,現在と同じ地形とした仮定で推算を試みることができる.

下図は延宝8年庚申8月6日の天文潮位を現代と地形が同じであったと仮定したときの,田子の浦に近い二地点(沼津および清水)の一日の潮位推移を示している.

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図-2:延宝8年庚申8月6日(1680年9月28日)の天文潮位の推定値.(a) 沼津(内浦湾), (b)清水(潮汐グラフ,カシオ株式会社)

試算によれば,この日の最初の満潮時刻は午前6時33分.満潮時の潮位は沼津で172cm,清水では164cmと8cmほどの差はあるが,地形的な差異や300年近い地形変化を考慮しても,田子の浦の潮位は160cm~170cm(±10cm程度の誤差を許容範囲とする)と推定できる  [3].

折しも,南風が強よまった時刻(8時)は,満潮から2時間後とはいえほぼ満潮のピーク時に重なっている.

また,満潮と干潮差が100cmほどあることから,朔(新月)・望(満月)どちらかの大潮に近かったのではないだろうか.

延宝8年の台風は,このことから高潮の被害が最も拡大する時間帯と時期に来襲した可能性が高いのだ.

(以下に続く)


参考文献

[1] 富士市立中央図書館編:”田子の古道”,富士 富士市立中央図書館,2007
[2] 渡辺偉夫:”改訂日本およびその周辺の津波の表”,地震第2輯,第36巻,第1 号,p. 83-107,1983.
[3] カシオ株式会社が提供する「潮汐グラフ」でのカシオ社のコメントの「江戸時代と現代とは時刻誤差のみならず地形も大きく変化しています。本潮汐計算は現在地形を基にした潮汐データを使用しており江戸時代の潮汐を想定していません」とあるように,あくまでも推定試算であって,当時の潮位を正確に再現したものではないことに留意が必要.
[4] 補:義隄記現代訳全文

風波検しくなり,はからずも南海の土地は荒地となる.君主の道徳的な性格は変わらぬが,吾々住民が生きる為には一生戦い続けなければならないのである.駿河依田橋の郷もこれと同じである.

ここは江戸と京都の間の通り道,居五原の中富士の嶺はそばだった田子の浦に臨む所であるが,この度の大出水て見渡す限り曲がりくねった草原になり一面海のように氾濫して住家もひっくり返り人々も溺れて大災害を喰った.維時(これとき)廷宝八年庚申八月(一六八〇)のことてある.

思うにこの荒浪は,四方暴風雨の為,家並んで居る所まて拳大の石を交えた大波が打ら寄せ潮水は高い土手の上までのし上がり土地の人も旅人も水を呑んで腹のふくれた溺死者が沢山出て溜息の声が止まらない悲惨さである.

悪王子神社のお祀りはかねてから隆盛に執り行っていたお蔭で降水量も他所よりは少かった様だし,身も心も滅茶苦茶に痛めつけられたような甚大な被害ではなくまあまあよかった方だと思う.

それは近辺の山や川の被害状況から見ても凡て判断がつくからだ.それと云うのも最寄に急場をしのぐ大きな川や幾つもの澤があって溜池の代をしてくれたお蔭だと思う.

この水難の為に数カ月に互ってこの草原や川を隔てて今の吉原の宿駅を移すことになった.

これより後元禄十ニ年(一六九九)また大水となる.次いて宝永二年(一七〇四),次いて廷享四年(一七四七)秋又荒地となる.

其の翌年の春官の手を経てまたも堤をふせぐ,そのお蔭て浮島以西すでに一面不毛の地だった所や欠壊箇所もこの一大土木工事で補強されその心配がなくなったのてある.

この事は郷長波部蕃氏が当神社を安んじて奉る為,祠の基五尺の所に同族定英氏と相談して以上の一分始終を石碑に刻み書き残したいと村人に相談した処ようやく立ち上がった村人達も大変喜び村長市川糺寿,小野利貞氏等と共に図り,これを建立し猶一層の治水事業堤の保全に努めたのてある.

この事は旦に村の為の仕事ばかりてはなく神に仕える氏子の奉仕てもあるからである.また,この難工事を成し遂げるに幸いにも得難い人材があったから尚更立派に出来上がったのてある.

然し時恰もご維新となり風俗風習も一変したがこの土地の人達が飽くまで神の為郷土の為尽くうと云う真摯な心掛けを忘れなかったからだ.

今ここに頌徳を称え広く天下の勇者にこれを祀り伝えるならば必ずや吾々も幸になるであろう.

宝暦五乙亥年夷則日(一七五五)

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