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【エッセイ】明治国道でたどる東海道 14 #2 吉原 明治の田子浦大海嘯

 吉原は東海道の区間の中では最大の変移を続けた.正確には変移せざるえなかった道筋であった.過去の災害による道の付け替えはどのような理由であったのか.
 2011年の東日本大震災によって津波の被害を目の当たりした日本人にとって,流出する家屋,亡くなった人々のことは忘れることができない.それは何も三陸沿岸だけでのことではなく,東海道においてはこの吉原に深い歴史が刻まれている.
 依田橋地区に残る「義隄記」という先人が後世へ遺してくれた歴史的なそして貴重な自然災害伝承碑から350年前に発生した大海嘯の災害を読み解いてゆく.

海原と化す

「義隄記」にもあるように延宝8年の大出水は,田子の浦から吉原一帯を海原と化した.それはどれほどの範囲にわたって「海原」となったのだろうか.

この延宝8年の災害について実に詳細な記録を残しているのは古文書の『田子の古道』だ [1].その中の次の記述が目を引く.

家々に乗りて根方へ着いて命助かる者もあり.海辺者も吉原者も,皆財宝流され,原田前,日奈岸より根方村々の岸に流れ寄る

(富士市立図書館編,田子の古道)[1]

ここで「根方(ねがた)」という表記に注意したい.「根方」とは愛鷹山麓一帯を表す総称的な”地域名”であり,地名そのものに「根方」はない

山麓に沿って東西に伸びる県道で「根方街道」という表記があるため,私はてっきり「地名」があるかと思い明治時代の地図を眺めていたがそのあては外れた.

なお調べてみると,この沼津から吉原にかけての岳南地方では山側を「根方」に対して,海側は「浦方」と呼ぶ慣わしがあることを知る.

「浦方」の表記は地元でも日常で慣用的に使われているわけではなさそうだが,歴史関連の書籍では鎌倉時代の旧東海道の古道で海岸部の道を「浦方路」と表記する事例がある.

三島から吉原(鈴川)の区間がその「浦方路」に該当する.

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その「根方」=愛鷹山の山麓に沿って,原田や比奈(日奈)といった地区がある.いずれも海岸からは3kmほど離れている.

海嘯は台風による強烈な南風に押し込まれる形で打ち寄せ,さらには満潮時とも重なって潮位が高かったことが広範囲に及ぶ要因ともなったと思う. 

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図-1:延宝8年庚申8月6日の海嘯の想定浸水路と被害範囲

明治の測量図に色別標高図を重ねるとこの付近一帯の地形の特質が見えてくる.

海岸部に5~10mの砂丘帯が東西に伸びる他に,海からの流水を遮るような段丘はない.

この沼川の下流域一帯は「浮島が原」と呼ばれているように海抜ゼロメートルの湿地帯の土地でもある.ひとたび,外界からの流水を招き入れれば,立ちどころに満水する悪条件を備えている.

前述したように,この付近一帯は縄文中期の頃(5000年前),内側には潟湖(ラグーン)があったともされる水が溜まりやすい地形だ.

打ち寄せる荒浪は「津波」のごとく砂丘帯を越波してきたであろうが,最も潮水の流入を許したのは海と直結する河川,すなわち現在の一級河川である沼川であったことであろう.

削がれることのない荒浪のエネルギーは沼川を容易に逆流し,『義隄記』の記述にある「拳大の石を交えた大波が打ら寄せ潮水は高い土手の上までのし上がり」という巨石をも動かす状況を作り出したと思われる.

悪王子神社は浸水を逃れたとあるため,ほんの数メートルの標高差が水没を免れる条件はあったが,延宝当時の東海道の宿場であった中吉原はこの海嘯で冠水し宿場として,その機能を失うことになった.

東海道のルート変更:吉原宿の所替え

この1680年の出来事は,当然のことながら,この災害によって東海道も壊滅的な被害を与える.これにより中吉原宿は”二度目の移転”を余儀なくされる.

1680年の翌年,改元となり天和元年に被災者は吉原宿の所替(移転)を幕府へと申し立て,北側に位置する現在の場所へと移転することになるが,その判断材料となったのがこの大海嘯で冠水をしなかった潮境であったからという.

吉原宿の二度の移転に伴い一里塚も移動する.その折,中吉原から新吉原へ宿場が移ったときに,ここ左富士神社の北側に新たな一里塚が築かれた.

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図-2: 江戸期の吉原宿の変遷(古文書『田子の古道』および『駿河志料』による)

なお,”二度目の移転”と表記したが,吉原宿は江戸期の近世整備以降に二回移転している.最初の宿場は元吉原(鈴川)に位置していたが,中吉原宿への所替えも津波であったという説もある.

しかし,古文書『田子の古道』では延宝の大海嘯ほどに詳しくは述べておらず,下記のように「段々に砂吹き崩れて所をせばめ」とした飛砂災害的な理由しか述べていない.

ここ(元吉原)も又,段々に砂吹き崩れて所をせばめ,住居なりがたし.また所替えを願いて,中吉原へ引く

(富士市立図書館編,田子の古道)[1]

そして,移転の時期は延宝8年の大海嘯時から顧みて「元吉原より中吉原に住居すること,すでに四十二年」とあるため,逆算するとその移転時期は1638年(寛永15年)頃と推定される.

別の資料としても引用される『駿河志料』によれば [2],

其頃風波強く,砂山崩れ,住居なりがたりしかば,寛永十七年辰年今泉,傅法,依田橋等の地,河原分芝間を賜はり,驛を移し,此地は吉原村と唱へしに,寛文八戊申年鈴川と改めしとなり

中村高平 :『駿河志料. 第4編』(国立国会図書館蔵)[2]

とあり,ここでは所替えが行われたのは『田子の古道』とは二年ほどの差分があるが1640年(寛永17年)としている.『駿河志料』でも移転の理由は津波による劇的な大災害ではなく,「砂山が崩れ」とあるように,こちらでも飛砂災害的な様子を記録するものとなっている.

天災は忘れた頃に来る:明治32年田子浦大海嘯

「明治国道でたどる東海道」では,近代明治に焦点をあてて国道の視点から東海道を歩くことを目的としている.題材としても,なるべく明治以降の資料を蒐集することを目指している.

台風の災害であれば,近代(明治)以降でも起こりうる災害だ.記録が残りやすい近代であれば,そこから副次的に特質をつかめる.

この延宝の海嘯をきっかけに調べる中で,明治時代にも大海嘯があったことを知る.

これは明治32年(1899)10月7日の「田子浦大海嘯」と呼ばれる.

田子浦大海嘯での被害の様子を,唯一,伝える写真がある [3].現JR吉原駅(旧:鈴川駅)を南側から写している.画角の中心に富士を収めた構図としているが,6:4の位置に吃水線のような水平線があり,内陸まで浸水している様子をとらえている.

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写真-1: 明治32年10月7日の台風による大海嘯が発生して水没した東海道鉄道の鈴川駅(現:JR吉原駅):(”海嘯による被害を受けた鈴川(現吉原)駅(鈴川本町)”,富士市役所編「広報ふじ」平成28年)

鈴川駅の左手奥に見える木立は,東海道(明治国道)の河合橋の並木(写真-2)だ.河合橋は富士を遠望する東海道の中でも名勝として有名な橋であった.

並木の高さからすると,この明治の大海嘯での浸水水位は2m~3mに及んでいることが推定される.

辺り一面が海と化すという形容がまさにあてはまることから,想像するに延宝の大海嘯でもこれと似たような光景が広がったと思われる.

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写真-2: 明治国道時代の沼川を渡る河合橋.東海道の中でも名勝として有名な橋であった.橋の北詰に特徴的な並木がある(”鈴川の富士/静岡県の絵葉書”, 〔静岡県の絵葉書〕東部3(157),静岡県立図書館蔵)
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写真-3: 旧明治国道2号で静岡県道171号線の現代の河合橋.

資料としては,このほかに災害5年後の明治37年にまとめられた『田子浦海嘯始末』という報告書が国会図書館のデジタル化されており,手続きをせずとも閲覧ができる  [4].

明治という時代になると,近代的な気象観測が行われるようになった.この『田子浦海嘯始末』で注目されることは,発生した”津波(海嘯)”の要因について沼津測候所の技官への聞き取り調査を行っている点だ.

沼津測候所は地震と気象との双方の可能性を観測結果に基づいた比較考証を論じた上で,海嘯(津波)が気象要因によるものであることを明確にしている.

過去の記録においては”津波(海嘯)”について,地震と台風とを区分せずに一律同じ現象として記録しているが,このように双方を区分して”津波”を分析した事例は,この『田子浦海嘯始末』が初めてではなかろうかと思う.

そもそも,”台風”という気象現象すら戦後に規定されたもので,それ以前の書籍や記録にはこれらの用語は登場しない.

実際,この『田子浦海嘯始末』でも,明らかに台風の気象現象ながら”暴風雨”という用語で示されている.”暴風雨”は『義隄記』でも刻まれているように,江戸期を通じては”暴風雨”が台風であったことで読み取れる可能性がある.

『田子浦海嘯始末』では長津呂測候所(石廊崎測候所)で観測した気象記録を述べており,上陸時の中心気圧は水銀柱換算で714~715 mmHgとしている.現在のhPaに単位変換を行うと約950 hPa.同書では,「創立以来ノ最低度」,つまりはこの台風は明治32年までの観測の中では最低気圧であった.これはそれまでの観測史上では最も勢力の強い台風であったということになる.

近年,台風の研究は進展を見せている.

2021年に発表された『日本に上陸した台風データセット (1877年‐2020年)』では明治10年(1877年)から令和2年(2020年)まで発生した438本の台風の記録をまとめている [5].

このデータセットについて上陸時の中心気圧についてソーティングすると,確かに明治32年以前に950 hPaを下回る台風はなく,2020年までに観測された438本の台風の中でも,実に上位21番目の低い中心気圧となっていた.

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表-1: 明治10年から令和2年までの台風を上陸時の最低気圧順に並べた時の上位20の記録.『日本に上陸した台風データセット (1877年‐2020年)』[5]より.

それでも,これほどの台風と被害であったにも関わらず,田子浦大海嘯の大災害に関しては,『田子浦海嘯始末』以外にはほとんどめぼしい資料は入手できない.上記の写真は富士市の広報誌に掲載されたものであるが,検索をしてもこれ以外に当時の様子を伝える写真はみつからない.

写真で水没した東海道鉄道(東海道本線)は,明治22年に開通したばかりの開業10年目の災害であった.この角度から調査をしても,鉄道史的にもあまり大きくは取り上げられていないのだ.

あたかも忘れ去られたことのようになっている.

『日本に上陸した台風データセット』を見ていると,近年の地球温暖化とは関わらずいつの時代でも巨大台風は,極値統計的に発生するようにみえる.田子浦だけに限っても数十年~数百年の周期でまさに大海嘯に襲われる可能性を示唆する.

科学的な観測が発達しても,伝承されることがなければどのような惨事であろうとなかった事に等しくなる.これは,寺田寅彦の「天災は忘れた頃に来る」を想起させる.

おわりに:左富士の誕生

この延宝の大海嘯の副産物として誕生したのが,東海道の名勝ともなった左富士の道風景だ.

東海道を江戸から京都へと向かうときに,通常ならば右手に富士が見えるのが当たり前ながら,この新ルートの誕生によって,わずかに北東に進むようになったので,本来ならばありえない左手側に富士が見えるようになったことから,左富士と呼ばれるようになる.

その戦前絵葉書の写真を静岡県立中央図書館のデジタルライブラリーで「発見」した [6].

同じ構図でトリミングした写真と,あわせて歌川広重の『吉原左富士』(東海道五十三次保永堂版)の三葉を並べてみると,江戸期,戦前期(明治・大正国道時代),現代の変遷がわかる.

今後も度重なる災害に見舞われる可能性があるが,この東海道の道筋は昔と変わらずに継承されていってほしいと願う.

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写真-4: 東海道左富士の構図:(上)『(富士勝景) 東海道左富士』(ふじのくにアーカイブ|静岡県立中央図書館蔵),(中)著者撮影,(下)歌川広重の『吉原左富士』(東海道五十三次保永堂版)



参考文献

[1] 富士市立中央図書館編:”田子の古道”,富士 富士市立中央図書館,2007
[2]  中村高平:”駿河志料. 第4編”,静岡郷土研究会,昭和5年
[3] 富士市役所:”【過去に学ぶ富士の災害史】第7回 田子浦の海嘯(かいしょう)(高潮)(明治32年)”,広報ふじ,1119号,p.16,平成28年
[4]  鈴木七四郎 :”田子浦海嘯始末",明治37年(DOI: 10.11501/831270)
[5] Kubota,H., Matsumoto,J., Zaiki,M., Tsukahara,T., Mikami,T., Allan,R., Wilkinson,C., Wilkinson,S., Wood,K. and Mollan,M. : Tropical cyclones over the western north Pacific since the mid-nineteenth century. Climatic Change 164, 29, 2021(https://doi.org/10.1007/s10584-021-02984-7

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