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壊れかけの母と友達との縁切り(幼少期編6)

「1年生になったぁら友達100人出来るかな?」こんなCMが流れていた時代の話です。余談ですが大学生バージョンがありまして「友達と100人出来るかな」失礼しました。

弟が3月14日生まれ(戸籍上は4月2日してるズル)私は一人っ子を6年ちょいで卒業、さらに小学校入学を控え意気込んでいる時に父から「小学校に上がったら何したい?」と聞かれたので正直に一人暮らしをしたいと言ってみたら大波乱だった話をします。

「いつか僕は捨てられる、それを毎日考える日々が怖い、一人でご飯や掃除や服も畳める。朝もいつも6時に起きてるから学校も行ける。洗濯機があれば干すことも出来るようにするから一人暮らししたい。近所の材木屋や塗装屋のおじさんとも仲良いし、困ったらそっちに助けて貰うから大丈夫。何も準備がない中で捨てられるのは辛い」

父は私の心の根を察したのか、「捨てるわけないだろう。ママが?事あるごとに?分かった大丈夫だから、もう何もそれについては心配しないでいい」と言ってくれたのですが、それが原因で父が言い負かされてやっぱり捨てるってなったらどうしようと、弟は生まれたばかりだから捨てられるのは私だなと人命は尽くした天命を待つつもりで腹を括っていました、、それ以降は母の言葉の暴力も消えたのは事実ですが、父の働きでそうなったのか、たまたま言わなくなったのか、父から怖くて聞けずになんだかんだで3年生になるまで怯えていた記憶があります。

7歳児の私は念のため弟のオムツ替え、粉ミルクの作り方と温度管理、滅菌方法。ミルク後のゲップの出し方もマスターし母から育児の多くの負担を減らし自分の安全圏を守っていました。母はホステスを辞めてずっと家にいるとのことで、嬉しい半分、私を預かってくれた近所のオバちゃんとの交友が途切れてしまって悲しい半分でしたが。

そして母が専業主婦をすることで母と私、それぞれ別な形で不幸が起きました。公園デビューというかママ友の輪にどうしても入れないようだったのです。私から見てもお嬢様というか気位が高い、ホステス時代が抜けないのか派手な服を着て公園やスーパーに行くので女性特有の妬み嫉みの類いを受けていることを友達から聞いた時は切なくなりました。私は黙っていられずに母に可哀想だね、大丈夫的な言葉を投げ掛けてしまったことを後悔しています。

そこから母が私に求めたのは友達と縁を切る、遊ぶな、話しかけてもダメ。

涙ながらに言われては私は従うしかありませんでした。母の指名した友達には親友と言っても差し支えのないオイカワ君もいました。オイカワ君とは家族ぐるみの付き合いでお父さんが大工ということもあり、私の部屋の押し入れを2段ベッドに改造してくれた大切な人も切ることに心を痛めましたが約束なので実行しました。

人生で初めて「人を捨てる」ってこんな辛いことなのかと。

そして躊躇わずに捨てる決断をする母にさらなる恐怖を覚えました。こんなことは二度としたくないし、もうしない。従わないという「反骨心」が初めて芽生えたのもこの時です。約束通りオイカワ君は捨てるがそれ以上は無理と断ることで私自身の被害は最小限に抑え、オイカワ君は小学校ずっと私に理不尽に無視される苦行を与えてしまったことを本当に申し訳なく思っています、ごめんね。

私の人間関係を整理しようとしたところで母のママ友の輪が広がるはずもなく母の心は荒んでいき、教育という正論で私を支配するようになっていったのでした。

中学のお受験です、その話は次回。

メンヘラで引きこもり生活困窮者です、生活保護を申請中です。ガスも止めてスポーツジムで最低限の筋トレとお風呂生活をしています。少しでも食費の足しにしたいのが本音です。生恥を重ねるようで情けないのですがお慰みを切にお願いします。