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波を鳴らして【小説】


 第一部 山の風


 夏休みに、妙子さんの家に行くのは、楽しみでもあり、憂鬱でもあった。

 大好きな妙子さんの家は、山の上で、小学生の私は、乗り物に弱かったから。

 新幹線を降りた後で、カーブの多い山道を走るバスで過ごす二時間は、永遠の様に長かった。

「すみれ、見て。ほら、もうすぐ滝が見えるよ」

 母が、私の気を紛らわそうと、窓の外を指す。私は黙ってうなずく。

 本当は、うなずくのも辛くて、景色どころでは無いけれど。



「いらっしゃい、さやかちゃん、すみれちゃん」

 妙子さんは、いつも、白髪混じりの髪をお下げにして、木綿のゆったりしたワンピースを着ている。

「すみれちゃんは、車酔いね? お布団敷いておいたから、休みなさい」

 青い顔で玄関にへたり込む私に、妙子さんは、おっとりと声を掛ける。

 私は挨拶もそこそこに、座敷に敷かれた布団に転がり込む。

 ちりん、ちりちり、ちりん。

 妙子さんのお気に入りの風鈴を、山の清涼な空気が揺らす。

 風鈴の音色を聴きながら、糊の効いたシーツの上で微睡むと、ようやく、私の夏休みが始まる。



 妙子さんは、祖父の再婚相手だ。母とは八歳しか違わない。

 四歳の時に、祖母を亡くした母は、ずっと、祖父と二人で生きてきた。

 祖父が電撃的に妙子さんとの再婚を決めた時、母は、高校生だった。高校卒業と共に、母は実家を離れ、そのまま長く戻らなかった。

 母が再び実家の敷居を跨いだのは、祖父が余命宣告を受けた時だった。

 妙子さんが献身的に祖父を介護し、見送った事で、妙子さんと母の関係性は、変化したらしい。

 祖父が亡くなった後も、母は、毎年里帰りするようになる。結婚せずに私を産んだ後も、ずっと。



 ちりん、ちりちり、ちりん。

 風鈴の音色で目を覚ますと、大抵、夕暮れ時だった。

 妙子さんと母が、台所に立っている気配がする。夕餉のいい匂いが漂ってくる。

「お腹空いたあ!」

 台所に飛び込むと、妙子さんも母も、私を見て、ほっとした顔になる。

「全く、さっきまで、バス酔いで寝込んでいた人とは思えないよ」

 母が憎まれ口を叩きながら、にやりとする。

「良かった。すみれちゃんといっぱいお話しするの、とっても楽しみにしてたの」

 妙子さんが、おっとりと笑う。

 夕餉の献立は、豪華なものでは無かったけれど、私の好物ばかりが並んでいた。

 思い返すと、何て贅沢な時間だったのだろう。



 高校以降の夏休みに、妙子さんの家に行かなくなったのは、つまらない理由だ。

 一言で言うと、恋だ。

 高校の吹奏楽部で出会った彼に、夢中になった。

 彼も私と同じ気持ちでいると感じられたのに、部内恋愛が禁止だった事が、余計に気持ちに拍車をかけたのかもしれない。

 コンクール出場へ向けて、夏休み中も部活はあった。自由参加ではあったけれど、私も彼も、全日程の参加を決めた。

 妙子さんの家には行かないと告げた時、母は驚いていたが、短く「そう」とだけ言った。

 私が行かないと知った時、妙子さんはどんな気持ちになったのだろうか?

 今、その事を思うと、胸が痛い。当時は、ただ、恋に夢中だったけれど。


Illustration ©️ Takeneko 2023


 第二部 波の音


「いらっしゃい、すみれちゃん」

 十年振りに会った妙子さんは、白髪が増えたけれど、相変わらずお下げ髪にして、木綿のゆったりしたワンピースを着ていた。

「車酔いはしてない?」

「大丈夫。自分で運転するようになったら、車酔いしなくなったから」

「すみれちゃん、運転する歳になってるのね」

 妙子さんの口調は、しみじみとしていた。

「突然押しかけて、ごめんなさい。友達と旅行に行く予定だったけど、色々あって、行けなくなって。でも、折角休みを取ったから、夏休みらしい事をしたくて。一番夏休みらしい事って何だろうって考えたら、妙子さんに会いたくなったんだよね」

 私の言葉は、正確ではない。

 正確に言えば、旅行に行く筈だったのは、友達とではない。高校卒業と同時に、正式に恋人になった彼とだ。

 旅行に行けなくなった理由は、彼に好きな人が出来て、私と別れたからだ。

 でも、妙子さんに、無性に会いたくなったのは、本当の事だ。

「まあ、何て嬉しい事を言ってくれるの。何のお構いも出来ないけど、ゆっくりしてって」

 妙子さんは、本当に嬉しそうに笑った。



 ちりん、ちりちり、ちりん。

 風鈴の音で目覚めると、障子の向こうに、朝の光が透けていた。

 時計は六時を指している。私にしては早い起床なのに、すっきりと目が覚めていて、よく眠れたという実感がある。

 このところ、ずっと、うまく眠れなかった。彼の夢ばかり見て、夜中に何度も目が覚めた。

 久しぶりに夢を見ずに眠れた。その事が嬉しかった。

 台所から、妙子さんの包丁の音が聴こえる。私は起き上がり、台所に向かった。

「妙子さん、おはよう」

「おはよう、随分早起きね」

「手伝うよ」

 私が台所に立つと、妙子さんは手を止めて、私を見た。

「すみれちゃん、本当に大人になったのね」

「そうだよ。車酔いもしないし、包丁も使えるよ」

「ほんとね。ああ、嬉しいなあ。すみれちゃん、どうしてるかなって、ずっと思っていたから。素敵な大人になって、また顔を見せてくれて、とっても嬉しいの。きっと、すみれちゃんが思っているより、ずっと嬉しいのよ」

 妙子さんの声は弾んでいた。私も弾んだ気持ちになった。



 山の上の家は、涼しい。真夏でも、朝と夕方はエアコンが要らないくらいだ。

 朝一番と、夕暮れ時に、妙子さんは、家中の建具を開け放つ。

 ちりん、ちりちり、ちりん。

 山の風が、風鈴を鳴らす。

 涼やかな音色を聴くと、子どもの頃の夏休みの情景が幾つも蘇る。

 彼と出会う前の、ちいさな私の幸せな記憶。

 妙子さんは、私に何があったのか、薄々察していただろう。母から何か聞いていたかもしれない。でも、私の事情には何も触れなかった。

 ただ、献立は全て、私の好物ばかりを選んでくれた。とてもさり気なく。



「この風鈴の音を聴くと、夏休みって感じがするなあ」

 休みの最後の日、私がしみじみと言うと、妙子さんはおっとりと首を傾げた。

「そう?」

「うん、山の風の音だね。涼しくて、気持ちが良くて、優しくて」

「山の風の音?」

 妙子さんは、目を丸くして、私を見つめた。

「なるほどね。すみれちゃんにとっては、この音は、山の風の音なのね」

「え? 妙子さんにとっては、違うの?」

 私の問いかけに、妙子さんは少し黙り、そして、ぽつりと言った。

「この音は、私にとっては、波の音なの」

「波の音?」

 今度は、私が目を丸くする番だった。



「私ね、海辺の小さな町で生まれ育ったの。町のどこに居ても、波の音が聴こえてた」

 妙子さんは遠い目をした。初めて見る顔だ。

「初めて聞いた」

「そうね。私、生まれた町には、良い思い出が無くて。結婚した時に持ってきたのは、この風鈴だけ。他の過去は全部、置いてきてしまったの」

 私は、何も言葉を返せなかった。そんな私を見て、妙子さんは、遠い目をやめて、笑顔になった。

「私ね、すみれちゃんのおじいちゃんが、今でも大好き。あの人と一緒に、ここで暮らし始めて、やっと私の本当の人生が始まったの。山の上の暮らしは、海辺の暮らしより、私の性に合っていると思う。……でも、そうね」

 妙子さんは、再び遠い目をした。

「良い思い出は無いはずなのに、風鈴の音色を聴くと、波の音を思い出して、少し元気になれるの。不思議なものね」

 妙子さんは、そう言うと、遠い目で微笑んで、それ以上は何も言わなかった。

 ちりん、ちりちり、ちりん。

 涼しい風が、風鈴を揺らした。



 妙子さんが亡くなったのは、それから、半年後の事だった。

 回覧板が止まっている事を不審に思った町内会の人が、台所で倒れている妙子さんを見つけたそうだ。死因は脳溢血で、恐らくは突然の事だっただろう、との診断だった。

 何か予感があったのだろうか。妙子さんは遺言書を残していた。相続人に指定されていたのは、母と私だった。

 相続にまつわる様々な手続きの中で分かったのは、妙子さんの両親は、妙子さんが幼い頃に亡くなっていて、兄弟も居ないという事だけだった。

 ——他の過去は全部、置いてきてしまったの。

 遠い目の微笑みを思い出す。



 今、妙子さんの風鈴は、私の手元にある。

 アパートの寝室に飾られた風鈴を、私は時々、手で揺らしてみる

 ちりん、ちりちり、ちりん。

 山から遠い町の、小さなアパートの中に、山の風の気配を聴いて、私は、少し元気になる。

 もしかしたら、妙子さんが、海から遠い山の上で、波の音の気配を聴いて、少し元気になったように。




たけねこさんの絵から生まれた音楽と小説です。

 2023年7月、たけねこさんが「どんな音がするのでしょう」という言葉を添えて、風鈴の絵をTwitter(現X)に投稿されました。

 その絵を拝見して、私なりに聴こえてきた音が、64秒の楽曲/動画と、3500字少々の小説になりました。

 楽曲/動画、および、小説の投稿に当たっては、たけねこさんの絵を、ご本人ご了解の下、動画・タイトル絵・挿画に使わせて頂きました。たけねこさん、ご快諾をありがとうございます。

 尚、楽曲/動画中の波音は、音人さんのフリー素材を使用しました。風鈴の音はGarageBandで自作しています。

 楽曲/動画は、YouTubeで公開中です。音楽コラボアプリnanaでも公開予定です。



★たけねこさんプロフィール

お目に掛かれて嬉しいです。またご縁がありますように。