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どうしてカンボジアで児童福祉にかかわることになったのか②

前回の投稿でスナーダイ・クマエに関わるようになったきっかけについて書きました。
施設やわたしの存在を知ってくださった方々からよく出る質問が「どうしてカンボジアに児童養護施設を作ったのか?」というものです。当然だと思います。
わたしもこれが他の人のことなら、まずはそこを知りたいなと思うでしょう。

先日シェムリアップ在住歴の長い方数名とゆっくりお話する機会がありましたので、わたしから別の方に同じような質問をしてみました。
その方は自分の専門分野の中で他国の例を実際に見たいと思ったときに、その選択肢としてたまたまカンボジアがあっただけだったとおっしゃっていました。こんなに長くカンボジアと付き合っていくことになるとは思っていなかった、と。
それを受けて別の方は「結局そういうきっかけのほうが長続きするのかもしれませんね。最初から熱すぎるよりも。」と言い、その場にいた全員がうなづいていました。


もうひとつ、必ず訊かれること

カンボジアの児童養護施設に関わることになったきっかけは、前述のとおり「結婚」の一言なのですが、2010年に離婚したことを知った方からはまたまた避けて通れないもう一つの質問を頂くことが多くなります。


「離婚してもなおカンボジアにとどまろうと思った理由は何ですか?」


これも当然出る疑問だろうなと思います。


「離婚するまでの10年間、仕事への思いが時間をかけて育っていったので、どうしてもそれを手放す気持ちになれなかった」というのがわたしからの答えです。


カンボジアで児童福祉に関わることになったきっかけは児童養護施設を運営していたカンボジア人男性との結婚であり、その後活動に関われば関わるほどそこにいる人たちへの興味と愛着が湧いてきて離婚後もここを離れたいとは思わなかった、ふたつの質問への回答をまとめていうとこういうことになります。
つまり「児童福祉に関わりたい」というよりも、この人たちと共に生きていきたいという思いがカンボジアで児童福祉に関わっていくことにつながったというほうが正しいのかもしれません。

40年以上生きてきてようやく自分でもわかってきたのですが、わたしは事前に目標を決めそれに向かって努力したり突き進んでいく生き方ではなく、与えられた環境の中で自分が好んでやっていけそうなことを見つけるタイプなんです。

カンボジアの恵まれない環境にいる子たちを救いたいとか、キラキラした瞳を守りたい、という自分の気持ちを最初から相手にぶつけていくという方法ではなく、偶然にも与えられた場所で出会った人たちと、理解し合えないもどかしさを抱えつつ、相手のことをこれからも知っていきたいし自分のこともわかってもらいたいと時間をかけて思うようになったということです。

カンボジアの子どもたちという漠然とした存在ではなく、ひとりひとり顔と名前のわかる人間として向き合う日々を送ることで、「この子たちと未来を分かち合いたいな」と思うようになりました。
そう思っている以上、カンボジアを離れるという選択肢はありません。

どうしてみんなと向き合っていきたくなったのか、その礎となるお話はまた今後続けて投稿していきたいと思っています。


大事なことを付け加えておくと、離婚の話が出た時点でわたしがこの施設から離れたくないと申し出たとしても団体代表だった当時の夫から拒否されたら叶うことはなかったので、その点は彼に感謝すべきことだと思っています。
カンボジアを離れなかったのにはもう一つ理由がありますが、それは今回の主旨とずれてしまうので、また別の機会にお話しします。



次回の投稿はカンボジアを初めて訪れた旅のことにします。


【写真】
2010年@シェムリアップ・スナーダイ・クマエ
約半年ぶりに再開された学校に行く子どもたち
新型コロナウイルスの影響で、フェイスシールド着用が必須
各自消毒用アルコールスプレーを手にしている

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