見出し画像

風景を作る農業。棚田の初夏、そして秋①〜岡山県美作市上山の千枚田。

政令指定都市、岡山市から北へクルマで一時間ほど走ると、そこはもう、大都市の喧噪を離れた深い山の中。中国山地の小さな山々と、おそらく百年近く変わっていそうにない、静かで懐かしい里山の風景が広がっています。
そんな中、岡山県美作市と和気町の境目あたりに、このような棚田があります。

かつては英田(あいだ)郡英田町上山。2005年の平成の大合併により、美作市上山となりました。


もう少し引いて見ると、そこは棚田を守る上山神社。この案内板の向こうにはすり鉢状の大きな谷が広がっており、そのすり鉢を埋めるように、大きな棚田が広がっています。いや、かつては広がっていたと言うべきか。一度は耕作放棄地となり、今はその何割かが再生されています。


神社の反対側から見ると、このような眺め。写真は、田んぼに水を入れる直前の、5月下旬でした。

8300枚の棚田って、かなりの規模ではないか? いわゆる棚田百選にあるような有名な棚田でも1000枚程度がほとんどなので、8300という数字に多少の誇張はあったとしても、この棚田の規模は日本最大級と言ってもいいはずです。

イントロ:かつて、この棚田は耕作放棄地に覆われていた。

だったらなぜ、これまで隠れていたのか。実を言うとこの棚田、高齢化や減反政策などにより、1970年代から耕作が放棄され始めました。以降、2007年にこの棚田を再生させようという人たちが現れるまで、この広大な谷は雑草のみならず、人の背丈をはるかに超える笹藪や灌木や竹藪に覆い尽くされ、人が近寄れない絶望的な荒れ地となってしまいました。もちろん山の動物たちも下りてきて茂みに住み着き、里山は崩壊寸前の状態に追い込まれていたはずです。

そんな中、この棚田に興味を持った人たちが大阪からやって来たのが2007年。地元の人たちと相談しながら、試しに雑草や笹藪を刈ってみたところ、
「意外に行けるんちゃう?」
ということで、数名の有志が大阪から通いながら、この棚田の再生が始まります。
やがて、この活動を目的としたNPO法人『英田上山棚田団』が誕生。
棚田再生とは言っても、笹藪や灌木を刈ればすぐに元通りの田んぼに戻るわけではなく、張り巡らされた根っこを根気強く取り除きながら、再び稲作ができる状態に戻るまでには3〜4年はかかると言われています。この広大な棚田のほんの一部を再生するだけでも、気の遠くなるような作業なのでした。

ぼんやり眺めるとただの雑木林に見えるところに、横から日が射すと縞模様や石積みが現れる。
つまり、ここも棚田だったわけです。杉の木は、田んぼをあきらめたときに植えたもの。かつて木材が高く売れた頃の名残とのこと。しかし価格の崩壊が始まって以降、こうして放置された林は多い。

そして2009年、地域おこし協力隊制度が始まる。上山には2010年、まず3名の定住者が現れます。やがて人が人を呼び、協力隊を初めとする定住者は増え続け、この地味で過酷な棚田再生活動は加速度をつけて活気を帯び始めます。
「あの棚田を復活させるなんて、絶対に無理じゃろう」
と言っていた地元のお年寄りたちも、竹藪が消え、刈られて野焼きされた灌木や雑草の中から懐かしい棚田の積み石が現れると、歓喜の声を上げることとなります。
「向こうの家に電気がつくのを見たときにな、こみ上げるものがあったんじゃ。もう長い間、竹藪で見えんようになっていたけぇ」

そう。このような活動は、地元の人たちの協力が無いことには何もできない。その点で、この棚田には何でも任せてくれる人が多く、恵まれていたと言えそうです。今でも棚田ならではの稲作の技術や文化にいたるまで、地元のお年寄りが孫のような若い人に伝えながら、再生活動が続けられています。
一人二人くらいの移住では、とてもこんなことできっこない。しかしここには現在40人を超える移住者が集まり、今も増え続けている。しかも棚田再生などという大真面目な活動をしている割に、二言めにはギャグを言わないといられないような人たち。こういうチームでなくては、こんなにキツい活動はとても続かないはずです。

などと、彼らの活動の10数年について語り始めると長くなるので、詳しくは以下のサイトをご覧ください。現在、彼らと一緒に棚田再生活動に取り組める「稲株主」制度にもご注目を。

そして今年の6月、農繁期2022はこうして始まった。

僕が取材で初めてこの地にやって来たのが6年前。以降、このチームや地元の人たちとの話が楽しくて、シゴト抜きで通うようになりました。とは言っても年に一回か二回、手伝いに行く程度ではありますが。
今年は、まだ見たことの無かった”水落とし”という、棚田ならではの大切な儀式を見に行き、ついでに棚田に張り巡らされた水路を整備するという、かなり過酷な作業が待っているのでした。

6月上旬、農繁期を前に、満水の水をたたえた大芦池。標高500mほどの山の頂上付近にある。晴れの国、岡山にあって、これはすべて雨水だということに驚く。雨水だけでお米を作ってしまうのだ。


田んぼであるからには水が必要。日本中のいたるところで見かける多くの田んぼは、川や湧き水から水路を引いているけれど、この棚田では何と雨水のみ。低地に行けば小川や湧き水を使える田んぼもあるとは言え、昔から、8300枚の田んぼの水は、基本的にこの溜め池でまかなわれてきた。
ここは晴れの国、岡山県。にもかかわらず、地元のお年寄りに聞いても、この水が涸れたところは見たことが無いという。大切に使われているのだ。

毎年6月1日は「水落とし」の儀。とは言え儀式はいたってシンプルで、祝詞が上げられた後、地域を代表する水番が(彼は地域おこし協力隊の一期生。以降もこの上山地区に移住し、棚田再生活動を行っている)御神酒を捧げる。が、この後が大変で、池の栓が開けられた後は滝のような水が水路に流れ始め… 

棚田を訪れる機会があったら、ぜひ水路も見てほしい。

この棚田の規模は、標高差にして300mほど。池からいちばん遠い田んぼまで5kmほど。もちろんその間は、すべての田んぼに水が行き渡るように、血管のような水路が張り巡らされている。水路とは言っても、すべて下りの地形ばかりではなく、中にはわずかな下りを探しながら、どうにか上りを越えて行くような箇所もある。水路によって掘られた時代は場所によって違うらしいけれど、その多くは江戸期に掘られているとのこと。昔の人の測量技術を思うと、気が遠くなるというものです。

そしてもちろん、自然の中に掘られた水路である限り、日頃から水路の保守点検は欠かせない。冬の間に休んでいた水路には枯れ葉が詰まり、崩れている箇所もいくつか。それらをすべて取り除き、補修し、スムーズに水が流れる状態に戻す水路掃除は、この”水落とし”までに終えていなくてはならない。
とは言ってもですね、水に濡れた葉っぱの重いこと! その重労働を、総延長なんて考えたくもないくらい長〜い水路の上から下まで行うわけです。この作業だけは、棚田を守り続けてきたお年寄りだけでは到底無理というもの。もちろん若い移住者たちが主力として働くわけですが、それでも人手は足りるはずもなく、大阪在住の棚田団や、地元の学生たちが加わり、どうにか終えるのが5月下旬。もちろんその間にも、冬の間休んでいた田んぼの田起こしや、田植えに備えた苗の準備も終えていなくてはいけない。眺めれば美しい棚田ではあるけれど、その維持には気が遠くなるような苦労が重ねられているというわけです。

水路にはU字溝やパイプの通された箇所もありますが、中には掘られた当時のままの露天掘りの箇所もある。これらすべてで総延長何キロになるのだろう? しかも、一カ所が詰まっても崩れても水が流れなくなる。そのような水路に、あの美しい棚田が支えられているというわけです。
離れた地区に水を分配するための分岐点。鉄板一枚で仕切られており、意外にシンプル。

棚田は「公共」という言葉の意味を学ぶために絶好の場所。

なお、この水路の保持は、農繁期の間ももちろん行われる。大雨が降れば、台風が来れば、それはもう必ず、誰もが見回りに行く。自分の家の周りの水路は各家庭で保持することが当然とは言え、集落から離れた箇所はどうするのか? これはもう、気づいた人が行う以外にありません。
棚田にいると、「公共」という言葉が持つ、本来の意味を考えずにいられなくなります。この広大な棚田の田んぼの一枚一枚が、すべて水の流れを通じて隣の田んぼに有機的に繋がっている。つまりひとつの田んぼが壊れると、被害は周囲にも及ぶ。だからどの田んぼもみんなのもの。たとえ自分の家から遠く離れた水路が小さく決壊しても、誰かの田んぼにイノシシが飛び込んでも、それはいずれ、ここに住む全員に降りかかる問題。だから気づいた誰かが、手に負えなければ全員が、カラダを張って速やかに問題を解決する。そして秋になって初めて、みんなで主食を共有する。公共もサステナブルも、本気でやってみるとタイヘンなのだよ。

見ての通り、棚田は一つひとつの田んぼが小さく、かつヘンな形をしているので、機械に頼れないことが多い。自ずと手作業が多くなる。だからこそ稲作の基本が学べる。と、頭で考えるのは簡単だけど、僕なんか2泊3日でお手上げです。しかし稲作をする人たちは、お手上げでも何でも続けなくてはならない。

タイヘンとは言うけれど、考え方によっては水路の周りは手つかずのトレイルが多い。いいトレッキングになるので、道をもう少し整備すればトレッキングかたがた水路の見回りができるかもしれないし、なんならスコップを担いでのトレランとかどうなんだろう? これは蛇足でした。

そして無事に水は通り、あとは田植えを待つばかり。

さて、と、池の水は栓を抜いた。滝のような音が、静かな棚田の村にとどろく。と同時に、麓まで無事に水が流れるのかどうか、緊張が走る。
5kmほど離れている麓の水路に水が届くまで30分ほど。意外に速いのだ。そしてそれまでに、普段から水が溢れやすい箇所、露天掘りの箇所などを見に行く。すると案の定、うまく水が流れず水たまりになっている箇所や、決壊寸前の水路もいくつか。そこを、用意しておいたスコップや土嚢を使いながら、どうにか塞いで整えて行く。もうね、これはキツいです。ポジティブに言えば、いい持久系筋トレになります。とは言え筋トレだったら適度に休憩を入れるけれど、この場合は休憩していると水が溢れてしまうので、休んではいられない。
水落としの儀式が朝の6時。そしてどうにか水路の補修を終えたのがお昼ご飯の時間。とは言え、どうにかこうにか麓の田んぼまで水が届いた。しかし息つく間もなく代掻きが始まり、田植え。いよいよ農繁期がやって来るわけです。

こうして田んぼに水が入り、さっそく代掻き。向こうの緑の部分は、手入れこそしているけれど、まだ田んぼには戻っていない耕作放棄地。
ついでにこんな写真も貼っておこう。これは、池の栓を開けて、水が田んぼに流れて行くところ。見ると小さな渦巻きなのだけど、パワーは強力です。この小さな渦巻きが、千年以上も8300枚もの田んぼを潤してきたと思うと、何やら神妙な気分になってくるのでした。

こうして、日本の初夏の風物詩、水鏡となった棚田の姿が現れます。
これから夏を迎え、雑草との闘い、田んぼを荒らしに来る動物たちとの闘いが始まり、台風に備えながら、稲の生長を見守り、秋の収穫まで。
僕はこのあと、9月の収穫の時期までお邪魔できませんでしたが、稲刈りの話を続けると長くなるので次回に。とは言え、今回は写真が地味だったので、最後に稲刈り直前の棚田の写真を貼っておきます。もちろん、今年も豊作だったので、どうかご安心ください。

黄色い部分が稲。緑の部分は雑草に覆われた石垣です。
刈るのがもったいないくらいに美しかった。



この記事が参加している募集

旅のフォトアルバム

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?