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#69 サラ金の歴史 -消費者金融と日本社会-

“サラ金の歴史 -消費者金融と日本社会-”を読了。
メンバーのオススメ本ということで読んでみた!
ここまで丁寧に日本の社会/経済の流れに沿う形でサラ金の一連の栄枯盛衰を丁寧にまとめているとは、、驚き。
サラ金各社のターゲットユーザーの心理に入り込む創意工夫が驚異的だった。
個人的にはサラ金は論外派だけど、この創意工夫は商売人として目を張るものがあると思った。
特に印象に残っている学びは下記の3点。

  • 中でもサラ金は、銀行などに先行して零細な個人に金を貸すための金融技術を蓄積しており、長く他の金融機関の追随を許さなかった。サラ金こそが、多数の家計に無担保で金を貸すための効率的な金融技術を、日本で最初に編み出した金融機関だった。

  • 後に、サラ金が社会問題化した際、その原因は銀行が個人向け融資に消極的で怠慢だったと指摘されたこともある。ただ、銀行の怠慢は、基本的には行政の意向に沿っていたものであったため、行政もその責任の一端を追っていたと言える。

  • サラ金によると、生活困窮者の金融的な包摂は、銀行の金余りという「ある種の不均衡状態」の下で家計へと本格的に資金が流入するようになった。結果として、サラ金がセーフティネットを代替するおいう事態になった。


本書の内容は昔の話で終わりすることはできず、すでに新しいサラ金モデルがフィンテックの到来によってヌルッと始まっているから、同じような過ちを繰り返さないようなルールメイクや自浄作用を働かせる必要があると思う。
面白かった!

以下、学びメモ。
ーーーーーー
・高度経済成長にブレーキがかかった1970年代以降、貸付先の減少に苦しむ金融機関は、中小企業向け融資や、個人を対象とするリテール部門を拡大した。
→★中でもサラ金は、銀行などに先行して零細な個人に金を貸すための金融技術を蓄積しており、長く他の金融機関の追随を許さなかった。サラ金こそが、多数の家計に無担保で金を貸すための効率的な金融技術を、日本で最初に編み出した金融機関だった。★
・サラ金が誕生した1960年代から1970年代においても、男女間で消費者金融の利用実態は大きいく異なっていた。サラリーマン男性は、接待や会社の付き合いのために、時に妻に内緒でサラ金から金を借りていた。一方、サラリーマン世帯の主婦が金を借りるのは、生活費の穴埋めといった家計のやりくりが主な目的だった。
→★当時の都市家計の中軸を担ったサラリーマン世帯の妻と夫は、家計内部の性別役割分業と深く関わりながらサラ金を利用していったのである。★
・貧民窟で喜んで金を貸す男は「男伊達」「侠客」と呼ばれた。このような人物たちは前科九犯など社会的・経済的な上昇の見込みがほとんど持てなかった人たちが多いという。
→そんな男たちにとって、金を貸すという行為は、利子を取って儲けられるだけでなく、借りる側に自らの優越を認めさせる絶好の機会であった。
・貧民窟の金融に特有な性格を端的に表しているのが「親分取り」と「兄弟分の縁結び」である。貧民窟の男たちは、金に詰まると適当な人物を選んで親分を取るか、兄弟分の縁を結んだ。
→親分、兄貴となって金を貸せば義侠心を誇れるから、「男らしさの価値体系」の中で自らの地位を顕示できた。子分・舎弟となって金を借りる側も、社会的に要請される仁義を通し、擬似的な家族関係を取り結べば、借金に伴う”恥”の感情が軽減された。
→また、高利貸しになる実利的なメリットとして、もし「走り」から「使い」を経て、金主である高利貸しの地位に到達できれば、貧民窟では異例なほど多くの収入を期待できた。
・サラ金の直接の源流として重要なのは、日本昼夜銀行の「サラリーマン金融」である。1927年の金融恐慌を乗り切った都市銀行の多く(日本昼夜銀行問わず)は、遊んでいる金を持て余していた。
→そこで日本昼夜銀行が遊資を活用するために1929年に発案したのが、サラリーマン金融だった。当日の借入資格は厳しく、公務員か「相当なる会社」に勤める上層のサラリーマンだった。
・日本昼夜銀行の小口信用貸付は、同行が1943年に安田銀行へ吸収合併されたのを機に廃止された。これと入れ替わるようにサラリーマン貸付を行ったのが、1938年に大蔵省が主導して設立した庶民金庫だった。
・質屋件数のデータは、全国的には1958年、東京では1960年であり、団地金融が登場した1960年を境に、消費者金融と入れ替わるように衰退していく。
・1961年に割賦販売法が制定され、取引を円滑化するための環境が整えられた。この頃に普及した電気冷蔵庫、電気洗濯機、白黒テレビの三種の神器は、かなりの割合が月賦を通して購入されている。
→★デモンストレーション効果(ある人の消費が他の人の購買行動を刺激する効果のこと)により、高度経済成長期の人々の間で「中級階級の幸福な生活を演出するための道具立て」として割賦を活用した購入スタイルが普及していった。★
・1960年代前半までの金融政策では、マクロレベルの貯蓄不足から、電力・海運・鉄鋼・石炭の四重点産業に対する資金配分が優先されていた。まずは主要産業の成長が優先され、消費者金融は一貫して後回しとされていたのである。
→★後に、サラ金が社会問題化した際、その原因は銀行が個人向け融資に消極的で怠慢だったと指摘されたこともある。ただ、銀行の怠慢は、基本的には行政の意向に沿っていたものであったため、行政もその責任の一端を追っていたと言える。★
・★家計を任されていたにもかかわらず、妻が夫に秘密で借金すれば、後ろめたさや罪悪感、プレッシャーを抱え込む。だから必死になって返済する。団地金融業者は、家計を任されていた主婦の自負と責任意識をそのまま債権回収に利用できた。夫に内緒の借金に取引を限定した団地金融の方針は、回収面でも金融技術的な合理性を有していた。★
・森田国七や田辺信夫が始めた団地金融に代わり、1960年半ばから急速に成長したのがサラリーマン金融、つまりサラ金だった。
・団地金融と異なり、サラリーマン金融では、顧客の自宅訪問による追加的な審査は行わなかった。優良企業に勤務し、自ら稼ぐサラリーマン本人を主たる融資の対象としたため、団地の主婦よりもリスクが低かったからである。
→★名刺一枚で融資を実行するサラリーマン金融の手法は、団地金融以上に低コストで情報の非対称性を縮小できた。勤務先情報だけに基づいて融資するサラリーマン金融の誕生は、団地金融と並ぶもう一つの金融技術の革新であった。★
・当初のサラ金は、主婦を原則的に排除し、サラリーマン男性のギャンブルやレジャー資金といった浪費目的の資金使途を「前向き」として歓迎していた。
→高度経済成長期の日本企業は「情意効果」という人間力評価がメインだったため、サラ金から金を借りてまで遊ぶサラリーマンの消費行動は、この時代の「出世」に紐づいていたのだ。
・1970年代初頭までの銀行は、新参者だったサラ金に対し、容易に金を貸そうとしなかった。高度経済成長期には、金融当局の生産金融優先の方針もあり、サラ金各社が銀行から資金を借りるのはほとんど不可能に近かった。
→まとまった資金を低金利で集められないことがこの時期のサラ金の成長を制約する最大の要因であった。資金調達に苦しむサラ金各社は、1967年から始まる資本自由化に熱い視線を注いでいた。1970年9月の第三次資本自由化では、金融業がいわゆる50%業種に指定されたことを受けて、各社が積極的に外国籍の資産家から融資を受け入れるようになっていった。
・1970年代に入る頃から、貸金業登録者数は急増していた。
→物価が激しく上昇すれば、値上がりする前に借金してでもモノを買った方が得になる。貸金業に対する需要が高まることを見越して、貸金業登録者数は急増した。
・ヤタガイ・クレジットの八谷氏が学生ローンを生み出した。四年制大学への進学率が年々高まっていることを受けて、それまで自粛していた学生を対象とした金貸しを始めた。なた、現金の通信販売のような、電話一本で貸し付けることも始めた。
・1970年代は、銀行を中心とする従来の金融システムが大きく動き出した時期だった。この頃、働き盛りを迎えた団塊世代が老後に備えて貯蓄に励んだこともあり、日本は貯蓄不足から貯蓄超過に転じていた。一方、高度経済成長期以降の国内企業は多額の内部留保を抱えており、銀行融資への依存度を徐々に低下させつつあった。
→★この貯蓄超過と「不均衡状態」が、サラ金の資金調達を容易にした要因でもあった。預金を持て余した銀行がサラ金向け融資に走ったのだ。★
・サラ金企業の資金調達が容易化し、信用審査の基準が大幅に緩和された結果、生活や商売に行き詰まったリスクの高い人々が「藁にも縋る思い」でサラ金を利用するになっていた。→★サラ金によると、生活困窮者の金融的な包摂は、銀行の金余りという「ある種の不均衡状態」の下で家計へと本格的に資金が流入するようになった。結果として、サラ金がセーフティネットを代替するおいう事態になった。★
→このような状況下において、サラ金は女性や低所得者層に融資の対象を広げるにあたり、ブラックリストに代表される信用情報の共有と、団体信用生命保険の導入というリスク管理策を講じていた。
・★団信の導入は、リスクの高い債務者を金融的い包摂する上で重要だったものの、債務者の自殺をも辞さない過酷な取り立てという債権者のモラル・ハザードを30年にわたって誘発し続けた。★
→1977年から78年にかけて、メディアは競って「サラ金禍」を批判的に報道し、その過熱ぶりは「第一次サラ金パニック」と呼ばれるほどだった。
・外資の低利規制と、国内金融機関に対する消費者ローンの要請という大蔵省の介入にもかかわらず、この時期にもサラ金は成長し続けた。
→しかし、1978年に大蔵省から発せられた「徳田通達」がサラ金業界に一時的に深刻な打撃を与えたのだ。徳田通達は、銀行のサラ金向け融資を全面的に停止させる劇的な効果を発揮したのだ。
→ただ、この状況下においても、サラ金各社は外国銀行から資金調達を行い、活路を開いている。
・★1983年をピークに、各社の店舗数と融資残高は減少に転じた。1982年前後の急拡大によって「第二次サラ金パニック」が生じ、高まる批判を背景に貸金規制法が1983年にようやく制定されたためである。規制を大幅に強化した同法は、業界全体に深刻な打撃を与えたのだ。★
・冬の時代から抜け出したのは、1986年から87年にかけてのこと。1986年にはそれまでの積極的なリストラが評価されて経営不安が拭い去られ、外国銀行の融資再開や外債発行が実現するなど、資金調達は安定を取り戻した。加えて、優良債権の積み増しと円高不況に備えた公定歩合の引き下げによって利幅が拡大し、貸付金利子収入が増加に転じた。
・自動契約機の登場は、各社の店舗数と顧客増大の起爆剤となった。最初に自動契約機を開発したアコムは業界全体の拡大を企図し特許をあえて取得しなかったため、他社も次々と「むじんくん」に類似した自動契約機を開発・設置した。窓口業務の大部分が機械化された結果、サラ金各社は従来以上にコストを節約しながら出店できるようになった。
・バブル崩壊後のサラ金各社は、戦後日本の企業社会と家族の変化を巧みに捉え、再び融資基準を緩和し始めた。その結果、業界の過当競争が再び激化し、各社は過大なリスクを冒しながら融資拡大に前のめりになっていった。
→この結果、またも過剰貸付が横行し、多重債務者や自己破産者が著しく増加していった。
・★武富士とアイフルに対する批判の高まりによって、サラ金に対する規制強化求める世論は日増しに強くなっていった。その帰結が、サラ金の凋落を決定づけた2006年12月の改正貸金業法だった。★
→改正貸金業法は、出資法の上限金利は29.2%から20%に引き下げられ、利息制限法との間に存在したグレーゾーン金利は消滅した。そして、借入額の上限を原則年収の3分の1とする総量規制も導入され、この規制を守るために全業者が信用情報機関への加入を義務付けられた。
・★2020年7月にはLINEポケットマネーが月間新規申込者数でアコムを上回ったとの報道があった。日本でも中国のジーマ信用や道徳的信用スコアに類似したサービスが展開しつつある。金融包摂を通じた生産性・利便性の向上と、進化を続ける金融技術の制御とをどうすれば両立できるのか。★
→この問いに回答を与える責任は、サラ金の歴史の上に立って現代を生きる私たち自身に委ねられている。

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