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司法判断とは別に「ふるさと納税」問題を考えてみる。

1.司法判断としての泉佐野市の勝訴は「あたりまえ」

ふるさと納税の返礼品問題で泉佐野市(大阪府)が最高裁にまで及ぶ裁判の末に国(総務省)に勝訴した。要約的に言えば、同市によるふるさと納税における返礼品が、「アマゾンギフト券」や「牛肉」「ビール」「航空券ポイント」など、総務省が想定していた "あり方" から逸脱したものであり、国が「ケシカラン!」「ハレンチだっ!」「イヤン、バカン、アハハン!」とお怒りになったわけです。そのため総務省は対処的措置として、2017年4月に「返礼割合を3割以下にすること」、2018年4月に「返礼品を地場産品にすること」と規定。これがつまり皆が言うところの「後だしジャンケン」です。この(法的拘束力のない)規定によって、泉佐野市は2019年5月に納税の対象自治体から除外されました。不満が収まりきらない同市は(細かいところは割愛しますが)国(総務省)を相手に不服を申し立て、結局は最高裁で争い、勝訴したわけです。

まぁ、あたりまえの話です。

というのは、司法の世界は法律の世界。それ以上でも以下でもない。用語・言葉・先例・判例がすべて。だから今回の件では後だしジャンケン規則=法の大原則「法の不遡及」が焦点化された結果、泉佐野市が勝訴したのは司法の枠組みの中では至極当然と言える訳です。むしろそうでなきゃ困る(というか洒落にならない)話です。

ただ、もしかしたら地方自治体が国に「勝った」という単純な構図だけを見て、

「ヒャッハーーーーーーーーーーーッ!!!」

と叫ぶ人もいるかもしれない。しかしこういう時こそ冷静・客観的に物事を眺めることも大切かと思います。

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2.「勝利至上主義」「損得勘定」を行政が率先した出来事(事例)

結論から言えば、これが僕自身のひとつの見方です。この出来事を、顛末を知らない他者あるいは子どもに対して、司法とは別の次元で、どのように伝えるべきか・・・。この問いかけ、とても難しくないですか? 

憶えている人もいるかと思いますが、

1992年の高校野球甲子園(夏季大会)。

「北陸の怪童」、「恐怖の1年生4番」、「怪物」そして「ゴジラ」へと進化を遂げる松井秀喜に対する5打席連続敬遠という物語。未だに明確な答えは出ません。しかし観客は正直でした。最終打席の敬遠直後に起こった観客によるグラウンド内へのメガホンなどの投げ入れと相手チームに対する「帰れ」コールの大合唱とブーイングは校歌斉唱をかき消すほど凄まじいものでした。高校野球ではなかなか見られない景色です。

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もちろん敬遠自体は戦術のひとつであって決してルール違反ではありません。しかし多くの観衆も解説者も、野球という文脈上において定式化されたルールには従わなかった。出来事の顛末としては「勝利至上主義」についての議論が巻き起こることになり、このような議論が生じることがまさに、消費社会化、階層化、新自由主義の到来などに伴い、様々な格差が現実化していくなかで、誰が言い始めたのか、“勝ち組”と“負け組”という痛切な現実的・世俗的認識が現代社会に横たわっていることを意味しています。

現代社会における市場経済主義、学歴社会、恋愛や結婚など、すべての構成要素に、競争と“勝ち組”/“負け組”という安直な構図が認識されてしまっている現実のなかで、甲子園という「聖地」は、観衆にとっては世俗的・日常的なシステムを「冷却」するための儀礼的な舞台、装置という意味合いを備えていると言えます(こういうのを僕は機能する宗教的非合理と呼んでいます)。「勝利だけが全てではないはずだ」という言説を再確認するための大掛かりな装置です。人類学的には、スペクタクルな広義の「宗教儀礼」と捉えることができます。

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その意味において、たとえ他者を蹴落としてでも上昇を試みるという「勝利至上主義」「損得勘定主義」は、多くの観衆を瞬時にして日頃から実体験として重苦しく体感している世俗的・日常的に制度化された「加熱」状態へ引き戻すものでしかなく、同時に非日常的な「冷却」装置としての「聖地」そのものを、一気に日常性へと揺れ戻してしまう作用を伴ったと解釈できます。

ふるさと納税の泉佐野市の勝訴も似たような構造を備えています。関係者の方々にはお疲れ様とも言いたいけれど、その前に、社会に横たわる大きな課題である格差や貧困と地続きな「勝利至上主義」や「勝ち組/負け組」などについての絶えざる欲望に対して、誰も何も感じなかったでしょうか、という疑問はあります。

「倫理」や「道徳」とは無関係に、「法」や「規則」は無い。ならば「やってしまおう」というのは逆説的に「法令」を強く意識した様態です。あるいは先生を意識したガキの論理です。これじゃあ『Goonies』はおろか『Stand By Me』も語れない。むしろ「法」や「規則」を自覚しつつも、この状況下では人間の構築物である「法」以前に存在するはずの、非機械的な人間的な感性が勝る必要があると考えて行動するのが「法」を無力化するという主体性をもったヒト的営為だと考えます。
※当然、法治国家である以上は司法の場では前者が勝利するでしょう。

司法という法に支配された枠組みの中で出された結果に一喜一憂することなく、それはそれとして、少しでもそこから身を出して、他の角度から物事を照射してみる。これって本来は行動の前段階から実践すべきことだと思います。先人の考えを参照しつつ自分で考え、考え、考える。仮にその結論が「勝利至上主義」だったならば、少なくとも僕には「ヒャッハー」どころか、ぶっちゃけな話、将来的な危惧さえ憶えてしまう訳です。

僕にとって拭い切れない違和感を残し、また考えるべき問題として見える化してくれたのが、「ふるさと納税」に関わる問題であります。

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