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「公教育」概念の拡大あるいは曖昧化と消費社会について

『BUZZ FEED』記事『「教育を汚すな」「ふざけるな」教育界の異端児は、それでも“YouTubeの授業”にこだわった』を拝読して(以下リンク)。​

https://www.buzzfeed.com/jp/yuyayoshida/haichi1?fbclid=IwAR0FHlROq4crR0Pq8Uf1MWjLByed-odNfiIR6jJbpCmr0-b87y8Mf6xeGaU

じっくりと読んだ末に沸き上がった問いは、

「公教育って何やっけ?」「何やったっけ?」

でした。昨今では複雑化する教育事情に並行して多様な意見があるでしょうが、歴史的に見た場合の「公教育」とは、

「近代以降に成立した国民国家が主体となって制度化した、国民の義務(!)としての教育」

となります。

歴史学者・教育史学者の松塚は「公教育」について、

「社会に開かれた、何らかの集団が責任を負う、open to the public」の教育である。だから「個人の責任においてなされるprivate education」 とは対概念であると指摘します(※1)。

この意味では、定義的な意味あるいは研究等における対象の明瞭化を目的とした場合、「公教育」は「私教育」とは区分されますね。ただ、どちらが先かと言えば当たり前ですが「私教育」が先です。例えばムラの長、部族の長、爺ちゃん、婆ちゃん、家庭などで "人間が人間に対して「教える」" という行為自体は人類の「文化」まで遡って関係してくる。そこでは近所のおっさんも先生である。

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だから、記事内の先生である葉一(はいち)さんがYoutubeを用いて小中高校生向けの授業を始めた当初に周囲から投げかけられた「教育を汚すな」といった言葉の感情的内実は、

①「公教育」は「私教育」よりも優位、神聖、であるという認識に基づいている。つまり聖職者と聖域を何だと思っているのか?という権威主義的な吐き捨て。

発言者自身が公教育と私教育を混同しているが、葉一さんの教育内容を「公教育」と見なした上で、だからこそ「公教育」アイデンティティ従事者みたいなものが発動している。

・・・・・・。

ぶっちゃけな話、僕としては、

①は正直どうでもいい。ひとつだけ言えば、システム化ってのは怖いもんで、よくよく考えたら両者は相互補完的な関係で、実際には人格形成にしても「私教育」(近所のおっさん)が大きく影響しているのに、いつの間にか階層性を伴った認識が一般化してしまうってことぐらいでしょうか。

②はまさに現状の教育に関わる複雑性を物語っていますね。「公教育」と「私教育」を分けたところで実際は学習塾や家庭教師など、従前までは private であったものが public 的な拡がりを持った末に、新たな「公教育」の領域を形成しつつある。

なので、②の「公教育」の領域拡大、公私の溶解性。集団的な「まなざし」(観光かよ!みたいな視線)が教育に向けられた結果、皆が同じものを消費しようとする。いや、「うちもしなければならないのでわ!?」と欲望が喚起される。この状況、まさに情報化社会と高度な消費社会が教育の分野にまで及んでいることを如実に物語っています。資本主義を核とする自由主義経済はこの先も続くでしょうからカネを取る、取らないなど今更問題にもならないし、取る必要もあるでしょう。

ただし、「公私」が溶け合って「公教育」を構築拡大していく状況を眺めつつ思うのは、 " Open To The Public " 、要するに「公」「公益性」「公共性」の重要性です。「公教育」は機会均等と言う意味で公平性を担保する必要があるのですが、実際はそうでない。「文化」的?「歴史」的?を言う以前に(いや、その目的が "率直に" 経済追及のためと言うのなら、まだしも理解できますが、多くの場合は言葉を濁す。曖昧化する)、素朴な疑問として「なんでだろう?」が個人的な経験と向き合いつつ可逆性を持って考えられる人は賢いよね。例えば、

「・・・駅前の風景。学習塾が多くなったなぁ。まち中華、たこやき屋、本屋は何処へ行ったんだ?」

と感じません?(これを本質主義者はどう説明するのでしょうか?)

教育格差が不安視されて随分経ちます。具体的には学習塾に通わせることが可能かどうか、教育アイテムとしてコスト化された紙媒体・デジタル教材を享受できるかどうかと言えば分かりやすいでしょうか。

記事内容に戻れば、僕自身はデジタル化される教育に対して、安直に言えばポジティヴな見方をしています。その理由は、各戸の経済的事情に関わらず、誰しもが同等の教育を受けることができる可能性を秘めているからです。当たり前ですが大学でさえも、大学院でさえも、収容人数としての "capacity" など関係なく、国籍などC-4爆弾並みに吹っ飛ばして多様な人たちが学ぶことができるツールが増える(こんなこと某社会学者が指摘する以前から言われていることです)。

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ただ、ツールというのは、原始時代まで遡って、それ自体が誤りを起こす訳ではなく、結局はそれを操作するヒトに関わります。だから、教育がコンテンツ化され、既製品として、スマホのゲームのように課金制になった場合、話は大きく違ってくる。

その場合、これまで以上の教育格差が生じる危険性もある。実際にそんな現実は幼児教育からとっくに始まっています。
今後進展するであろうデジタルツールを用いた教育は「義務」という用語の是非とその周辺も含めて、今を生きるオトナに関わってくるってのを僕たちが自覚しなきゃと思う自省の日々です。

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(注1)松塚 俊三, 2008, 「近代イギリスの国家と教育 : 公教育とは何か 」,『教育史における「公」と「私」 (2)」,教育史学会第51回大会,pp.110-115



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