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コロナ禍の豪州生活[5]~いろいろな人生を見て、今思うこと

 昨年暮れのクリスマスから新年にかけて、メルボルンに遠出をすると、コロナの感染が悪化し、街がロックダウン状態となった。落ち着くまで滞在するのはカネと時間の無駄と考え、シドニーに移動した。日本に帰る準備を始め、予定より2カ月早い1月下旬に帰国した。(3年・山口秀斗)

 最初は一人ぼっちの海外挑戦。でも、この1年間で多くの人に出会い、学んだ。シェアハウスで共に時間を過ごした拓実とパオロ、ラーメン店を一緒に切り盛りしたビベック、パートナーのメイ……。私のように休学したり、会社を辞めたりして来る人がいた。彼らのそれまでの経験を知ることで刺激を受けた。

 メイは、将来海外で働くため看護師をやめて英語を学びに来た。タイに帰国した今、アメリカで看護師として働くために必要な英語資格の取得を目指している。私との交際で日本語にも興味を持ち、「今日覚えた漢字!」と写真を送ってくる。平仮名と片仮名は覚えたそうだ。毎日2時間ほどの電話でも日本語でよく話しかけてくる。

 ビベックは豪州に来る前、母国のネパールで高校の教師をしながら動物愛護団体のメンバーだった。だから動物由来の食べ物を口にしない。私たちが働いていた店は営業不振となり1か月ほど前に閉店し、彼はもう一つの店に戻ったそうだ。仕事と並行して通っていた専門学校をもうすぐ卒業する予定で、新しい職探しの最中という。彼はラーメン店の給料を学費に当てていた。仕事帰りに「ビールを飲もう」と誘っても拒否して、私をファストフード店に連れて行った。そこでポテトとジュースを2ドルで買い、「ビール1杯に10ドルは高すぎる」と訴えていた。結局、一緒にビールを飲めなかった。(写真は、ハイキングの最中で出会った野良犬とビベック)

5回目・ビベック

 ペルーから来たパオロは高校卒業後、航空管制官として働くつもりだった。ところが内定先の企業が突然倒産した。人生を一からやり直すためオーストラリアに。永住も考えたが、コロナなど彼を取り巻く環境から半年ほどで母国へ帰った。コロナの影響で航空業界で働くことは厳しくなった。それでも航空管制官になるという夢に変わりはないという。コロナが落ち着いたら海外に出て夢をかなえたいそうだ。

 彼らの影響を受け、私は帰国後、英語学校のアシスタント講師として働き始めた。1年間で培った語学力を活かして新しい経験を積むことのできる職場だと思ったからだ。今、5歳と6歳の約20人の子どもにネイティブの先生と2人で教えている。しかし、まだまだネイティブの言葉を聞き取れない。オーストラリアのラーメン店で客の英語を理解できないことがあったが、今も同じように無意識に緊張する。英語を仕事で使うことは簡単ではない。

 夢のある人は強い。世界中がコロナに苦しむ中、豪州で出会った彼らは、私よりずっと明るい未来が来ると信じていた。メイからアメリカで看護師として働くと聞いた時、私も一緒に行きたいと強く思った。だが、今の自分がアメリカに行って何ができるだろうか。これから何をしたいのかもわからない。自分探しの最中で迷子になった気分だ。誰かが何かを目指している姿を見ると、自分も目指すものが必要だと感じる。(おわり)