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【科学者#067】科学者の中で最高の頭脳をもつコンピュータを越えた科学者【ジョン・フォン・ノイマン】

現在コンピュータは、私たちの生活に欠かせないもののひとつになっています。

このコンピュータが発明されるまでには様々な科学者が関わっているのですが、その中でも特に重要な人物がいます。

その人はコンピュータの開発以外にも、数学、物理学、工学、経済学、気象学、心理学、政治学など幅広い分野で影響を与えました。

今回は、科学者の中で最高の頭脳をもつコンピュータを越えた科学者であるジョン・フォン・ノイマンを紹介します。


ジョン・フォン・ノイマン

名前:ジョン・フォン・ノイマン(John von Neumann)
出身:ハンガリー
職業:数学者
生誕:1903年12月28日
没年:1957年2月8日(53歳)


業績についてい

ノイマンは、現在のコンピュータの動作原理である「EDVACに関する報告書の第一草稿」を書き、1945年6月30日にハーマン・ゴールドスタインによって配布されました。

EDVACに関する報告書の第一草稿

ちなみにEDVACエドバックとは最初期の電子計算機の開発チームで、ノイマンはプログラム内蔵方式に関してこの文章を書きました。

EDVACの開発チームでは、ノイマンが理論面を、技術面ではジョン・プレスパー・エッカートとジョン・モークリーが担当していたと言われています。

ジョン・プレスパー・エッカート
ジョン・モークリー

この業績によりノイマンは、現在のコンピュータの基礎を築いたとされ、さらに他にも数学、物理学、工学、計算機学、経済学、ゲーム理論、気象学、心理学、そして政治学にも影響を与え、20世紀の科学史、歴史における重要な人物として挙げられます。



生涯について

ノイマンの両親はハンガリーに移住したユダヤ系ドイツ人で、ノイマンは3人兄弟の長男として生まれます。

幼い頃から英才教育を受け、数々の天才的逸話を残しています。

例えば、ラテン語とギリシャ語の才能があり、父親と古代ギリシャ語で冗談を言い合えたと言われています。

さらに小さい頃、電話帳を適当に開いたページをさっと眺めて番号の総和を言って遊んでいたり、6歳で7桁から8桁の掛け算を筆算で行ったり、8歳で微積分が出来たと言われています。

そのうえ、ドイツの歴史家であるヴィルヘルム・オンケンの歴史書「世界史」44巻の本を読んだり、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテやチャールズ・ディケンズの小説などに関しては一字一句間違えずに暗唱できたと言われています。

ヴィルヘルム・オンケン

こんな才能があふれていたノイマンですが、フェンシングやピアノ、チェロを習っていたのですが少しも上達しませんでした。

1914年には、ブダペストのルーテル・ギムナジウムに入学し、のちにノーベル物理学賞を受賞するユージン・ウィグナーと学友になります。

そして、このギムナジウムにいた教師がノイマンの数学の才能を見抜き、父親にノイマンにもっと高度な数学を学べるように手配すると提案します。

その後、ブダペスト大学の数学者にノイマンを引き合わせて、数学者のセゲー・ガーボルにノイマンの家庭教師を頼みます。

1915年から1916年にはセゲーが家庭教師を行い、その後はブダペストの数学者たちが個人授業を行います。

そしてこの頃に、ミヒャエル・フェケテ(1886年7月19日 - 1957年5月13日)やフェイェール・リポートとよく付き合います。

マイケル・フェケテ

1920年には、フェケテと共同で最初の数学論文を書き、1922年にドイツ数学会雑誌に掲載されます。

1921年には、ギリシャ語、ラテン語や歴史、数学の授業も他の生徒と同じように受けるようになります。

ノイマンはギムナジウムでは首席だったのですが、体育、音楽などの成績は落第ギリギリだったようです。

1921年から1926年には、ブダペストの大学院で数学を学びます。

父親は数学よりもお金になる学問を身に付けさせようと思ったので、ベルリン大学とチューリッヒ工科大学を掛け持ちさせて化学工学も学びます。

そして、23歳で数学、物理、化学の博士号が授与されます。

1926年には、論文がドイツのダフィット・ヒルベルトに気に入られ、ノイマンはゲッティンゲン大学でヒルベルトの下で学ぶようになります。

ダフィット・ヒルベルト

1927年から1930年には、最年少でベルリン大学の私講師を務めます。

1930年には、ナチス政権を避けてノイマン一家はアメリカに移住し、同じ年にプリンストン高等研究所の所員に選ばれます。

ここでは、アルベルト・アインシュタイン、へルマン・ワイルとは同僚で、1933年以降は数学教授を務めます。

アルベルト・アインシュタイン
ヘルマン・ワイル

その後、アメリカ合衆国海軍に対するコンサルティングの仕事をすることになり、ロスアラモス国立研究所で原子爆弾開発のためのマンハッタン計画に参加し、電子計算機のプロジェクトに関わることになります。

戦後の1950年代は、アメリカ合衆国国防相、中央情報局、IBM、ゼネラル・エレクトリック、スタンダード・オイルなど大企業や政府の顧問などを引き受けます。

1955年には、骨腫瘍(こつしゅよう)あるいはすい臓がんと診断されます。

この病気の原因は、太平洋での核爆弾実験の観測やロスアラモス国立研究所での核兵器開発の際に放射線を浴びたためだと言われています。

1956年1月にはワシントンD.C.の病院に入院し、1957年2月に53歳で亡くなってしまいます。


ノイマンという科学者

ある日コンピュータ開発時に、プリンストン高等研究所内に完成したコンピューターの性能をテストするために適当な問題をやらせてみることにしました。

その時、答え合わせのための正しい解答が必要だったため、即席の力比べとしてノイマンとコンピュータが競争することになったのですが、ノイマンの方が先に答えを出してしまいます。

ノイマンは、幼少期から様々な逸話があるくらい天才的で、その当時のコンピュータに負けないくらいの頭脳をもっていました。

しかし、核爆弾の開発により放射能を大量に浴びてしまったことにより若いうちに亡くなってしまいます。

今回は、科学者の中で最高の頭脳をもつコンピューターを越えた科学者であるジョン・フォン・ノイマンを紹介しました。

この記事で少しでもノイマンについて興味を持っていただけると嬉しく思います。


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