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【連載】すべてのひとに庭がひつよう 第9回|イッテで、ゴドーを待ちながら|石躍凌摩

庭師としての日々の実践と思索の只中から、この世界とそこで生きる人間への新しい視点を切り開いていくエッセイ。二十四節気に合わせて、月に2回更新します。

***

第9回|イッテで、ゴドーを待ちながら

1.庭師性

 窓の向こうには灰色のテラスが広がっていて、さらに向こうに見える無機質な建物群に四方をすっかり囲まれている。いかにも殺風景な眺めだが、窓辺から店内に張り出した土壁のソファに腰掛けてみれば、四方の建物が途端に額縁のようにはたらいて、そこにくっきりと空が映えている。
 いま店に来て、土壁のソファに腰掛けて、ゆっくりとお茶をする客人の心になってみれば、この殺風景な眺めはどうにも頂けないが、空ならずっと見ていられる、とそう感じて、窓辺をあらかた覆いつつも、空にはあとすこし届かないような蔓性の植物があればいい、時には花が咲いて香りのたつようなものがあればなおさらいい、と木香薔薇の白の一重を這わせるつもりでいたところに、「ちょっと、ご相談で」とある日、子どものための美術造形教室の先生であり、私が月一で手入れに伺っている佐賀は三瀬の山あいの、広大な庭の施主でもある方から連絡があった。

「アトリエの生徒さんの保護者の方から、ご実家の庭を、二世帯住宅を建てるために半分更地にしてしまうので、もし三瀬に植え替えられるものがあればと思ったのですが、いかがでしょうか、というお話がありました。三瀬以外で、石躍さんがお仕事で使える樹木があるなら、とも思いますが、費用などはどのようになりますか?」

 伺ってみると、そこは広大な庭だった。その中心にはおよそ見たこともないような巨大な五葉松が据えられて、周囲を取り巻くようにして生えている木々の様相もまた、ここが出来てからすでに五十年以上にもなるのだと施主の語って聞かせてくれた、私の人生をすっかり飲み込んでなお余りある歳月を無言のうちに語りかけてくるような、個人宅ではそうそうお目にかかることのできないような立派な庭の、その半分がこれから解体されていくのだという。
 そうして、五葉松を含めた一部の木々については植木屋さんの手によって神社に移植されることがすでに決まっているものの、その他はやむなくすべて処分してしまうので、欲しいものがあったら引き取ってくれるとありがたい、とのことだった。
 別々に暮らしを営んできた家族が、その形を変えて、あらためて世帯をともにすること。それは前向きな変化に他ならないが、それでも五十年連れ添った庭の半分が一旦は更地になることの、施主には言い知れない淋しさもあったに違いない。だからこそ、ここにある木々が所を変えて生きながらえてくれたらどれだけありがたいだろう、という心になる。ありがたいといえば、そのような役回りに居合わせることになった私の方こそありがたい思いだった。

 そうして引き継いできた三つの躑躅つつじのうち、種類違いの二つを店の窓辺に並べてみると、店内から見て左の、葉も丈も小振りな躑躅から、右に向かって葉も丈も大振りな躑躅が波打つように窓辺を覆い、その波形の下る辺りには、テラスのさらに向こうに広がる階下の庭から、上空にすっくと伸びるシェフレラが顔を覗かせて、思いがけない緑の遠近法の、一枚の絵が窓辺に映えている。
 このとき、仕合わせた、と私は思った。解体されていく庭と、あらたにこうしてつくられていく庭と、その時機がほんの少しでも違っていれば失われる運命であった躑躅が、事の初めから形の相応しいものを厳選してきたかのように、今この窓辺に映えている。その生きながらえた躑躅の心になってのことか、あるいはそのような時機の重なりに居合わせて、ひととき躑躅の移動そのものになり切った自身の身の上のことであったか、いずれにせよ普段はそうそう思うことではない、と記憶を辿れば、初めてその言葉を幸田文の随想で読んだときの、ながらく抱えていたものがそこで腑に落ちた感覚が思い出される。つまり、幸せとは何か。それは起こるべくして起こった出来事に、私として仕合わせることではないだろうか。と、窓辺に躑躅の映える光景を眺めながら、私は束の間の幸福をあじわっていた。
 それから遠く近くと視点を変えてもそれぞれ絵になっていることを確かめてから、土壁のソファに腰掛けてみれば、額装された空も健在であった。

「ちょっと相談なんですけど、今度薬院に喫茶店を出す人がいて、そこの内装を友人の大工とぼくとに相談が来てすすめてます。良い空間になりそうで、そこのテラスに石躍君の庭作れたらおもしろいかもって思ってます。まだ予算とかとの兼ね合いもあるから実現できるかわかんないけど、今度13日の月曜の18時から現地下見行く事になっててもし都合が合えば一緒に下見行きませんか?」

と、三月に福岡に越してきて、五月の末から庭師の仕事を始めてからそれほど間もない六月の初めに、平尾にある「二本木」というギャラリーをされている松尾さんから、思いがけず声がかかった。

 件の喫茶店「it()teイッテ」の店主である大八木さんと、その内装を手がけるハマスさんとは、下見の現場で初顔合わせとなった。訊けば、ハマスさんは今でも勤めの身でありながら、もうじき独立されるとのことで、このお店の内装が独立後一発目の仕事になるのだという。大八木さんもまた、様々なカフェで経験を積んできたものの、自分のお店を持つことは今回が初めてのようであった。私もこの仕事にたずさわることになれば、一から庭をつくるという仕事はこれが初めてになる。年齢もそう離れていないようで、経験の乏しい自分で果たして良いのだろうかという不安から一転、俄然楽しみな仕事に感じられて、これより面白い遊びも他にないとさえ思った。

 ただ、事の性格上、予算が無限にあるわけでもなければ、店の内装を仕上げることや、そこにひつような食器やメニューの各種を揃えることに比べれば、庭とは最後の付け合わせ、彩りのためのパセリのようなものであることは否めなかった。そうして事の次第では、庭にはついに予算が回らなかったとしても無理はない。パセリがなくてもプレートは成り立つからだ。そのうえで、もし自分がここに庭をつくるのであれば、それこそ付け合わせの見た目が良いだけのものには興味がないのだと切り出して、たとえばお茶は出しますか、と尋ねると、大八木さんの地元から近い京都の和束町でつくられている有機無農薬栽培のお茶を出すとのことで、それなら茶の木をひとつ庭の象徴に据えてみてはどうか、と提案してみた。お茶を日頃から飲むひとであっても、茶の木をついぞ見たことがないというひとはたくさんあるだろう。私はこのことが、つまり日常茶飯の根抵を知らないで平然と生きているということが、いつも気になっている。私が庭師になることを選んだのもまた、そこには——生きていることの根抵には——尽きせぬ愉しみがあるのではないか、と思ってのことだった。
 そのように考えてみれば喫茶店もまた、人間と植物との関係がなければ成り立たないものであるからは、そうした関係を見せるような庭をつくることが、プライベートな家の庭をつくるのとはまた違う、他者にどう見られるかということが非常に大事になってくるパブリックな店の、庭の役割ではないか、とその場で大方の方針はきまった。

茶の木

 プレオープンを間近にひかえた店内で大八木さんと立ち話をしていると、ここのお菓子を担当しているあかりさんが来店された。試しに食べてみてほしいクッキーがあるのだという。今回はどういったものを?と大八木さんが尋ねると、カウンターに包みを解きながら、オーツ麦のざくざく系で、ローズマリーが入っています、と彼女は答えた。ローズマリーなら、さっきそこに石躍さんが持ってきたのがあるよ、と扉の方を向いてから、そうそう、彼は庭師さんで、と紹介された。
 それは解体されていく庭から引き取ってきたばかりのもので、鉢に植え替えてから扉の近くに置いておいたのだが、それが他でもないローズマリーであることを、彼女は言われてはじめて気が付いたようだった。
 クッキーを食べてみると、ざくざくとして食べ応えがあり、オーツ麦の素朴な風味の、後からほのかにローズマリーが香る。ローズマリーがクッキーに使えることを私はこのとき初めて知った。
 彼女が店を後にしてから、今やどこにでも生えているハーブ代表のようなローズマリーを、これほど美味しいクッキーに昇華してしまう彼女が、店の入り口に置いてあるあのローズマリーには気付かなかったことが、後を引くようだった。これは庭師とお菓子をつくるひとの、職業的な違いだろうか。そうだとして、それはいきものとして見るか、食材として見るかの違いだろうか。あるいは視覚から入るか味覚から入るかの違いなのかもしれない。いずれにせよ、彼女は私の知らないローズマリーの一面を知っていて、それだけローズマリーと深く関係しているように思われた。それは職業的庭師である私にかえって薄い、彼女の目ざましい庭師性だった。

ローズマリー

2.花壇を待ちながら

「it()te 」本オープン初日。

 入口扉の前の花壇はハマスさんの手によって着々と形になっていき、本オープンの前日に至って、ついに外装を残すのみとなった。すでに土を入れられるとのことで、庭が不在のままオープンを迎えることになった「it()te」に花壇の下見に伺うと、すこし遅れてハマスさんが現れる。

石躍
ハマスさんは、どうして大工になったんですか?

ハマス
はじめは農業をやっていて。ちょうどここで使われているハーブを生産している「nogami farm」さんの畑の近くに、その界隈では伝説的な人がいたんです、本も出しているような。その人にしばらく習ってから、独立して三年ほど。

石躍
へぇ、三年も。

ハマス
ただ、これがきつかったんです。

石躍
習っているときに、そのきつさは分からなかったんですか?

ハマス
いや、畑に向かう時間はすごく好きだったんです。けど、いざやってみて、それを売って生計を立てないといけないってなったときに、自分は別に野菜を売りたいわけではないということに気付いたんです。自給自足というか、ただ自分と周りの人が食べられたらそれで良かったんだと思い出して。ちょうどそのころに、大工も併行して始めてたんです。

石躍
併行して。

ハマス
面白い兄弟がいて。二人がまだ中学生くらいのときに、といってもロクに学校も行ってなかったらしいんですけど、そこの親父さんが急に「ログハウス建てるぞ」って言い出したらしくて。それでみんなで建てはじめた。それが楽しかったそうで、それからもうずっと、そんな調子でいろんなものを建てているような兄弟で。その弟さんは自分でも野菜を作っているような人で、大工もやってみたらって誘われて。

石躍
それで、どれくらいになるんですか。

ハマス
五年くらいですね。

石躍
で、今回の「it()te」の現場が独立後はじめての。

ハマス
そうですね。

石躍
じつは僕も、大工には憧れがあるんです。大工というよりは、その兄弟みたいになんでもつくってしまうようなひとに。だから自分では庭師って言ってますけど、職人になりたいわけでもないというか、本当は色々やりたい。それで庭師と言っておけば、色々やれるかなって。

ハマス
僕もそうです。あくまで軸というか。

石躍
そうなんですね。あ、でもそうか。VJしたり、野菜育てたり、大工ひとつとっても、色々やりますもんね。

ハマス
そうそう。

石躍
はじめて会ったときから、ただの職人じゃないだろうなとは感じてたんですけど。何か近いものを感じてたというか。僕も昔、尾道の田舎の方に住んでたことがあったんですけど、その頃は自給自足を目指してたんです。けど色々あって挫折してしまって。そこからのリハビリとして、いまの庭師があるような気がするんです。もし僕がそのときに大工に誘われてたら、大工になってたかもしれないって、今でも思います。というか、安い給料でもいいから、たまに大工さんのところで働くのもいいなって。

ハマス
マジですか。すぐ声かけますよ。

石躍
ほんとに、ありですね。いま話しながら思い出したんですけど、僕、屋台が作りたいんですよね。

ハマス
屋台?

石躍
そう。屋台で珈琲と焼き芋の店をやりたいなって、ちょうど一年前くらいに考えてたんです。それも庭師を軸としてやりたいと。たとえばここでもそうですけど、珈琲を飲もうと思ったら、ケニアとかニカラグアとか、色々あるじゃないですか。ここで珈琲が飲めるのは、ケニアとかニカラグアという土地や、そこで働くひとたちの手間暇のおかげですよね。「it()teイッテ」の由来の「一手」、「一手間」って、まさにそういうことだと僕は思ってるんですけど。

ハマス
なるほど。

石躍
多分。(と、大八木さんの表情をたしかめる。大八木さんは洗いものをしていて聞いていない。)
たとえばエチオピアだと、珈琲生産の八割から九割は農家の庭先で、彼らが食べる偽バナナっていう主食とかと一緒に育てられてるみたいで、それをガーデン・コーヒーて言うんです。プランテーションじゃない、つまりモノ・カルチャーじゃないから、雑多で、多様で、畑というよりは庭っぽいんですよね。これを庭師として見れば、自分がどういう珈琲を飲むのかという選択が、そうした土地を育むひとを支えることにもなっているという、間接的ではありますけど、これもひとつの庭づくりではないかと思っていて。消費者としての庭師という線があるというか。

ハマス
たしかに。

石躍
それからさつまいもは、土地を借りて、自分でつくろうと。これもひとつの庭づくり。

ハマス
さつまいもは肥料いらずですからね。

石躍
そうか。かえって痩せてる土地の方がよく育つんでしたっけ。

ハマス
そうそう。

石躍
そういう土の話をまじえながら珈琲淹れて芋焼いて、たまに芋掘りのイベントとかもやりたいですね。そういえば今度芋掘りやるんですよってフライヤーでも配りながら、珈琲淹れて芋焼いて、けどこれ全部庭づくりなんですよねって。だからあとは屋台だけやなと思ってたんですけど、ここにハマスさんがいました。

ハマス
やりましょう。僕も前から移動式の小屋というか、ポータブル・ハウスみたいなものをつくりたいと思ってたんですよね。

石躍
きまりっすね。来年の冬かな。まぁそんな感じで、職人的に庭に従事するような庭師も、それはもちろん必要なんですけど、僕はどっちかというとその外延を広げたいというか、あなたも庭師かもしれないですよね、ということに興味がある。職業に関わらない、そこの庭師。

(と、鞄からおもむろに『動いている庭』を取り出して)

僕が庭師になろうと思ったきっかけがこれなんですけど。

ハマス
すご。

石躍
やばいでしょ。これ5000円くらいするんですよ。ジル・クレマンていうフランスの造園家がいて、この本で彼は「惑星という庭」ということを提唱してるんです。

ハマス
惑星という庭。

石躍
どういうこと?ってなりますよね。庭は元来囲われた土地っていう意味なんですけど、ジル・クレマンはその囲いを生物が棲める圏域、その生物圏にまで広げてみれば、この惑星自体がひとつの庭ではないかって言うんです。まさにさっきの、珈琲を飲むということがケニアやニカラグアの庭づくりに含まれてくるみたいに。

ハマス
なるほど。

石躍
で、こっからなんですよ。「こうしたことを認めるなら……」こうしたことっていうのは、惑星をひとつの庭と認めるならってことです。「こうしたことを認めるなら、自然にたいするわたしたちの関係は根本的に変わってしまう。地球の乗客としての人類は、希少で脆いものとなった生命の保護者という役割、つまり庭師の役割に立ち戻ることになる」(*1)

つまり人類である以上は、庭師でしょう、と。この役割というのが、いかにも演劇っぽいなって、最近思いはじめて。たとえばここに来ると、「庭師の石躍さんです」と紹介されるじゃないですか。そのときに、僕は庭師の役に入る。すると店は、舞台に見えてくる。

ハマス
舞台。

石躍
ハマスさんが前にインスタに書いてましたけど、「カフェという単位のモノを、作りながら認識したとき、その箱であることや厨房がありライトが光るということがとても装置的な感じがして、自分は今デカい装置を作っているなと何回も思いました」って。この装置も、舞台装置のことやと思ったんです。

ハマス
あぁ、なるほど。

石躍
その舞台にいろんな役柄のひとがやってくる。その中で、僕は庭師としてここにいる。そういう舞台における庭師の役割とは、またそこに庭をつくることの意味とは、みたいなことをつぎの連載に書きたいんですけど、これがなかなか……。ハマスさんも、ここでは大工として紹介されますよね。

ハマス
(苦笑しながら)うん、そうですね。

石躍
けど、役割なんて、その時々で変わるじゃないですか。舞台によっても変わる。そういえば、僕が屋台をつくりたいのも、つまり舞台がつくりたいってことかもしれないです。なんというか、ナンパがしたいんですよね。

ハマス
ナンパ?

石躍
そう。けど、道行くひとにそのまま話しかけるのって難しいですよね。でも、そこに屋台があったとしたら、そういうひととして振舞える。この、役が変わる感じがしたいのかもしれない。かと言って、現代アートみたいに、インスタレーションとか言って、そういうものですよってやるのには興味がない。あくまで現実の上でやりたい。屋台もいざやろうと思ったら法に関わったりするじゃないですか、いろんな交渉事があったり。

ハマス
そうですね。

石躍
舞台とされている舞台上の演劇にはそんなに興味がないんですけど、世界を舞台として捉えるというか。

ハマス
うん、わかります。それで思ったことがあるんですけど。たとえばジェンダーの議論をするときにも、役について思ったりしますね。

石躍
まさに!そういうことも書いてたんですよ。

ハマス
すご。

石躍
いや、繋がるかわかんないですけど、『パルコ感覚で何を思った?っていろんな考えの人と話してみた』っていう、座談会をまとめたようなZINEがあって。知ってますか。

ハマス
はい、読みました。

石躍
ほんまですか。いや、こないだ月白に行ったときに、たまたま誰もいなくて、店主が外のベンチで本を読んでたんですよ。

ハマス
うん。

石躍
カウンターに着いてから、何読んでたんですかって尋ねたら、それやって。珈琲を待ちながら、パラパラと頁をめくってみたんですけど、なんというか、人間やなって、思ったんです。

ハマス
うん、わかります。

石躍
あ、わかりますか。いや、どういうこと?って、月さんには聞かれたんですよ。あれって、企画運営側に女性蔑視と取れる行動があったのが、事の発端じゃないですか。

ハマス
そうですね。

石躍
あのZINEにかぎらず、日常のことから政治的なことまで含めて、こういう差別的な言動への抵抗みたいなことって最近よく見られるようになったと思うんですけど、それって全部、人間内の枠組みじゃないですか。

ハマス
そうですね。

石躍
多様性を謳うこと自体は、良いことというか、当然そうあるべきだと思うんですけど、同時に、日々庭に身を置く立場からすれば、あそこで話されている多様性はあまりにも人間的というか。というのも、庭にいるときには、自分が男であるとか女であるとか、そのどちらでもあるとかないとか、そんなことはまったく気にならないんですね。そこにいるいきものからすれば、そういう人間内の枠組みとか、何の意味もないんで。そういう時間を長く過ごすようになったせいか……。

(間)

僕、このパルコ感覚の問題、月白に行ってあのZINE読むまで知らなかったんですよ。六月って言ったら、ちょうどハマスさんと初めて下見の現場で会ったときくらいやと思うんですけど。

ハマス
うん、そうでしたね。ちょうどその頃。

石躍
けど、自分の耳には聞こえてこなかった。それくらいに自分は世間から遠い存在になってしまったんやなって、自分で自分を訝る感じもあったんですけど。

(間)

それでも、たとえばこの座談会が、庭で行われていたとしたらどうか、という想像に駆られて——話の途中で、不意に飛んできた虫の存在に気を取られて、一瞬の間、話が止まる。そんな情景が思い浮かぶ。

ハマス
あぁ、わかりますね。

石躍
もっとひとが庭に出てくれば、話はまた違った展開を見せるんじゃないかって。多様性といえば、生物多様性のほうが気がかりなんですよ。

ハマス
なるほど。

石躍
もちろん、あの座談会に自分が参加していたとしたら、そういうことは話さないと思いますけど。そこに出てきてまで庭師になるのは、役を履き違えているだけというか。

ハマス
そうですね。

石躍
けど、ああいう風にパッケージされて、それを外に持ち出して読んだときには、どうしてもそういう風に感じた。

ハマス
なるほど。

石躍
で、そういう風に月さんに伝えたら、それならこっちの方が合ってるかもって、『差別はたいてい悪意のない人がする』という本を紹介されて。

ハマス
へぇ、知らないです。

石躍
差別って、なんで起こるんでしょうねって、話してたんです。

ハマス
うん。

石躍
差別って、要するに、自分とは違う立場のひとに対してするものじゃないですか。

ハマス
そうですね。

石躍
けど、たとえば僕は異性愛者です、と一応は言えますけど、目の前にゲイのひとがいたとして、自分とは違うからって差別するんじゃなくて、ふとした拍子に、自分も男に惹かれる時が来るかもしれないって思ってたら、差別しようと思わないじゃないですか。

ハマス
そうですね。

石躍
とか、どっちともの性を好きなひととか。前にマッサージのバイトをしていたことがあって、そこで一緒に働いてた女性がどっちとも好きなひとやったんですね。バイセクシャルっていう言葉も、そのとき知りましたけど。

ハマス
うん。

石躍
で、それってどんな気持ちなんですかって聞いたら、たのしいよ!って即答されたんです。ただ同性と付き合うには、それなりの難しさもあるみたいで、それに今は夫も子どももいるから落ち着いてはいるけど、それでも、いろんなひとを好きになれるということは、やっぱりたのしいって。そう聞いてから、自分のことをあまり決めつけなくてもいいのかもしれないって。いつ異性だけでなく同性に惹かれるかもしれない。そうやって、自分の中の多様性を泳がせておくことが、ひとを差別から解放するんじゃないかって。それはたのしいことかもしれないからって。

ハマス
そうですね。ジェンダーの話をするときも、役柄で相手を決めつけないようにしようって思います。ロールプレイングみたいな感じ。今はこういう役柄になってるけど、

石躍
「かもしれない」ですよね。さっきの月白でのやりとりの前に、ここでお菓子をつくってはるあかりさんのことを書いたんですけど。

大八木
あのローズマリーの話ですか?

石躍
そう。彼女がローズマリーのほのかに香るクッキーをつくって持って来たんですけど、そのとき玄関前にどんと置いてたあのローズマリーあったじゃないですか。あれには気付かなかったのが面白くて。ローズマリーでこんなに美味しいクッキーつくれるのにって。これって職業的な違いなのか、何なのかって。

ハマス
なるほど。

石躍
けど、僕は彼女よりもローズマリーを知っているとは思わなかったんですよね。むしろ彼女の方がローズマリーとの関係が深いように思えた。それは彼女の庭師性なんじゃないかって。あの、よく「男性性」とか、ジェンダーの議論の中で言うじゃないですか。あれみたいな感じで、そのひとの一見した個性の奥には、庭師性があるのかもしれないって。

(と、何かを思い出したように、またおもむろに鞄から本を取り出して)

ハマス
おぉ、出てくる。

石躍
これがまたすごいんですよ。十年前くらいにちょっと読んだくらいで積読してたんですけど、久しぶりに取り出してみたら、まさにと思って。福田恆存っていう劇作家のひとの本なんですけど……ここですね。

 個性などというものを信じてはいけない。もしそんなものがあるとすれば、それは自分が演じたい役割ということにすぎぬ。他はいっさい生理的なものだ。右手が長いとか、腰の関節が発達しているとか、鼻がきくとか、そういうことである。
 また、ひとはよく自由について語る。そこでもひとびとはまちがっている。私たちが真に求めているものは自由ではない。私たちが欲するのは、事が起るべくして起っているということだ。そして、そのなかに登場して一定の役割をつとめ、なさねばならぬことをしているという実感だ。なにをしてもよく、なんでもできる状態など、私たちは欲してはいない。ある役を演じなければならず、その役を投げれば、他に支障が生じ、時間が停滞する——ほしいのは、そういう実感だ。私たちが自由を求めているという錯覚は、自然のままに生きるというリアリズムと無関係ではあるまい。 他人に必要なのは、そして舞台のうえで快感を与えるのは、個性ではなくて役割であり、自由ではなくて必然性であるのだから。

――福田恆存『人間・この劇的なるもの』(*2)

と。ここにおける必然性が、さっきのジル・クレマンと繋がるんですよね。つまり、地球の乗客としての人類である以上は、必然的に庭師ではないか。しかもそれは、演劇の問題なのではないかって。

ハマス
それでいま思い出したんですけど、あそこに座ってるひのさん(と、窓辺の方を向いて)彼女は友達なんですけど、彼女から前におしえてもらったスピノザっていう哲学者の本があって。なんてタイトルだったかな……すいません、うろ覚えで。僕、あんまり本読まないんです。

石躍
そうなんですね。

ハマス
すごく影響を受けるからですね。

石躍
いや、それが本当の本読みやと思いますよ。月に何冊読むとか言いたがるひとは、あれは本を読んでいるようで本に読まれてるだけですよね。読書は読んだそばから自分が変わってしまうかもしれない、穏当なようでいて、そのじつは物凄くあやうい賭けであって。だから読めない方が、むしろ自然だと思います。

ハマス
けど、それはとても面白かった。というより、自分が感じてきたことが、そのまま書かれていたような気がしたんです。『はじめてのスピノザ』だったかな。哲学者の國分さんが書いている。

石躍
新書ですか?最近出た。

ハマス
最近かな。わかります?

石躍
あ、また違うやつかも。どっちにしろ読んでないですけど、『中動態の世界』ていう、これも國分さんの書いた本の終わりの方に、ちょうどスピノザの自由が出てくるんです。

ハマス
じゃあ同じことかも知れないですね。ちょっと例えは忘れましたけど、たとえば腕を自由に動かすというときに(と、右腕の関節に左手を置きながら、くねくねさせて)ここから可動域に関係なく腕を動かせることが、今よく言われる自由なんですけど、そうじゃなくて、

石躍
可動域において自在に動かせることが、自由ってことですよね。

ハマス
そう。やっぱり書いてました?

石躍
たしか、自己の本然の必然性みたいな言い方をスピノザはしてますよね。制限がないことを自由と言うんじゃなくて。

ハマス
この腕の可動域、枷と言ってもいい、その枷の中にこそ、自由がある。

石躍
その枷が、ジル・クレマンでいうところの惑星であり、庭という可動域なんですよね。

ハマス
なるほど。

石躍
で、そこにこそ自由がある。庭師の役割という、必然性における自由が。そしてそれは演劇の問題なんじゃないかってことで、僕は今回の連載を、「テアトロン」というタイトルにしようと思っているんですけど(と、またおもむろに本を取り出して)

ハマス
出てきますね。

石躍
じつは今日、ここで原稿を書こうと思って、全部持って来てたんです。テアトロンていうのは、ここですね。

 劇場の客席部分は「テアトロン」と呼ばれていた。文字どおり「見物する場所」を意味する。「テアトロン」という響きからも明らかなように、「シアター」「テアーター」「テアトル」などの語源であり、「見物席」という部分が「劇場」全体を表すことにより演劇一般を意味するようになった。「シアター」や「演劇」という言葉を聞いて多くの人が頭に思い浮かべるのは舞台だと思うが、元を辿ると実は観客席のことだったのである。

――高田明『テアトロン 社会と演劇をつなぐもの』(*3)

僕らが今いるのはカフェの客席ですよね。この客席に何の気なしにやってきたひとが、たとえばお茶を飲んだとして、帰りに花壇に生えている木が気になって、大八木さんに尋ねてみたら、これは茶の木だと言う。これまで茶の元となる木なんて考えたこともなかった、とそのとき、客としてここに来たつもりが、自分が日々送っている生活こそが劇場であってそこでは絶えず幕間もなく演劇が行われていることに気付く。その瞬間、客席が劇場になる、という転換を想像してるんです。そのきっかけ、装置としての庭があり得る。

ハマス
なるほど。

石躍
意識するしないに関わらず、僕らは庭をつくっていて、もっといえばより多く破壊してしまっている庭師なんですよね。ただ日常のことすぎて、いきなりそんなこと言われてもピンと来ないかもしれない。ここで演劇が出てくるんです。たとえばブレヒトっていう劇作家がやってた教育劇というのがあって、それは観客を教育するための劇というよりは、役者自身が学ぶための劇らしいんですけど、

 ブレヒトが教育劇を発見し、演技法まで考える必要に迫られたのは、すでに人々の生活を飲みこみ、熱狂的に支持されはじめていたナチスに対して、いかにすれば人々が疑問を持ち、中断を入れることができるかという強烈な問題意識があったからだ。 ファシズムの進行に中断を入れる手法として、「距離」の創出と世界の「二重化」があった。「人はどうすれば自分の正しさを疑うことができるのか?」という問いへの演劇的回答こそが、教育劇だったのである。

――同上(*4)

僕らの生活は自然と人間の関係の中にあって、それに飲み込まれてますよね。けど日常のことすぎて、見えづらくなっている。それをちゃんと見るためには、演劇による距離の創出と二重化が必要であると。つまり庭師という役割が、そこに必要なのではないか、と。この、「人はどうすれば自分の正しさを疑うことができるのか?」って、まさに差別の問題と繋がりますよね。

ハマス
そうですね。

石躍
だから、やっぱり演劇なんですよね。このすぐ後にも、

 ブレヒト的演技の特徴を私たちが普段使う言葉に翻訳すれば、「自分を突き放して見る」と「他人ひとの身になって考える」ということになりそうだ。この二つは人間が演技する動物であることと密接に関係し、ともに大切な能力だとされている。しかし、その難しさは誰もが痛いほど知るところだろう。

――同上(*5)

僕らは演技をする動物であって、差別をしてしまうというのは、だから演技が下手なんじゃないかって。演技が下手っていうのは、これですね。

 自然のままに生きるという。だが、これほど誤解されたことばもない。もともと人間は自然のままに生きることを欲していないし、それに堪えられもしないのである。程度の差こそあれ、だれでもが、なにかの役割を演じたがっている。また演じてもいる。ただそれを意識していないだけだ。そういえば、多くのひとは反撥を感じるであろう。芝居がかった行為にたいする反感、そういう感情はたしかに存在する。ひとびとはそこに虚偽を見る。だが、理由はかんたんだ。一口にいえば、芝居がへたなのである。

――福田恆存『人間・この劇的なるもの』(*6)

僕らはすでにつねに庭師である。にも関わらず、その芝居がへたなのではないか。この生をもっとよく生きるには、庭師という役柄をもっとよく演じなければならないのに、その意識が足りないのではないか。それは演劇の問題なのではないかって。

石躍
『ゴドーを待ちながら』って知ってますか?

ハマス
いや、知らないです。

石躍
僕も読んだことないんですけど、ベケットっていう作家の書いた二十世紀の代表的な演劇みたいで、巷では不条理演劇とか呼ばれてるんですけど——浮浪者の二人がいて、田舎道、木が一本立っているそばで、ゴドーを待っているんです。

ハマス
はい。

石躍
そこに主人と奴隷がやってきて、ひとしきり喋って、彼らが去ったと思ったら次には少年がやってきて、ゴドーさん、明日は来るってさ、と言い残して去っていく。けれど、ゴドーはやって来ない。明日になって、また同じ場所でゴドーを待っていると、主人と奴隷がやってきて、なぜか片方は目が見えなくなっていて、片方は喋れなくなっていて、それから少年がやってきて、明日はゴドーさん来るってさ、と。けれど、ゴドーはやって来ない。それで終わるんです。

ハマス
ほう。

石躍
あらすじを言えば、これだけのものなんです。それだけに様々な解釈が生まれてるらしいんですけど。

ハマス
なるほど。

石躍
そして僕は締切を三日過ぎながら、ここで原稿が書けることを待ってたんです。そしたらハマスさんが現れて、気付いたらひとしきり書いてみたいことを話していた。導かれてるような気さえした。ここで問題は、話すことはできたんですけど、これをあらためて書こうとすると、なかなか難しくて……。

ハマス
ですよね。

石躍
でも、繋がってましたよね?

ハマス
うん。

石躍
だからもう、この話している感じをそのまま書こうかなって。「原稿を待ちながら」みたいな感じで。

ハマス
それなら、「花壇を待ちながら」でもいいですよね。

石躍
それ!いいですね。ずっと待ってたし、今も待ってますからね。

ハマス
たのしみにしてます。(と、時計を見て) じゃあ、僕はそろそろ。いやぁ、まさかこんなに話すとは思ってなかったです。

石躍
僕もです。けど、よかった。

3.庭で、ゴドーを待ちながら

石躍
もうすこし、草を足してもいいですけど。

大八木
はい。

石躍
だいたいこの辺かなって。 

大八木
あとは、待つだけ。

石躍
そうですね。こうやって見てると、色々やりたくもなりますけど。この隙間がある感じもいいですよね。

大八木
まだ途中なのか、これで終わりなのかって、わからない感じがいいですね。

石躍
完成という言葉は使わないことにして。

大八木
うん、いいと思います。

石躍
じゃあ、これで。

 仕事として、はじめて何もないところから庭をつくるということを通して、様々なことを思い、そうしてここにも書いてきたが、作庭の行為やその過程については案外、過ぎてしまえばあっけのないものだった。むしろ肝心なのは、そうしたあっけのないわかりやすい作業を仕舞えたあとの日々の中で、とくに何をすることもなく——何かをしようと思えば、それはいくらでもできてしまうのだが——、ただ庭のそばで何事かを待っている、この状態の方ではないだろうか、とそう思い、『ゴドーを待ちながら』が無性に読みたくなった。この無性にという気持を、私はながらく待っていたような気がする。

 ベケットの友人リチャード・シーヴァーによれば、『ゴドーを待ちながら』の原題は単に『待つ』であった。また、本作品に繰り返し登場する「行こうよ」「だめだよ」 「なんで」 「ゴドーを待つ」という対話から、ウラジミールとエストラゴンはゴドーの到来を待っているとされてきたが、 初版の三年前に書き上げられた草稿の第一幕にはこの台詞はみられない。
 草稿の前半部分では、「待つ」という動詞とゴドーの名は別々に登場することからも、『ゴドーを待ちながら』の執筆は、待つ対象や目的よりもその行為や過程に重きを置いて進められていたのではないかと推測される。

――サミュエル・ベケット『新訳ベケット戯曲全集1  ゴドーを待ちながら/エンドゲーム』(*7)

『ゴドーを待ちながら』は、だから庭の話としても読めるのではないか、と月白で、まだ話の半分も読まないうちからそんなことを話していると、『ゴドーを待ちながら』で大事なのは「待ちながら」の方だからって、保坂さんも言ってた、と月白の常連で、だいたいいつも土曜の夜に待ち合わせでもしているかのようにここで会っては、ひとしきり文学を根抵に据えたような世間話を交わすTさんがそう言う。彼は保坂和志とベケットとカフカがこよなく好きで、私は彼に会うときには保坂和志とベケットとカフカに間接的に会っているような気がする。

T
書くことに飽きてるときに、それを書けるかどうか。(と、カウンターに置いてある『ゴドーを待ちながら』を指差して)書いちゃったひと。でもそれって、できないですよね、たいていのひとは。ただ、それっぽくは書けちゃう。

石躍
書きたいことがあるそぶりで。

T
そぶりで。

石躍
書いてしまう。

月白
うん。

T
言いたいこともあるし、考えていることもある。そういうルール。ちゃんとする、というか。

石躍
いやぁ、そうですね。

T
ベケットはちゃんとしてないですもんね

石躍
あぁ。

T
ちゃんとしなきゃ、みたいな。

月白
うんうん。

T
ちゃんとしなきゃって、こわいなって思うんですよね。

石躍
いやぁ、そうですね。

T
ほんと、ちゃんとしないようにしようって。(*8)

と、ベケットについての話を交わしながら、今回の「it()te」の庭づくりにおいて、私もまたちゃんとしていなかったことに思いあたる。庭づくりにおいてちゃんとするというのは、たとえば何をどこに植えるのかをあらかじめ計画立てて、それをきちんと図面に起こしてから、今度は工程表に落とし込んで関係者と共有し、期日を守って効率よく仕事を完成させる、といったことを指す。

 もしも今回の庭づくりにおいて、私がちゃんとしなければならなかったとしたら、解体されていく庭から何が出てくるかもわからなければ移植可能かどうかもやってみるまでわからないような植物を、店の植栽に持って来ることはできなかったかもしれない。またどこかで竣工や完成を宣言しなければならなかっただろうし、途中と思われるような隙間を残すことは許されなかったかもしれない。

 裏を返せばちゃんとするということは、どうなるかわからないことをなるべく排除し、過程よりも結果を重視するということではないか。だとすれば、ちゃんとしないことではじめて、ひとはわからないものをわからないままに待つことができるのではないか。ゴドーが一体誰のことで、果たして何をしてくれるのかもよくわからないままに、それでもいつまでも待っているエストラゴンとウラジミールのように。

 あるいは、一口に待つといっても、今の時点で目標や結果が見えているような何かを待つのであれば、ちゃんとしていればこそ、それはやって来るとも言えるだろう。そうではなく、もっと言い知れぬ何かを待っているとき、あるいはもはや何を待てばいいのかもわからなくなってしまったときに、ちゃんとなんてしていたら、待ち切れずに疲れて、仕舞いには死にたくなるのではないだろうか。

 エストラゴン
 (理解しようと頑張ってみたが無理で)疲れちゃった。(間)もう行こうよ。

 ウラジミール
 だめ。

 エストラゴン
 なんで?

 ウラジミール
 ゴドーを待つ。

 エストラゴン
 ああもう!(間。絶望して)じゃあどうすんだよ、ねえどうすんだよぉ!

 ウラジミール
 どうしようもないよ。
 (*9)

「なにをやってもダメ」という台詞から始まる『ゴドー』において、このようなやりとりは幾度となく繰り返される。ここでエストラゴンの言う「もう行こうよ」には、「もう死のうよ」という意味が込められているように私には聞こえる。「もうあの世に行こうよ」って、そういう風に。じっさい、作中で二人は木の枝で首を吊ろうともする。それでもどうにか、お喋りに興じたりお腹がすいたりしながら気晴らしに気晴らしを重ねていく。そうして、最後に——

 ウラジミール
 じゃあ、行こうか?

 エストラゴン
 うん、行こう。

 二人、動かない。

 幕。
 (*10)

と、なにをやってもダメかもしれないが、行くのだけは(死ぬのだけは)もっとダメなのだと気晴らしに気晴らしを重ねて、そうして最後まで、生きることだけはやめない二人。ゴドーを待つということは、だから生きること、救いがなくても生きようとすることなのだと、私は読んだ。そうして、二人がゴドーを待っている場所が妙に懐かしく、なにか身に覚えがあるような気がして読んでいた。

ひの
『ゴドー』読んでるんですね。

石躍
これから読もうと思って。

ひの
こないだここで、ハマスさんと『ゴドー』の話されてたじゃないですか。

石躍
あぁ、聞こえてたんですね。

ひの
彼、私の友達なんですけど、聞きながら、すごく参加したいなぁと思ってました。私、スーザン・ソンタグっていう思想家が好きで、彼女の本に『サラエボで、ゴドーを待ちながら』という本があるんです。『ゴドー』は読んだことないんですけど、それはすごく面白かったです。

 そう聞いて、次の日にさっそく図書館で借りてきた『サラエボで、ゴドーを待ちながら』を開いてみると、『ゴドー』の最初の台詞は、「することは何もない」となっている。こうした翻訳の微妙な塩梅を、原文を辿って吟味することは私にはできないが、「なにをやってもダメ」よりは、「することは何もない」の方が好きだと思った。好きというよりは、懐かしいというか、やっぱり身に覚えがあるような気がした。十代の終わりに、同じように思い詰めたことがあったからだ。することは何もない。何も。ならば、死ぬか?とそこまで行った。その寸前で、どうにか踏み留まって、それでも何もしたいことがない、ほんとうに何もない、何も。けれど、それでも、生きている、とそう思った。瞬間、自分が何者であるとか何をしたいのかという以前の、ただ生きているということの物凄さにとらえられた。それから、生きているというのはどういうことなのか、とあらためて考えていく中で、人間は植物がなければ生きられない、ひいては自然との関係がなければ生きられない、つまり生きているということは、人間が自然といかに関係するかだと思うに至った。

 こうした生の現実を、さらに庭と呼ぶに至るには、それから何年も経ってから手にとることになった『動いている庭』の、「庭とはまさに、人間の自然との関係の現実なのです」(*11)という一節に遭遇するそのときまで待たねばならなかったが、することは何もない、という行き詰まりのどん底には、思いがけず庭が広がっていたのだった。つまり、ゴドーが何であるかという解釈は、時代時代の場所場所で、人それぞれに違うのだとしても、それを生きて待っている以上は、その待つ場所、その足元の、待つことをあらしめているものは、庭ではないだろうか。

 エストラゴン
 素敵な場所だなぁ。(観客席のほうに向き直って舞台前方に進み出て、観客に向かって立ち止まる) 想像力を掻き立てられる眺めだ。(ウラジミールのほうを向いて)行こうよ。

 ウラジミール
 だめだよ。

 エストラゴン
 なんで? 

 ウラジミール
 ゴドーを待つ。

 エストラゴン
 (絶望的に)ああもう!(間)ほんとにここなの?

 ウラジミール
 なにが?

 エストラゴン
 待つ場所だよ。 

 ウラジミール
 木のそばって言ってたからな。(二人は木を見る)ほかにないだろ?
 (*12)

することは何もない。何も。それでも、ゴドーを待っている。素敵な場所、想像力を掻き立てられる眺め、木のそばで。やっぱりそこは、庭ではないだろうか。

月白の庭

月白
待つといえば、枇杷の花が咲いたんだよね。

石躍
え?

月白
多分あれ、花だと思うんだけど。

石躍
(カウンターの外に出て)ほんまや!

T
どれですか?

石躍
ほら、あの奥の。

T
へぇ、これが枇杷の花なんですね。

月白
いやぁ、こんな小さい鉢で咲くと思ってなかったから、驚いて。

石躍
そう。庭って不思議で、何かを待っているようでいながら、いざ待っていたものがあらわれたら、裏切られたような気分にもなりますよね。

月白
たしかに。

石躍
ダメ元みたいな。

 その枇杷はある日の散歩道に、「びわ よろしければ持ち帰り下さい」と張り紙をされて放り出されていたものだった。そうしてよく見ると、木の大きさに比べてあきらかに鉢が小さく、根は鉢底の穴を飛び出して鉢に巻き付いていたので、やむなく切ってからひと回り大きい鉢に植え替えて、月白の庭に持ってきたのだった。

 ウラジミール
 えっと……抱き合って……ハッピーになって……ハッピー……ハッピーになったところでどうするんだって言って……待とうよって……待って……えっと……もうちょっとだ……待とうよって……おれたち、ハッピーになって……えっと……あっ! 木だ!

 エストラゴン
 木?

 ウラジミール
 覚えてないのか?

 エストラゴン
 疲れちゃった。

 ウラジミール
 ほら。

 二人、木を見る。

 エストラゴン
 別に。

 ウラジミール
 いやいや、ゆうべは枯れ木だったろ。ところが今日は葉っぱがついてる。

 エストラゴン
 葉っぱって? 

 ウラジミール
 たった一晩でだぞ。

 エストラゴン
 春だねぇ。

 ウラジミール
 でも一晩でだぞ!
 (*13)

 ゴドーを待ちながら、二人もまた木の葉の芽吹きに目をひらかれる。ここまで来ればしめたものだ。二人は相変わらずやって来ないゴドーを待ちながら、ともかく死なずに、なんとかやっている。そうしてあるとき、ほんの気晴らしに、庭をつくりはじめる(かもしれない)。

 エストラゴン
 けど、もううんざりだよ、こんなの。

 ウラジミール
 カブ、食べる?

 エストラゴン
 カブしかないの?

 ウラジミール
 カブとダイコン。

 エストラゴン
 ニンジンは?

 ウラジミール
 ないよ。だいたいおまえ、ニンジンニンジン言い過ぎだよ。

 エストラゴン
 じゃあカブでいい。(ウラジミール、ポケットの中を探るが、大根しか見つからない。やがてカブを引っ張り出し、エストラゴンに渡す。エストラゴン、カブを調べ、匂いを嗅いで) 黒くなってる!

 ウラジミール
 カブだよ。

 エストラゴン
 ピンクのじゃなきゃいやなの、知ってるくせに!

 ウラジミール
 じゃあいらないんだな?

 エストラゴン
 ピンクのじゃなきゃ、やだ!

 ウラジミール
 じゃあ返せよ。

 エストラゴン、返す。

 エストラゴン
 おれ、行くわ。ニンジンを求めて。

 エストラゴン、動かない。
 (*14)

 と、ここでウラジミール、エストラゴンが昨日食べたニンジンのヘタが残っていることに気付く(かもしれない)。

 ウラジミール
 まだあるじゃないか、ニンジン。

 エストラゴン
 いらないよ。葉っぱは不味いから。

 ウラジミール
 捨てるくらいなら、土に植えなよ。

 エストラゴン
 なんで?

 ウラジミール
 そしたら、また根が生えてくるかもしれない。

 エストラゴン、木のそばに穴を掘って、そこにヘタを埋める。

 エストラゴン
 これでいいのか?

 ウラジミール
 ばっちりだ。あとは待ってたら、何か出てくるかもしれない。あの木みたいに。

 二人、木を見る

(かもしれない)
 (*15)

 長い沈黙。

 エストラゴン
 とにかくわかってれば。

 ウラジミール
 時期が来るのを待つだけだ。

 エストラゴン
 なにを待てばいいのか、それだけわかってれば。

 ウラジミール
 もう心配しなくていい。

 エストラゴン
 ただ待つだけだ。

 ウラジミール
 おれたち、慣れっこだしな。(帽子を拾い上げて中を見回し、振ってからかぶる)
 (*16)

大八木
そういえば、きのう剪定されてたときに出たキンカンあったじゃないですか。

石躍
あれ、おいしかったですか?

大八木
うん、めっちゃおいしかったんですけど、種が入ってて、もったいなかったので、庭に蒔いときました。

石躍
そしたら、また出てくるかもしれないですね。

大八木
うん。それも、たのしみですね。

***

*1 『動いている庭』(ジル・クレマン、山内朋樹訳、みすず書房、2015)150頁

*2 『人間・この劇的なるもの』(福田恆存、新潮文庫、1960)16-17頁

*3 『テアトロン 社会と演劇をつなぐもの』(高田明、河出書房新社、2021)57頁

*4 同上、50頁

*5 同上、51頁

*6 『人間・この劇的なるもの』(福田恆存、新潮文庫、1960)15-16頁

*7 『新訳ベケット戯曲全集1  ゴドーを待ちながら/エンドゲーム』(サミュエル・ベケット、岡室美奈子訳、2018)275頁

*8 音声1 「ちゃんとしていない人」
https://tsukishiro-ametsuchi.com/blog/%e4%b8%80%e4%b9%9d%e3%80%80%e9%9f%b3%e5%a3%b0%ef%bc%91%e3%80%80%e3%81%a1%e3%82%83%e3%82%93%e3%81%a8%e3%81%97%e3%81%a6%e3%81%84%e3%81%aa%e3%81%84%e4%ba%ba/

*9 『新訳ベケット戯曲全集1  ゴドーを待ちながら/エンドゲーム』(サミュエル・ベケット、岡室美奈子訳、2018)121頁

*10 同上、175-176頁

*11 『動いている庭』(ジル・クレマン、山内朋樹訳、みすず書房、2015)175頁

*12 『新訳ベケット戯曲全集1  ゴドーを待ちながら/エンドゲーム』(サミュエル・ベケット、岡室美奈子訳、2018)22頁

*13 同上、116-117頁

*14 同上、122-123頁

*15 「ウラジミール まだあるじゃないか、ニンジン。」から「(かもしれない)」までは、筆者の創作。

*16 『新訳ベケット戯曲全集1  ゴドーを待ちながら/エンドゲーム』(サミュエル・ベケット、岡室美奈子訳、2018)64頁

◎プロフィール
石躍凌摩(いしやく・りょうま)
1993年、大阪生まれ。
2022年、福岡に移り住み、庭師として独立。
共著に『微花』(私家版)。

Instagram: @ryomaishiyaku
Twitter: @rm1489
note: https://note.com/ryomaishiyaku

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第1回 はじめに
第2回 私という庭師のつくりかた
第3回 うつわのような庭
第4回 胡桃の中の世界
第5回 鳥になった庭師
第6回 健康の企て
第7回 目ざましいものではなくてかすかなものを
第8回 場踊り