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星の味 ☆7 “夕暮れをめぐる”|徳井いつこ

 本に没頭しているうち、すっかり暗くなってしまった。
 明かりをつけようとして、思いなおす。
 外の世界が青く染まりはじめ、部屋に薄闇がしのび込んでくる夕暮れどきは、いつもためらわれる。
 読み続けるには、いささか暗いが……明かりを点けてしまうと、何かを閉めだしてしまう気がする。

 ハンス・カロッサの『指導と信従』を読んでいた。
 風変わりな題のこの本をときどき開きたくなるのは、リルケとの最初の出会いが書かれているからだった。
 カロッサが「嘆きの調子を含んでいるほめうた」と呼ぶ、あのリルケの作品群とはべつに、ここには生きて動いている詩人の姿があった。
 彼が回想録として残してくれたおかげで、書き手がカロッサだったおかげで、まるでリルケその人を直接見ているように感じられた。
 快活さ、にゅうさ、しんさといった印象に縁どられた会話とは異質の、自己紹介の前に見せたリルケの「放心したようなまなざし」「うつろな目つき」は忘れがたい。
 「いつだったか、大きな野鳥が死ぬのを見たときも、同じような印象を受けたことをおぼえている」という描写が重ねられているのだ。

「あのような詩作に精魂を傾けた者は、真珠採りのように、己れ自身の魂の底深くに、再三再四おりて行かなければならなかったのであって、しかもその際、いくそうとなく重なった上からの水圧に押しつぶされて、二度と帰ってこられなくなるおそれがあったのだ。」

 真珠採り。何というだろう。
 医師という仕事の傍ら、自ら詩作をしていたカロッサならではの言葉かもしれない。
 リルケ的なるものが明確に現れたとされる『とう詩集』は、”ich”(私)と”du”(あなた)の呼応によって形づくられている。
 「あなた」をどのように理解するかは読み手に委ねられているが、多くの訳者の仕事において、「あなた」をしんばんしょうに浸透する「存在」、はん神論的な意味での「神」とする点で共通している。

  昼間 あなたはささやいて
  多くの人々のまわりを流れてゆく噂です
  時刻ときの鐘が鳴ったあとの
  おもむろにまたその圏を閉じてゆく静けさです

   昼がだんだん弱まって
  夕べに向って傾くとき
  神よ あなたはだんだん大きくなられ
  あなたの国があらゆる屋根から煙のように立ちのぼります

 昼と夜の境目、人の姿も闇にまぎれゆくかれどき
 日常の営みが薄れ、見えていたもの、隠れていたもの、みなひとしく本然の姿に戻ってゆく時間……。
 夕暮れは、リルケにとって特別なものだった。

  貧しい者の家はせいさんだいのようだ
  その中で永遠なものが食物となる
  そして夕ぐれになるとそれは静かに
  ひろいをえがいておのれに帰り
  余韻にみちておもむろに自分のなかへ入ってゆく

  貧しい者の家は聖餐台のようだ

  貧しい者の家は子供の手のようだ
  それは大人がほしがるものを取りはしない
  ただ飾られた触覚を持つ甲虫や
  小川をくぐってきた円い石を
  こぼれた砂 鳴りひびいた貝殻を取る
  それは秤のように懸けられ
  最もかすかな重量さえも 永くゆれながら
  その皿の位置によって告げ知らす

   貧しい者の家は子供の手のようだ

  そして貧しい者の家は大地のようだ
  未来の結晶の破片のように
  落ちてゆきながら きらめいたり 暗くなったりする
  その貧しさは馬小屋の温い貧しさのようで
  夕ぐれとなれば それは一切であり
  あらゆる星がそのなかから立ち昇る

 「貧しい者」という語は、イエスの言葉「心の貧しい人々は、幸いである」を思いださせる。
 心の貧しい者。すなわち心に重荷をもたない者。執着や欲望といったくびきから自由な者……。あらゆる星は、そこから昇ってくる。

 同じく『時禱詩集』のなかの一篇。

  わたしのさまざまな感覚がそこへ沈み入る
  わが本質の 幽暗な時間をわたしは好む。
  そんな時間の中で わたしの日常の生活が
  ちょうど古い手紙の中でのように 早や背後うしろへ見残され
  伝説のようにひろびろと高められている。

  そんな時間の中でわたしはさとる、
  時の無いひろい第二の生活を 自分が生きることのできるのを

 「第二の生活」。それは詩が生まれてくる次元だろう。
 多くの人は、「第一の生活」だけで生きている。
 第一の生活と第二の生活。ひと連なりのようでありながら、ひと連なりではない。
 それは「時間」を意味する二つのギリシャ語を思いださせる。
 「クロノス」は、過去から未来へとまっすぐに続く直線の時間、時計が刻む時間。対して「カイロス」は、止まったり逆行したりする円環の時間、内的な時間。
 「第一の生活」はクロノスに、「第二の生活」はカイロスになぞらえることができるかもしれない。詩人は、内的な要請に従って、クロノスのみならず、同時にカイロスを生きていく。生の深みと豊穣はそこから流れだしてくるが、両輪のバランスを維持するのは容易ではない。
 カロッサは書く。

「詩人の手のうちにおいても、魔法の杖が水脈に感応してゆれ動くことがあるだろうが、日常生活と歌のでる地底とのあいだには、分厚い堅い地層がいくにも横たわっている。」

 あるいは、と思う。
 詩が生まれてくる地底とを隔てている「分厚い堅い地層」が薄くなり、ひろがり透けてくるのが夕暮れかもしれない……。
 もの想いに沈んでいるうち、窓の外はとっぷり暮れてしまった。
 雪をいただく山頂と、その上に浮かぶ小さな雲だけが、スポットライトに照らされたように薄紫に輝いている。


星の味|ブックリスト☆7
●『指導と信従』ハンス・カロッサ著、国松孝二/訳、岩波文庫
●『リルケ詩集』ライナー・マリア・リルケ著、富士川英郎/訳、新潮文庫
●『リルケ詩集』ライナー・マリア・リルケ著、片山敏彦/訳、みすず書房
(*引用文には一部、原文にない読みがなを追加しています)

星の味|登場した人☆7
●ライナー・マリア・リルケ
1875年プラハ生まれ。ドイツ語圏を代表する詩人。オーストリアの官吏だった父の意向で陸軍学校に入るが馴染めず、早くから詩作を始める。18歳で初の詩集を出版。プラハ大学、ミュンヘン大学で学び、当地で出会ったルー・アンドレアス=ザロメから多大な影響を受ける。イタリア、ロシアを旅し、トルストイを訪問。その後パリに移り住み、ロダンの秘書も務めて『ロダン論』を執筆。自伝的長編小説『マルテの手記』を出版。第一次世界大戦中はミュンヘンに滞在し、戦後はスイスに逃れて、詩作や翻訳に励む。白血病のため51歳で死去。代表作に『ドゥイノの悲歌』『オルフォイスへのソネット』などがある。


〈文〉
徳井いつこ Itsuko Tokui
神戸市出身。同志社大学文学部卒業。編集者をへて執筆活動に入る。アメリカ、イギリスに7年暮らす。手仕事や暮らしの美、異なる文化の人々の物語など、エッセイ、紀行文の分野で活躍。自然を愛し、旅することを喜びとする。著書に『スピリットの器――プエブロ・インディアンの大地から』(地湧社)、『ミステリーストーン』(筑摩書房)、『インディアンの夢のあと――北米大陸に神話と遺跡を訪ねて』(平凡社新書)、『アメリカのおいしい食卓』(平凡社)、『この世あそび――紅茶一杯ぶんの言葉』(平凡社)がある。
【X (Twitter)】 @tea_itsuko

〈画〉
オバタクミ Kumi Obata
神奈川県出身/東京都在住。2000年より銅版画を始める。 東京を中心に個展を開催。アメリカ、デンマーク、イラン他、海外展覧会にも参加。2017年スペインにて個展を開催。カタルーニャ国立図書館に作品収蔵。
・2006年~2010年 ボローニャ国際絵本原画展入選(イタリア)
・2013、2014、2017、2019、2023年 CWAJ現代版画展入選
・2016年 カダケス国際ミニプリント展 グランプリ受賞(スペイン)
【オバタクミの銅版画】 http://kumiobata.com/
【X (Twitter)】@kumiobata
【Instagram】@kumio_works