見出し画像

余白と余韻

何かすごいものをみると、後を引くようになった。

気になっていた映画を見つけたとき、息をするように映画を観ていたときの私はもういなくて

一旦躊躇して、明日の予定を思い出す私になってしまった。

疲れるというのは、違う気もするけど
体力が持たないのかな…

『サマーフィルムにのって』という映画の中で、
未来から来た役の子が言っていた印象的な台詞がある

未来では10分が長編なんだ

音楽には疎いけど、最近はイントロが短い曲のほうが好まれるらしいということくらいは知っているし、イントロが全く無い曲を街中で聞くことも増えた。

最初の10秒でスワイプ、興味が無ければパッと指をスライドさせるだけでいい。
情報に溢れたこの世界で、余韻や余白は必要無くなってきているのかもしれない。


普通に生活しているだけで、色々な情報が目から耳から入ってくる現代の若者たちは、気づかないうちに多様な価値観に触れるから、許容範囲が広くなり優しい人が多い。

今の社会をそう捉える人もいるらしい。


切り抜きや倍速視聴で培われた価値観をイマイチ信用しきれないのは私だけだろうか?


感想も言えないくらいのパンチを喰らって、フラフラ帰る帰り道は本当に必要ないのだろうか?


例え、必要無いとしても私は無駄といわれるものや時間にまだ縋っていたいと思う。
本の行間にあるかもしれない言葉を想像するのは楽しいし、映画館でエンドロールが流れ始めて、登場人物が見えなくなったときこそが、
私の想像は映画館の天井まで届くくらい飛躍する。

想像するのは自由だから、楽しい。


機械のように早口で話される人の言葉に、誰が心動かされるだろう。情報を取り入れないと、周りに取り残されるのなら、私は取り残される1人でいいやとずっとそう思っていたけど、


社会に出ると、何かを1人で静かに楽しむ。
それすらも許されないのかなという心地になる。

時事問題を知らないと常識が無い子と言われ、好きなものの話をしていると変わった子と言われる。そのチクチク言葉たちは、知らず知らずのうちに私たちの体を侵食し、全部が浸食される前に私はニュースを観始めた。好きなものに費やしていた時間を、流行っているドラマを観る時間にあてた。


「最近、映画観てる?」

「新しい絵は描いてるの?」
 

その質問に気づいたら言っていた。

「最近、時間なくてさ」

ゆとりとかさとりとか、そんな見当違いの名前で括る暇があるのなら社会にもう少しの休息を。


ほんの一瞬、のんびりと珈琲でも片手にゆっくりとする時間があるだけで、私たちは自分自身に優しくなれる。その有り余った優しさを今度は誰かに手渡すことだってできるかもしれない。


私はまだその空白を大事にしたい


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?