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探検!短編! イタロ・カルヴィーノ 「むずかしい愛」から『ある写真家の冒険』 (2000字程度)

 人が狂気へと至る物語を描こうとする時、その冒頭は、決まって穏やかな描写で始まる。主人公には信頼すべき分別があり、常識の枠内で収まる主人公の言動と人となりが、動き出した物語を支えている。
 アントニーノが主人公のこの物語の冒頭も、同じく穏やかな言葉で語られていく。そこでは、不穏なものを含む言葉はなりを潜めている。
 
 世に出回り始めたカメラの人気ぶりは、当時のイタリアでも相当なものだったのだろう。日曜日の度に、カメラに残すという理由のためにわざわざお出掛けをする、たくさんの家族、親戚、友人たち。そしてその横に、アントニーノの姿がある。

 何につけても哲学的で、ややこしい性格のアントニーノは、写真と言うもの自体に批判的だ。馬鹿らしいとしか思えないその理屈にも、彼なりの哲学があり、彼なりの論理がある。一応、筋だけは通っているのだ。そしてさんざん呆れられながらも、こんな風に言い放つ。

「・・・ほんとうに生きるためにはできるかぎり写真を撮らなければならなくなるし、できるかぎり写真を撮るためには、できるかぎり写真になりやすいように暮すか、自分の人生のあらゆる瞬間が写真になると考えるか、どちらか選ばなければなるまい。第一の方法は愚かさに、第二は狂気に通ずるというわけさ」

イタロ・カルヴィーノ 「むずかしい愛」
岩波文庫
p、79

 この台詞がカギとなり、物語が動いていく。愚かさと狂気。全くアントニーノを表すのにふさわしい言葉だ。蔑みながら口にした言葉に向かって、自ら突き進んでいってしまう。しかも、彼は頭脳は変わらず明晰で、論理の筋だけは相変わらずきちんと通っているというのに。

 話は逸れるが、最近、携帯電話で写真を撮ることが増えた。そこで感じたのだが、どれだけ誠意をもって写真を撮ったとしても、一度写真と言う形で残した以上、カメラで撮った景色がそのままそこに写っているということはあり得ない。
 写真を撮るということは、対象としてある空間を選び取ることであり、世界を自分の気に入った形に切り取ることだ。その時私は、無意識に世界を気に入った形に分割している。
 あるがままの世界を分け、選び取り、更にはそこに意図を込めてあれこれと工夫をする。すると、写真の中の景色は一つの記号と化し、そこから意味が生まれ、あるいは物語が生まれることになる。

 そこで気付いたのだが、写真を撮るという行為の中にもまた、編集の要素が存在している。映像の中に編集の要素があるというのは、何となく私も知ってはいたが、写真の中にも、編集の要素はあるのだ。

 インスタグラムを見て頂ければわかると思うが、どうやら私には、写真のセンスはないらしい。どれも凡庸なものばかりで恥ずかしいくらいだ。
 それでも、そこに編集の要素は存在する。笑顔でこちらを向いているだけの写真でも、なんとなく撮った夕飯の味噌とんかつの写真でも、そこに取る人の意図がある限り、編集の要素がそこにある。
 意図を全く挟むことなく写真を撮るというのは不可能だ。何の意図も持たず、ただそこにある景色を撮ったと思っても、今度はそこに、何の意図も持たなかった、という形の意図が残されることになる。

 写真を撮っていて、こんなことをしていいのだろうかと、全く無意味な不安に陥ることがある。写真として残すことで、世界を好きに切り取ってコレクション化しているようで、自分がすごく不遜な人間になった気がしてくるのだ。

 さて、私はそんな風に考えたが、アントニーノの考えたことは、全くその逆だった。一言で言えば、彼は世界のすべてを写真に収めたいと願ったのだ。いや、厳密にいえば、願ったのでもない。そうでなければいけないと、彼はそう考えたのだ。

 これもまた、彼の哲学がもたらした結論である。彼の小難しい哲学は、実際にテキストを読んでみることをお薦めするが、その小難しい哲学に沿って、移り行く彼の意識が丹念に描かれており、哲学そのものが一つの短編を引っ張っていく見事な原動力となっている。

 哲学に忠実なアントニーノは、カメラの快感を覚え、一人の女性と恋に落ち、四六時中彼女に張り付いて写真を撮り、しばらくしてその女性とも別れた後には、彼女のいない彼女がいるはずの空間すらカメラに収め、偶然そこにあった新聞をきっかけに新聞の記者に嫉妬し、激動の世界と何気ない日常との融合とを目指し、ついに、一つのことを決心して、彼は腹を決める。

 彼が、目指しているところに近づく努力をすればするほど、同じく彼は、狂気の存在するところへと近づいて行ってしまう結果となる。
 そしてこの異常性もまた、論理的だが合理的ではない、いかにも人間らしい彼の哲学がもたらしたものなのだ。
 かくして彼は、害のない、穏やかな狂人となる。少なくとも、傍から見れば、狂人としか見えないであろう。そういう風に生きていかざるをえないことを自覚する。

 ところで彼の経験したこの一連の出来事は、彼にとって歓迎すべきものだったろうか。それとも、忌み嫌うべきものであったか。そんなことは、我々には知る由もない。しかし確かに言えるのは、彼がこの出来事を後悔することはなかっただろうということだ。なぜなら彼は、徹頭徹尾、自らの哲学に忠実であり続けたのだから。

 


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