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エッセイ ちゃんと見るには時間が要るのさ

 今に始まったことでもないのでもう慣れきってしまっているのですが、私には絵心がありません。
 ある時に、ふと絵が下手だとか上手いとかそんな話になったので、試しに犬を描いてみることになりました。私としては、犬を横から見た絵を描いたつもりだったのですが、顎の出っ張りが尖りすぎて嘴のようになってしまい、犬を描いたら鳥が出来上がったという、なんとも恥ずかしい出来事さえあったほどです。それも、30を超えていい大人になってからの出来事。
 私の絵心のなさには、なかなか筋の入ったものがあるのです。

 もともと、音楽は大好きな一方で、図画工作や美術の授業はあまり好きではありませんでした。
 マンガを真似て落書きしたりしていた時期もあることにはあったのですが、何かを描いた記憶といえば、それくらいのものです。誰もが経験するような一通りのことを終わらせてのち、絵を描きたいだとか何かを作りたいだとか、そんなふうに思ったことはおそらく一度もなかったのではないかと思います。
 視覚に頼る物に興味をそそられたこと自体がほとんどなく、物に対して「かわいい」という言葉を発している人を見かけると、外国人のふりをしてでもその意味するところを教えて欲しいと何度も思ったものでした。

 その代わり、文字を目で追うのは性に合っているらしく、文字を読むのも覚えるのも好き。何かよくわからない記号を覚えることまで、好き。本を読むのは、言うに及ばず。
 困るのは、その本を書いている作家たちが、大抵は視覚的な芸術を嗜んでいること。美術論から映画論、写真論まで、実に饒舌に語ること、語ること。
 悲しいかな、本棚に文庫がダーッと並んでいると、いやでも好きになってしまうという習性が、こちらにはある。走性と言ってもいいかもしれない。
 こうなると、もはや避けられません。本屋の戦略だったとして、解っておいてあえてそこに乗り込むのが、こちらの性分なわけですから。

 こうして、ついに私も写真を見たり絵を見たり、視覚を主としたものに様々あたるようになりました。まるで真似事です。絵や写真が好きな作家がいなければ、とてもあり得ないことでした。
 地元の図書館にある大判の画集を開いた時の、あの気恥ずかしさ。それでも十五分は粘って眺め続けたのだから、それだけで誰かに褒めてもらいたいくらいでした。そもそもが重いんですよ、画集って。あんなものが当たり前にずっと置かれているわけですから、図書館って偉大です。

 心の中でぶつくさ言いながらも繰り返し眺め続けているうちに、ある時から、一つの考えがしつこく脳裏をよぎるようになりました。
 本来見えているはずのものが、私にはきちんと見えていないのではないのか。
 
 なにも怖い話がしたいわけではありません。ベルクソンという哲学者の、「物質と記憶」という著作のことを思い出していたのです。
 私には難解過ぎて以前に途中で投げ出してしまっていたのですが、その本には数々の驚嘆すべき理論が提出されており、読み進めながら何度も衝撃を受けていました。その哲学のうちの一つが、何度も脳裏に上って来るのでした。

 まだ前半の辺り。開いた文庫本を掴む両手のバランスが微妙に不安定で、右ページに形が付いてしまいそうになる辺り。結論からはまだまだ遠く、結論のための仮説を、ベルグソンが論証しようとしている。
 曰く、人間が知覚しているものというのは、実際には膨大な量にのぼる。その膨大な情報全てをいちいち知覚していては、生き延びるための準備が逆に滞ってしまうことになる。そのため人間の脳は、全てを認識している訳ではなく、過去の記憶を頼りに、できるだけ必要なものに絞って認識する具合に出来ている。つまり、あえて認識の総量を削っていく具合に方向付けられているのだ。

 ほほう、そうだった。それなら私が美を介さないのは、そもそも認識できていないから。もう少し言葉を尽くせば、本来見えているはずのものが、私には見えていなかったから。
 私に美的センスがない原因が仮にそういうことだったとしても、少しも不思議はない。恥などは、この際、捨てる。

 私は、試しにルールを決めて、絵画や写真を見てみることにしました。何も気づかなくてもいいし、何の変化も期待しない。20秒くらいぼんやりと、時間を設けてただ眺める。眺めた結果、何も変わらなかったとしても、それはそれで構わない。
 そう決めて、実行に移してみたのです。

 なんてこった。見える見える、まあ見える。阿保みたいに見えてくる。私は今まで一体何を見て過ごしてきたのだろう。
 ここに何か動物がいるではないか。端を彩る柄にアクセントがあるではないか。実は、一つのストーリーを隠し持っているではないか。何たる不覚!何たる喜び!

 こうして私は、見ることに関して少しだけ上達しました。ポケモンやプリキュアについて語る子供たちとも、少しは会話が弾むようにもなりました。

 周囲を見渡して、少し真面目に考えてみれば、現代は視覚に訴える時代だともいえる。インスタグラムやティックトックなど、視覚的な娯楽が増えている。踊るミュージシャンが増えた代わりに、歌うミュージシャンが減った。技術が発達してそれが娯楽に応用されると、遅かれ早かれ、視覚の分野での応用が期待されることになる。視覚というのは、それほどに強く、普遍的なものだ。
 技術云々は置いておくにしても、昔ながらの美術はあるし、映画などはいつの時代も最も身近で魅力的な総合芸術だ。
 材料に事欠くことなどあり得ない。誰しもが表現者の、視覚的営みの氾濫する時代だ。だからこそ見分ける能力が必要とされる時代ともいえる。
 
 ちなみに私は、昔から人違いをすることが多く、月に三回も見知らぬ人に笑顔で声をかけてしまったことがある。ここでさらに新たな疑問が生じる。
 認識能力が低いのか、単に目が悪いだけのことなのか。
 実に難解な問題なので、時間をかけてじっくり考えてみることにする。あと、眼鏡屋さんにも寄ってきます。

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