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能登半島地震について ~限界集落と多様性~ (1)

(2400字程度)


 そうやって、鬱々とした日を過ごしながら、自分なりに情報にあたっていた。すると、やはりと言うべきか、気になって仕方のない言説に行き当たった。
 専門でもないので正しい方策など出てこないのだが、表しがたい違和感がいつまでも拭えずにいる。そもそもが何も知らないのだから、思い切って書くことにした。

 今回の震災においても、復旧・復興のために国の予算が充てられることになった。そこまでのことにはもちろん異論はない。額が少なすぎるという意見もあるが、とりあえずはそれもよしとする。
 気になったのは、へき地の集落や極端な限界集落に対して、これ以上お金をつぎ込む必要があるのか、という見解についてだ。


 必要も何も、都市部とへき地とで対応を変えるべき根拠など、どこにあるのだ、と一瞬憤ったが、以下のような事情をもとに発想の根拠としているものらしい。

 もともとこの地域は、今回の地震以前から少子高齢化の影響が顕著らしく、一定の質を保った上で医療や行政サービスを提供し、住民の暮らしを向上させていくために、医療機関や行政機関の統合が検討されていたものらしい。 
 そこで重要になってくるのが、地域住民の、一定の範囲内における集住ということらしいのだ。
 後で調べてみて分かったのだが、コンパクトシティという考え方も提唱されているものらしく、国内外を問わず成功例などもあるらしい。
 都市人口が増えていくと、どんどん入って来る人の中でも、その周辺の郊外の方を選ぶ人が、一定程度増えていくことになる。この段階で、何らかの都市計画もなく、無秩序に人が住むようになると、生活圏が無制限に広がっていき、人も商業施設もどんどん外へと向かう具合になっていく。すると、生活圏が広域な割に、あちこち、人やサービスのまばらな居住環境が出来てしまう。この結果として、都市的な機能を維持するのに、非効率な都市が出来上がってしまうということらしく、簡単に言えば、どんどん住みにくい街になってしまうということらしい。
 この課題に直面した際に生まれた考え方がコンパクトシティというものらしく、出来る限り居住地を密集させ、簡易なアクセスを促進することで、生活、医療、商業なども同時に発展させてしまおうという風なものらしい。
 言葉足らずの面もあるかもしれないので、気になった方は、ご自分で調べられることをお薦めする。

 確かにこう言われてしまえば、コンパクトシティという考え方自体には賛同できる部分も、あるにはある。SDGsの観点に沿うものでもあるらしく、その点からも注目されている具合らしい。
 しかし当の言説を吟味してみると、どこか混同したものを感じずにはいられないのだ。色んなものが混ぜこぜにされていて、けむに巻かれた印象すら残る。あるいは、あえてミスリードを狙ったものかもしれない。

 まず、多くの識者がそう認めている通り、今後、仮に珠洲市や輪島市の限界集落の集団移住が実現したとしても、それはコンパクトシティの考え方とは似て非なるものなのだ。
 コンパクトシティの考え方を適用する大前提として、その土地が、人口増大の状態にあることが挙げられる。人口増大の中で、無秩序に出来ているものを整然としたものにすることで、あらゆる面での効率化を図り、住みやすい街にするというのが、その主眼だ。

 対して、能登地域の限界集落に対する集団移住の提案というのは、少子高齢化を原因とした、市民全体の社会負担の軽減を、その理由としている。
 ご存知のとおり、今回の震災で能登地方は、インフラの面で壊滅的な被害を受けた。
 停電が続き、いくら待っても水は出ない。自分たちで動こうにも、肝心の道路が通れない。文字通り、へき地や限界集落では、他から孤立し隔絶された状態が続いた。それほど、インフラ面での被害が酷かったということだ。

 そんな状況を鑑みて、災害以前の生活を取り戻すという、これまで疑問にも付されなかった理想の復興のあり方に、異議を唱える考え方が出てきた。
 へき地や限界集落の、何十人のために、莫大な税金を投じるのは妥当なことか、と。その地域のインフラを整備し、その地域の人々が以前の生活を取り戻すことを目指す以上に、いっそその地域の人々に、集団移住してもらうことを目指すべきではないのか、と。
 これは、かなりの荒治療と言っていいだろう。人口減少の現実の前では、民主的観点は理想論でしかないのだろうか。
 
 しかしこんなラディカルな案が、他の情報に混じって当たり前に入ってくる時代だからこそ、それが妥当なものかどうか、地道に確認していく作業が一層重要にも思われる。当たり前のことを当たり前に確認していきたい。

 いろいろ事情もあるだろう。しかし、今回の税金の投入が自然災害からの復旧・復興を目的としているということを、忘れてはいけない。
 今回の地震を予想できた人間が、どれほどの数いたというのか。こういった、避ける方法のなかった自然災害からの復興策の中に、以前から話題に上っていた案をねじ込んでくるというのは、いささか不信の念を抱かざるを得ない。 

 同じ公的資金の投入でも、大義を忘れてしまえば、使い方が変わってくる。使い方が変われば、充てられる額が異なってくる。
 どこにという部分と、どれだけという部分に、締まりのない、いわば弛みのようなものが出来てしまえば、それはもはや、何でもありの状態を誘発する為のものにしかならない。だからこそ、へき地や限界集落にインフラの復旧は必要か、などという、的外れの論が平気で飛び出してくるのではないだろうか。
 大義と言うのは、重要だからこそ、やはり大義なのだ。そこをないがしろにして復旧・復興などと叫んでみても、出てくるのは結局、マジョリティの欲望を混ぜてこねた、出来損ないの案くらいのものだろう。

 


   (つづく)

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