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独りで立つ

先日、約2年ぶりに旅に出た。
どこへ行こうか散々悩んで12年ぶりに行ってみることにしたのは、学生時代から社会人初期にかけて足繁く通った場所。

GW前で雨だったこともあり、人が殆どいない道を緩く歩きながら、色んなことを考えた。
12年前に来たのは前の会社を辞める前で、ストレスフルな仕事を続けるか悩んでいた時期だった。
構築したいキャリアと、出産の年齢的なリミット、望んだところで叶うかも分からない先行きの不透明さ。
全てを望み通りに、タイミング良く手に入れるなんて無理な話で、きっと何かを諦めなければいけないだろうとは思っていた。

干支がひと回りした今、あの頃不安に思っていたことは全て収まるべき場所に収まった。
そしてまた同じ道を、別な思いを抱えながら独りで歩いている。
どんなに課題をクリアしても、生きてゆく限り心の熾火は何かしら燻っている。

あの頃みたいに、10年先のヴィジョンや自分の理想形は、もはや持っていないけれど。
先のことなんて分からないし、望んだ通りにならなくて苦しくなるなら、大事に生きた“今“を積み重ねてゆく方がずっと良い、とは頭では理解しているけれど。
”どうしたいんだっけ?”と時々自分に問いかけておかないと、根無し草のようにどこかへ行ってしまいたくなるから、敢えて地面に根を張るために自分に問いかける。


最近、ふとした折に夫が言った。

「キミは強くなったからね、この何年かで。」

それは人間的に成長したという意味での賞賛なのか、独りでも生きていけるだろ?という意味なのか、淡々とした彼の言葉からも表情からも上手く読み取れなかったけれど、柔らかく突き放されたような気がして、何だかすこし寂しかった。

守って欲しいなんて柄では無いし、誰かに寄り掛かりたいとも思ってもいない。
ずっとそうやって生きてきたし、少しばかり人より敏感に心の動きが分かってしまうから、相手が動くよりも先に自分から距離を取ることも多い。

もしかしたら、「俺が居なくなったとき、家族は任せた」という意味なのかもしれないけれど。
或いは”可愛げない”という意味なのかも、とも思う。

最近、時々改まったように“キミ“と呼ばれるようになったことを、“お前“とかぞんざいに呼ばれるよりはだいぶ品が良いと思っていた一方で、感情が読めなくて、何だかすこし距離が生まれたようにも感じて複雑な気持ちで受け止めている。

相変わらず下らないことで笑いあったり、同じポイントで腹を立てたり、どうしようもない私の天然ぶりを「全く、お前はさぁ」と呆れられたり(こういう時の夫は”お前”を使う)、変わっていないようにも思うけれど、その実確実に日々を消費しながら、きっと見えない単位で関係性は変化していっている。

甘えないように、依存しないように、寄りかからないように。
私が自分で掛けた”生きてゆくための保険”。
独りで歩けるようになることと、それは対になっている。

人は、本当はずっと孤独だ。
きっとそんなこと何も考えない方が、楽に生きていける。
独りで頑張らなくても、誰かに寄りかかって、寂しさを何かで紛らわせて。

ひとりで誰もいない疎水沿いの小道を歩きながら、寂しいとは思わなかったけれど、自分だけ別世界に紛れてしまったように感じた。

みんなが歩く道と、ちょっと違う道を歩く。
私もまた”異星人(エイリアン)だ。
でもそれでいい。
私しか見ることができない特別な景色を、見ることが出来ているから。
月の裏側を見ることは、一生できないと思うけれど。

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