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稲田七浪物語――とあるモラとの出会いと別れ――⑮

前回はこちら。写真に深い意味はありません(辛いことを書いているから、美味しそうなものでも!くらいの意味しか…ありません…カレリアで食べたのです…)

15. 役決めと、病気

・役者過多
 戯曲が決まった以上、次に決めるのは役者だが、これが難航するのは明らかだった。前回も少し書いた通り、この年は例年になく新入生が多く、稲田が選んだ戯曲は登場人物を多く必要とするものではあったが、それでも全然足りなかった。苦肉の策として、戯曲の性別通りに上演する版と、性別が逆になる版を作ることになった。原作の性別通りなら男性の登場人物が多く、逆なら女性が多くなる。後付けではあるし、稲田の固定観念がうかがえる気もするけれども、前者はなんとなく男同士が集まってバカ騒ぎするようなホモソーシャル的なノリも持ち込まれ、どこか刹那的で物質的、後者はやや観念的なものとして稲田は演出することに決めたという。とは言ったものの、稲田に元々深い考えがあった訳ではなく、今そこにあるリソースを最大限に割く以外の道はなく、別バージョンを作る以上は何らかの差異を持たせるべきだという自然な成り行きから、そのような方向性を見出さざるを得なくなったというだけのことだと思う。モラハラとも私の苦痛とも関係のない話が続いて恐縮だが、ヴェネディクト・エロフェーエフ作のこの戯曲においては、実は「ユダヤ人」のモチーフも重要で、ソ連時代のユダヤ人がどういう立場にあったのかという点がなかなかに重要だったともいえるし、「酔っ払った感じ」が重要な彼の戯曲について理屈を垂れ流すのをよすにしても、歴史ネタ政治ネタ人種ネタ満載のこの芝居には教養が欠かせない。舞台は精神病院だが、ソ連では(否、ソ連だけとは限らない)では政治的理由や諸々の他の理由から、精神病院にぶち込まれる人たちがいて、主人公も本当に気が狂っているから精神病院につれてこられた訳ではない。彼はユダヤ人であり、肉体労働を色々とこなして生活しているが、言動がソ連人として相応しくない……といったところだろうか。わざわざ翻訳者の方をお呼びしてレクチャーまでして頂いたのだが、彼女の話は実際にユダヤ人についてが中心で、それに稲田はひどく退屈したらしかった。彼にとっては興味のない話題だったし、狭い世界で満足するタイプの稲田は、自分自身の傾向を維持することが大事だったせいか、ユダヤ人という個別的モチーフを、「アウトサイダー」という普遍的モチーフみたいなものに変換して考えることにしたらしい。実際は、そんなに単純なものではないはずなのだが……私も、勿論ここで一言で纏めることはできない。そういう著作は幾つかあるので、興味のある人はぜひ自分で調べてみてほしい。かの有名なメイエルホリドもユダヤ系だし、アレクサンドル・タイーロフのような演出家もユダヤ系、銃殺されたマンデリシターム……とてもじゃないが、挙げきれない。
 すっかり話がずれたが、色々指摘することはできるにせよ、上演の結果からいえば、学生演劇で行う芝居としては決して悪い出来ではなかった。けれども、稲田はある意味ナイーヴ過ぎて、内容を自分にとって身近な所まで引き下げ過ぎたのである。原作通りの性別で行うバージョンのラストには、これには顧問の先生も渋い顔をしたというが、詩人たる主人公のグレーヴィチが、ナタリーという一応ヒロイン的ポジションの女との恋愛において、世俗的な勝ち組男性である男性看護師に勝利するという、浮世離れした自分自身を幾分グレーヴィチに当てはめて、自分のような男が認められるといったような場面を稲田は勝手に加えたのだが、そんなのはこの作品には不適切だったと断言できる。何のために、作者は暴力シーンで結末をしめて、「拍手無用」とまで書いたのか――演出の恣意が許されないとしたら、こういう所だろう。あれ、話がずれたままだ。失礼。
 私情からあれこれと稲田を批判している側面は自分でも否定しない。実は稲田にとっては嬉しいハプニングだったとしても、突然手掛けることになった演出である。色々と急だったのだし、彼なりにプレッシャーもあっただろう。何から何まで否定する気はない。けれど、その過程で、彼が私の精神にかけた負担の大きさは決して小さくないし、今ならわかることだが、その一つ一つが、一人の人間に対して行うこととして、許されることではなかったはずだ。
 さて、戯曲を読み込んでみて、私が興味を持った役は、主人公がぶち込まれる部屋のリーダー的存在・プローホロフという役だった。この芝居は下ネタだらけだが、彼の発言は中でも野卑なものが多く、そういうところはちょっぴり演じにくそうだな……とも思ったが、主人公と意気投合してしまう感じが良かったし、権力側である病院の人間との軋轢をうまく避けながら部屋の秩序を守る役割を引き受けている、ある意味で境界に立っているようなポジションが魅力的だった――というわけで、稲田にもどの役に興味を持ったかとか、そんな話をしたが、役決めの日に向けて、既に誰がどれをやりたいか、稲田はある程度意見を集めていた。だから、私がやりたいと思った役が、とある人物と被っていることも、役決め当日よりだいぶ前に知ることになったのだ。その人は、Oさん。私の後輩、前年は『三人姉妹』で、長女の役を見事にやりきった、才気溢れる活発な子だった。実をいうと、彼女こそNNからセクハラを受けていたことが恐らく原因で、「今年は参加しないかも……」と漏らしていた子だったのだが、NNはいなくなり、漸く呼吸ができる状態になり、本来のエネルギッシュさを取り戻して、なんと演出助手にも立候補し、稲田は彼女と連携して演出を行うことになっていた。その彼女が、私がやりたいのと同じ役を望んでいる――稲田から聞かされた事実に、動揺した。

・ダブルキャスト
 希望する役が被る位なんだと思われるかも知れない。実際、プロの世界なら争いは熾烈かつ容赦のないものだろうし、ダブルキャストもしばしばある。とはいえ、私が所属していたのは飽く迄も学生演劇、インカレとはいえ、ロシア文学・ロシア演劇に嗜もう!という趣旨の多少学究的側面を持つ小規模なサークルで、演劇経験ゼロなんて普通のことだった。私も、将来は俳優になりたいと考えていた訳でもないし、勿論稽古には熱心だったけれども、プロのようにやっていた訳ではない。授業も基本的にさぼらない主義だった(稲田のように、サークルを口実にサボる人もいるが、好きでやっていることを言い訳にするような行為はあまり理解できない)。役を決めるのにオーディションがあるわけでもない。だから、役を決める時は、なるべく誰も後悔しなくていいように話し合い、意見を出し合う訳だが、実際そういう習慣が、誰のことも踏みつけずに上手に運用されていたとは言い難い。必ず誰かが傷つくし、それでも何とか妥協点を探すしかない――そして、私自身、甘えていると思われるかも知れないが、私は今まで妥協し続けてきたという暗い気持ちを抱いていたのだった。この不満を口にして稲田にモラ説教を食らったこともあるのだが(一年生の時は、本当にやってみったかった役はあったが、もっとふさわしい人がいたのも事実で、稲田達上級生が望む通りの配役を受け入れたし、二年生の時のダブルキャストを承諾したことも、稲田に芝居の約束を裏切られても我慢していたことも、全て、全て私が妥協し続けてきたという被害者意識に変わっていた)、そういうわけで、私からすると「またか」だったのである。今回のこの被りについて、顧問の先生は、またダブルキャストでやればいいと言ったらしい――そう、「また」だ。その前年も、私は後輩の別の女の子とやりたい役が被り、ダブルキャストで役をこなした。今となっては、それで残った良いものもあるし、私の演技も、彼女の演技も、両方が存在したことは良かったことだと思うけれども、その当時お互いに辛い思いをしたことは否定できない。あまり気軽にダブルキャストでいいなどと言われると、私の苦しみは何だったのかと思うし、結果的にそれしかないとしても、そう安易に結論を出されるのは辛い。かといって、どちらがより役にふさわしいかを突き付けられるのも辛いものだ。そして、稲田がやったのは、まさにそれだった――しかも、自分基準以外の根拠はなく、だ。
「俺は、正直言って、Оがやるべきだと思う」
 と、彼は、一対一で、面と向かって、私に言い放った。
春公演のことなどで散々苦しみ、ダブルキャストで辛い思いはしたもののどうにかこうにか乗り越え、彼が演出をやるのに疑問を感じはしながらも、なんとかついていこうと努力している私に向かって、個人的な、プライベートな場面を使って、言ったのだ。私がどれだけ傷ついたのか、うまく文章にはできないけれども、思い出しただけで、あのゴミみたいな言葉しか垂れ流さない舌を引っこ抜いてやりたくなる。彼のような人間を生み出す親もいると思うと、とても出生賛美なんかできやしない。生まれないほうが良い人間、いるじゃん!と本気で思っている。ご両親には悪いが、公害になるので三匹目は作らないで欲しかったと面と向かって言いたい。言葉が過ぎるって?その位怒ってるんだよ、怒らせといてくれよ……。
 勿論、私自身、後輩に譲るべきではないかと葛藤しなかったわけではない。その前年だって、葛藤したのだ。二年生の私、三年生の私は、常に後輩に譲るべきなのではないかと葛藤したし、稲田のせいで自尊心を相当削られていたので、私に何か誰も役をやってほしくないだろう……という卑屈な気持ちも持っていて、誰にも言えなかったけれども苦しかった。皆が皆、私さえ我慢すればよいと思っているのでは?と、疑心暗鬼になっていた。なぜなら、常に、「私がやりたいこと」はそのまま受け入れられたことがなかったからだ――実際には、私は自分で思っていた程不要な存在と思われていたわけではなく、稲田が私を自分の世界に囲い込んでしまったがために、自分の味方は自分を最も傷つけてくる稲田だけだと錯覚していただけなのだが、どうせ皆も私がいないほうが良いのだろうとまで思っていた。口には出せなかったが、自分だけが報われないという気持ちでいっぱいだった。卒業済みだが親身になってくれる、稲田の同期の女の先輩も、当時メンバーが少なかったこともあるが人徳も高く、望まれてヒロインを演じた人だったし、あの人もこの人も、望まれながら自分でも希望する役をやったのに、私はいつも望まれない!一緒に芝居をやろうといった稲田でさえ本心では望んでくれていない!という気持ちでおかしくなっていた(勿論そうでなかった人は何人かいるのだが、この時は視野が凄く狭くなっていて、周りをよく見ることはできなかったし、希望を折られるのが日常化していたのは事実だ)。この飢餓感の原因は、間違いなく稲田が春公演のことで裏切ったことにあるが、確かにこの時の私は決して正常ではなかった。Oさんのことは好きだったが、この時は憎い気持ちがゼロだったとは言い切れない。今年はやらないって言ってたじゃん!とさえ思った――相談されていなかったし一時期離れていたから知らなかったとはいえ、同期のクズのセクハラから彼女を守れなかったダメな先輩の私が、そんなことを思ったのだ。今考えても、この時の私は最高にかっこ悪い。永遠に子供のつもりの稲田といると、人間的に成長できないのかも知れない。

 兎角、あんなにも演劇のことで私に辛い思いをさせた稲田が、また私の希望を踏みつけたので、私は発狂寸前だった。ボロボロになった。確かに、Oさんのほうがどんな役だってふさわしいに決まっている――ある意味では。劇団は決してプロの集団ではないのだから、そんな要件はないのだが、彼女は高校時代既に演劇をちゃんとやってきていて、舞台経験も多く、発声も優れ、運動神経もよく、快活でリーダーシップがあった。人望もあった。私もそんな彼女が好きだったからこそ、彼女のほうが向いていると言われて、反論などできようはずもなかった。

 ああ、この人は、私と芝居やるの本当は嫌なんだな……と心の奥底に合点がいくような感覚があったと思う。この人はやはり、女として私を傍に置いておきたいだけで、春公演をやるというのはアリバイ作りなんだな、と(実際そうだったのだろう)。そこからの細かい経緯は覚えていないが、私が稲田に錯乱したメールを送ったのは多分この流れの中でだった。ただし、錯乱したといっても、彼の本音に対する私の認識だけは正常だった。錯乱したからこそ、自分の本音も書けたのである。私自身、今のあなたと芝居がやりたいんじゃない!あの時のあなたと芝居がしたかったのに出来なかったことに捕われているだけで、もうあの時の衝動とは別物だ……といったような、完全なる事実を書いたのである。あの時の意識としては、彼が急遽演出に選ばれた本公演に積極的に参加するのも、埋め合わせしてもらえるまで耐えられるよう、自分を奮い立たせるためにやっているような感じだった。だから、私としては、私が参加したり私がやりたい役を見つけたりすることに対して、彼は心から喜ぶべきだと思っていたのかも知れない。ところが、彼は、普段は全く潔癖な人ではなく公私混同しまくりなのに、突然「みんなの演出」として、私の希望を頭ごなしに否定したのである。しかし、稲田は、私からのメールに酷くショックを受けたらしく、今度は、「本当は君にプローホロフをやってほしかった、でも、演出としてそれは公正ではないから言えなかった……」というようなことをうだうだ言い始めた。どれが彼の本音かなど分からないし、分かる価値もない。自分の気分によって公私を乱暴に使い分ける稲田に、私は死ぬほど振り回された。モラは言うことがコロコロ変わるというけれど、要は性根が不誠実だから、言動全てに関して一貫していないのだ。稲田は、よく「現在がすべて」というようなことを言っていたが、過去も未来もないがしろにして行き当たりばったりで生きているだけのことを、よくもそれっぽく美化して見せていたものである。美化も美化、これを読んでいるあなたが知らなければ是非一度読んでみてほしいのだが、稲田は山岸涼子さんの『アラベスク』で、ヒロインのノンナを導くミロノフ先生気取りだったのではないかと思う。敢えて厳しい言動をとり、自分と愛弟子が依存し合わないように、彼女を愛しているが、男女として向き合う前にノンナを巣立ちさせようとするミロノフ先生である。実際に私と芝居をやりたかったが、甘えている私に対して良かれと思って本心と異なる厳しい言動をとったという可能性は結構高いのだが(確か、そんなようなことを言っていたことがある)、ただの留年生であって経験値ゆえのノウハウと暇があるから一時演出を任されたに過ぎない稲田は、正真正銘の天才バレリーノでありながらよき教育者でもあるミロノフ先生ではないし、私に対して厳しいことを言えた立場ではない。私にだけではなく、周囲のありとあらゆるものに依存しているのは彼の方だったのだから。

 この辺りの前後関係はまた記憶が曖昧でうまく整理できないが、そうこうする内に役決めの日が訪れ、私は前日に、なんだか気力がなくなったものの参加しない!と決める程の覚悟も持てず、仕方ないので「プローホロフではなく、〇〇でも、構わない」とだけメールをして、暗澹たる気持ちで役決めの場に行った。私の希望はプローホロフということになっていて、Oさんはダブルキャストが嫌だと言い張ることもなく、寧ろ自分は演出補佐もやるから、客観的に見る機会を得られることにもなるし問題ないとまで言ってくれたような気がする。よくできた人だった。結局ダブルキャストでやることになったが、そのこと以上に、稲田に対するモヤモヤが消えずに私はまだまだ苦しまなければならなかった。

 こんなことがあったのだから、愛想を尽かして稲田から離れていけばよかったのだが、私はバカを続けていた。心の底から納得したわけではないものの、本当に春公演がやりたい、君もそうは言っていても心から春公演がやりたいはずだ、だから一緒に乗り越えよう……的な、何しろ記憶が古いのでもう大まかなことしか書けないが、ぎくしゃくしながらもやり取りをする内に、彼の尽くせぬ甘言に惑わされ、私たちはひとまず和解した。和解というより、厳密には、私自身、取り敢えず春公演をやらなければあの頃の私は救済されないという信仰があったから、自分を騙したという所もある。本当に私がすべきことは、役決めの場で毅然と彼に不信任決議を叩きつけることだったと思うのだが、時既に遅しだ。腹を括り、舞台が初めての一年生の手助けなどをしながら頑張ろう!と、空元気で無理に前を向いて走り出したツケは、夏の終わりごろに払う羽目になった。

・再発

 敗血症になった時のことを書いたが、私は元々笑える程病弱で、自慢する気はないし寧ろ本当にコンプレックスで、病気もしたことがない奴が「こんな無茶してやったぜ~~」みたいな武勇伝をひけらかしているのを見ると正真正銘の殺意がわく。貧乏人が目の前で札束を燃やされているようなもので、頼むからものすごく苦しい不治の病になってのたうち回りながら死んでくれ!と思っているし、今後はそういうことがあれば直接言う気だ。健康な癖に健康を大切にしない人間のことは、憎い。私にはできないことだから。

 私は高校の時にバセドー病にかかっていて、そこから免疫系等の病気を色々患うようになったのだが、子供の時からしょっちゅう入院している。免疫抑制の薬が欠かせず、薬さえ飲んでいれば表面上は健康な人と同じに生活できるが、自死したいと思えば具合が悪くなってからも病院に行かず持病用の薬を飲まなければいいのである。まあ、やりたいことが沢山あるので今の所そういう予定はない。そんな私だが、大学に入った頃は、自分の不健康な体が嫌で嫌で、病と共生していくという選択肢はどうしても選びたくなくて、良くなる可能性があるならと結果の不確実な手術をした。脾臓をとったのだ。この時の入院生活では稲田が随分お見舞いにも来てくれて、優しくはしてくれたのだが、あまりにもベタベタと一日中いるので周囲から顰蹙を買ってしまったし、必要なことをやってくれるわけではないので正直困った部分もある。有難い反面、迷惑に感じる部分があっても直接言えなかった――のは、稲田が気の利かない男である以上、はっきり言えなかった私にも非はあるわけだが。それはともかく、その手術の甲斐あって、一時期だが、薬からも解放されて健康を取り戻したかのような日々が半年ほど続いた――それが終わりを告げたのは、役決めも終わり、テクストの読み込みと練習が始まった夏の終わりだ。

 空元気ゆえに俄かに頑張ることにした私は、まだロシア語が十分に読めない後輩たちを集めてテクストの読みを確かめ合う会を開いた(語劇サークルなので、原語で芝居をするため)。少しでも貢献して、自らの居場所を確保したい気持ちもあったし、本当にそうでもしなければいけないくらい時間がないとも考えていた。しかし、ある日高熱が出て、後輩の一人が私の顔を見て「真っ白ですけど、大丈夫ですか?」と心配の言葉をかけた――大丈夫ではない。最初にその病気になった時も、顔が蝋のようになって、唇から血の気が失せたが、同じだった。稲田にそのことを伝え、その日は帰宅して、翌日には急いでかかりつけの病院に行ったが、案の定ヘモグロビンが危険な値まで下がっていた。完全に再発であり、絶望しかなかった。手術までして、頑張ったのに。辛いことも全部我慢して、これから前向きに頑張ると決めたのに、また挫かれた――稲田は勿論ひどく同情したし、本人も辛く思ってくれてはいた。正真正銘の冷血人間とまでは言えないし、寧ろ基本的には善意の人なので、特に冷たい対応をしたわけではない。ただ、彼は、いつでもがっかりさせるのである。

 幸い、入院まではしなくても良く、輸血をしたり、自宅で休んだりという運びになったが、自宅で休んでいたその日、いつも一緒に出ていた授業の時間に稲田からメールがきた。

「ソラリスがいなくてつまらないから、〇〇とだべってる」

 うまく表現できないが、なんだかとてもがっかりしたのを覚えている。

 私は、あなたの暇つぶしの相手なのか?あなたは健康で、人生が漠然と長く感じられているかも知れないが、私の時間はそんなにはないかも知れない。サークルも、命を削って取り組んでいる状態なのに、あなたはそんななのか。これからも、そんななのか。あなたはあなたとして、何か必死に頑張ることはないのか。

 ――こんな人に、私は私の貴重な時間を使っているのか、という明確な言葉は沸いてこなかったけれども、ぼんやりとそんな気持ちが芽生え始めたのは多分この頃である。


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