見出し画像

DAY14:暗い気持ちになるのにおもしろい作品〜舞台『半神』〜

 「ふたりでひとつ」という言い回しは、盟友、親友、恋人……さまざまな関係で使用される。
 そのなかで最もことばの“まま”表現されているのは、生を受けたその日から当たり前に互いが互いである【双子】という存在だ。


 萩尾望都『半神』を原作に野田秀樹が脚本を書き、上演したのは1986年。
 NODA・MAPの前身となる劇団夢の遊眠社時代から数えると5回再演(うち1回は東京芸術劇場で韓国との共同制作として上演)された作品が、柿喰う客の主宰・中屋敷法人演出であたらしい産声を上げた。


 舞台版『半神』のあらすじはこうだ。

醜いが高い知能をもつ姉シュラと、美しいが頭が弱い妹マリア。ふたりは、半身を共有しながら、時に反発し、時に依存しあいながら存在してきた。
しかし、負担の大きさから双方ともに衰弱し、十歳を目前にして死の危険に直面する。救う方法はひとつ。分離手術によって、どちらか片方を生き延びさせる方法だけだった。手術の成功で生き残ったのは、シュラなのか、マリアなのか・・・ 

NODA・MAP 公式HPより

   原作では双子の年齢は13歳。名前は姉が「ユージー」、妹が「ユーシー」となる。
 舞台版の名前は、姉妹それぞれの立ち位置や心持ちで付けられているように思う。

ユージーには、腰のあたりでつながっている頭の弱い双子の妹ユーシーがいる。そのためいっしょに歩くのも、妹の食事やトイレも、ユージーがこまごまと世話をしなければならない。おばさんたちは妹の美しさばかり褒めそやし、唯一の楽しみである勉強は妹にじゃまをされ、喧嘩をすれば父親に「知識はあっても、やさしい心はないのかい?」と諭されるように叱られて、ユージーのいらだちはつのっていく。
双子が13歳になったとき、ユージーにはユーシーを支えて歩く体力がなくなり、内臓の負担も大きくなって、二人に命の危険が迫っていた。そのため、ドクターは分離手術を行うことを提案した。そして…。

『萩尾望都作品目録』より


 まっさらな気持ちで見たいがため、原作を読まずに観劇。(この日まで通らなかった萩尾望都作品)
 観劇してすぐに、二人とも「欠落」していて「悲観」の視線を浴びせられているのがわかった。双子というのは「できないことは互いで補い合う」という印象を持っていたが、彼女たちは互いが互いの足をひっぱり合っているという、持っていたイメージの真逆だった。

 ふたりは「腰のあたりで繋がっている」ため、常にマリア(藤間さん)がシュラ(桜井さん)に抱きつく(桜井さんが藤間さんを抱える)かたちで常に舞台上を動いていく。その姿は憎悪と愛が共存する様を具現化したようで、個人的に好きなところ。

 ネタバレになるが最終的に生き残るのは、知能が高かった姉のシュラ。しかし、術後すこやかに成長した彼女の容姿はマリアそのものになっていく。(ステージでは術後すぐに桜井さんではなく、藤間さんがシュラとして舞台に立ち、はじめて台詞が発せられる)

 生き残ったのはシュラなのに、外側だけ見るとマリアが生き残ったように映る。彼女たちは双子なのだから似ているのは当たり前。けれど、いくら身体が“ひとつ”に近いものだったとしても、その意思は“ふたつ”。
 どうしたって心は「はんぶんこ」にはならないのだ。

 もし家族がマリアの生き残りを選択していたら、同じ結末になただろうか? 答えはもちろんノーだ。
 マリアが生き残れば、知能(シュラ)を手放すことになる。残るのはうつくしい容姿だけ。

 マリアを手放したシュラは、高い知能はそのままに美しい容姿を手に入れたが、鏡を見るたび妹を思いだす。自分の半身だった彼女は、もうどこにもいないのに。

 救われたはずなのに救われない「ふたり」に、しばらくわたしの心が宙ぶらりんになっていた。
 煩わしいと思っていた妹。切り離されてはじめて「カタワレ」だったことに気が付く。そしてマリアはシュラとなり、心に棲み続けていく。ぐにゃりと足元が歪んでいく感覚を、私と同じようにシュラは経験したのだろうか。


 半神とは、「神と人の間に生まれた子」の意。
 神話上の双子座(カストルとポルックス)は、弟のポルックスがゼウスの血を引いて不死身、カストルは人の子として生を受ける。戦場を駆け回った二人の英雄は、カストルの死を嘆いたポルックスが不死身を手放したことで空に昇った。永遠にともに在ることを望み、星となり今日も輝き続けている。
 二人だから、彼らは「カストル」と「ポルックス」だった。

 
 ユージーとユーシー、シュラとマリア。
 彼女たちも、萩尾先生が題した通り「半神」だと、わたしは信じている。【ふたりでひとつ】ではなく、【ひとつがふたり】だったのだ、と。



 余談。
 当時は乃木坂46に在籍していた桜井玲香さん。女子校出身でグループ内でも「お嬢様育ち」と言われていた彼女が、中屋敷演出でギャイギャイ叫ぶ姿はとても新鮮だった。(現在はミュージカル女優として活躍中)
 目鼻立ちがはっきりした華美な容姿の彼女が、「醜さ」を容姿ではなく全身で体現している姿は、とても好印象だった。
 色眼鏡(推し補正)抜きで、芝居で生きていける人だなあ、と思う。早く劇場でお目にかかりたい。

この記事が参加している募集

やってみた

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?