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「発信力」の扱われ方への「強烈な違和感」と、「発信力」の「本質」

SNSが栄え、お金が無くても時間さえあれば誰でも「発信」できるようになった昨今、
本屋にも「発信力の鍛え方」とか「OUTPUT」などの本が、平置きやオススメコーナーにあふれている。

その景色はまるで、発信的行動をしていない人々へのプレッシャーにも見えるし、「どうせあなたも受信的で受け身な平均的な人なんでしょ?」と小バカにしているようにすら見える。

そんな近年の空気感に、違和感大爆発。

タイトルどおり、まずちまたの発信フィーバーにまとわりつく違和感ポイントについてたらたらと書いてから、わたしの思う本質について書きたい。

ただ、「本質」なんてたいそうな言葉を使ってしまい開始10行ほどで弱気になっている。

あくまでわたしの感覚なので、わたしなりに「めちゃめちゃスピリチュアルもしくは哲学っぽい世界に大きく迂回しつつ」書いてみることにする。
それで伝わりやすくするためか、弱気を誤魔化すためかはわからない。
まぁチャレンジしてみよう。

続きを書く前に、先に言っておきたい。
「発信」を否定したいわけではない。
むしろ発信力は技術の進化に合わせて向上させ、これまでは繋がれなかった人やソーシャルコミュニティと繋がり、人生を楽しむことをお薦めしたい。
ネット、SNSの発展で、団塊ジュニア世代のわたしからするとほんとに羨ましい時代なのだ。
なにかアクションを起こすとき、ヘタな肩書きをたくさん並べた名刺より、アクティブに投稿したSNSアカウントを見てもらった方がお互いにとってよっぽど価値がある。

しかし、肝心の「発信」の意味を履き違えないように、今一度再確認してみないか?ということを併せて言いたいのだ。

誰しもOUTPUTは“絶対にしている”

誰しもご飯をINPUTしたらウンコをOUTPUTしている。いきなりウンコかよ。でも一番わかりやすい。
そうしなければ、太って、宿便がたまって、不健康になって、死んでしまう。
また、良きウンコは本来、肥料となって土壌=地球を元気にし、サスティナブルに繰り返される食物連鎖のなかで再びINPUTとなる動植物を育てるのだ。

つまり、「OUTPUTが大事」なんてのは同意どころか自然の摂理であって、黙っていても必ず全ての人がほぼ毎日OUTPUTを実践中である。
(まぁ我慢してお付き合いいただきたい。ウンコを我慢ではなく読むほう。ウンコはもよおしてるならしてください。すみやかに。読みながらでもいいから。で、このウンコの話はあとの壮大なる「スピリチュアルか哲学っぽい話」と繋がる。)

ただ、「考え」や「意見」「主張」についての発信は確かに少ない気がしないだろうか。

統計データを見ても、各社代表的SNSのアクティブ率はそれほど悪くない。
しかしイイネは押すが投稿しない。
投稿したとしてもシェアが多い。
自分の意見を胸張って述べる人は確かに少ない。
それでも何かOUTPUTしたくて、他人の投稿のコメント欄でめいっぱい主張するのがせいいっぱい、の人も少なくない。

日本人の「奥ゆかしさ」や「寡黙さ」といったものは、生き方のコーディネートが上手であれば「美学」にも見えるが、そうでなければ恥をかきたくない、かっこ悪く思われたくないがための、隠れ蓑のようでもある。

文章苦手、ボキャブラリーがない、時間がかかる、などを理由にするひともいるが、それは金槌だから泳がない、だから泳げない、だから溺れるから海には入らない、と言ってるようなもんだ。
はじめなきゃ上手くなどならないし、マーケティングやセルフブランディングのたぐいのテクニックの波にも簡単に溺れさせられてしまうだろう。


巷が言う「発信力」による個人の錯乱

まず、巷でいう「発信力」の再確認。
まずメリットはだいたいこんなかんじでかかれてる。

・認知度向上 (プロモーション)
・知識向上 (発信には勉強が必要)
・創作性の向上 (アイデアの化学反応)
・受信量(情報)が増える (反応から学ぶ)
・自信がつく (承認欲求の満足)

このあたりまでは頷ける。

その先の「手法」あたりからおかしくなっている。
「(セルフ)ブランディング」
「STP」
「AIDMA/AISAS」
「コピーライティング」

「商品」や「サービス」を売るために、これらのマーケティングセオリーで整理するのは好きにやればいい。

しかし、SNS等ネット散歩していると、「発信」する主体である自分を商材化しているひとに結構遭遇する。マーケティングセオリーを「活用」ではなくセオリー側に「自分をあてはめてる」。お弁当のおにぎり🍙のカタに自ら入るかのように。

テクニックやセオリー依存者は、
自分なりの熱い想いや情熱を伝えることよりも、いかに差別化し、特別視してもらうかといったことに注力しがちになる。

自己啓発系なんかと結びつくとさらに異臭を放つ。

注目されるために、「他人と違う奇抜なこと」を追い求める。
スゴイ、ミステリアス、アンビリーバブル、ぶっ飛んでる、インテリジェンス、セクシー、パワフル、ワイルド、師匠、先生、メンター、といった「特別」な形容、肩書で呼ばれる自分になるために、「らしくない無謀」へと突き進む。

そこからはもはや「本当の自分」や「パーソナル」はほとんど感じ取れない。

エベレストへの何度かの挑戦で指を無くし、命まで落とした若者がいた。
わたしはとてもやるせない気持ちになった。
他人の煽りや無責任な期待、表面的エールに応えようとして、または追い詰められて、得体のしれない「社会が求める自分」を妄想してしまったのではないか。
それに追いつけていないリアルな自分とのギャップを埋めるための、辻褄合わせ中毒症にかってしまったのではないかと、感じた。
ある程度までは仲間が止められるだろうが、認知度や影響力がピークを越えれば、制御不能になるのだろう。
そこにいるありのままが、本当の自分なのに。

みんな「その気にさせる」のは得意だ。
「すごいね!応援してるよ!」といったような言葉はモチベーションにもなり自己成長の後押しになりもする。
しかし、特にネットは顔が見えない分「リアル以上の過度な社交辞令」が関係性崩壊を防いでいることも忘れてはいけない。
知らない「みなさま」を気にしすぎて本当の自分を見失わないように注意したい。



虚構な自分を虚構な手法で虚構な社会に「発信」してる

もちろん、全てとは言わないが。

マーケティング的には、ターゲティング、チャネル戦略、キャッチーなコピーといったテクニックばかりを追いかけさせる。
この商品が、サービスが、あなたが売れない、注目されないのは、あれが、これが、「足りない」せいだ、と。

ペルソナ分析で居もしない偶像をつくり、カスタマージャーニーでその偶像のライフスタイルを無理やり描き出し、コンタクトポイント別のコンテンツを決めて「発信」をタスク化する。
そんなことを永遠に繰り返している。

なんてオカルティックなんだ。
完全にSFファンタジー。
ネバーエンディングストーリ―かよ。
マーケティングとは虚構教の経典か?

※くれぐれも。近代マーケティングの父、フィリップ・コトラー博士や戦略論のマイケル・ポーター博士は超絶リスペクトしている。しかし、そのあたりを読んできた世代からみると、ペルソナ分析はハロウィーン仮装祭、カスタマージャーニーは恵方巻きみたいなものに感じる。
なんだそれ。近江商人の「三方良し」のほうが断然商いの本質を説いている。そして・・泣ける。

一方、自己啓発サイドでは、「脱社畜」(古くは「脱サラ」)、「セルフブランディング」といった言葉を流行らせ、あなたは変われる!あなたは特別になれる!といった教育ビジネスに引きずり込んだりする。

だが大抵、それをけしかけるコンサルやコーチは、自身も雇われライターか企業のコンサル部門社員、もしくは「自分は成功者である」と自己暗示にかけるのがじょうずな「成功過渡期の個人事業主」であったりする。コーチングしたひとが100人越えればまた成功!次は500人!みたいな。モニター含め。

それでもなにかしらの気づきは得られるだろう。
しかしネットにはびこるその手の「学び」を鵜呑みにして「プロフィールの書き方」とか「ブログテクニック」「アプローチの法則」などをコピーしていたら、結果はどうなるか?

個性をわかりやすくしてブルーオーシャンを目指すはずが、ワードを変えただけ、奇抜の種類を変えただけでどれもこれも似た香りのするプロフィール、URLベッタベタな投稿、、"特別"獲得願望界はいまむしろ超レッドオーシャンだ。

みんな中身が同じで表面だけ色のちがうマーブルチョコみたい。しかもチョコは美味しくも不味くもない。

「最後にイベントの宣伝があります」なんて最初に書くのも流行ってる。宣伝くさい印象を軽減する配慮とスマートさのヒント、の類なのだろうか。

なぜ直球で、感激してもらえるイベントになるから絶対に来て欲しいんだ!と言わない。
いったい、「本当のあなた」はどこいった。
開けたらすぐ捨てるどうでもよいきらびやかで手の込んだ包装紙につつまれて中身が良くわからない。

わたしもプロモーションコンサル的なお手伝いを依頼されたりするが、ホームページ、名刺、チラシとまず言われる。だが、よくよくヒアリングすれば、ホームページも、たいそうな肩書き並べた名刺もいらない。
安く作れるチラシに熱意を注入してもらうことで、ほぼご納得いただく。

こうして、
自らカタにハマりに行くことで、あなたのアイデンティティはどこかへ棚上げされ、
あなたのパーソナルの輪郭は薄まり、
いつしか「押しが強めな、セールスマンみたいな人」カテゴリーに区分けされたりする。
虚構教の信者になったばっかりに、
個性を発揮するはずが、個性を失っている。


ここで、素晴らしいnoteがあったので紹介

これを書きつつnoteサーフィンをしていたら、同じベクトルの素晴らしいnoteに出会った。
http://ur0.link/tVCV
わたしの歳の半分以下のこの若い女性のnoteにとても感激した。
わたしなんかが書くよりとてつもなく文章力があるので“あとで”ぜひ読んでほしい。
以降の話に繋げるために一部抜粋する。

インターネットには夢が転がっている。
だけれど、そういった、夢が転がっているインターネットの世界での新しい価値観が、世界のどこかでは誰かを追い詰めているのだということにも、悲しいけれど気がつかざるをえないのだ。

どうしてネットの世界ではそんなにみんな「特別」になりがたっているのだろう?

大げさなことでしか感情を震わせる事ができないの?そういう、特別なことをした人がえらい、みたいな考え方は本当に納得ができない、と何度でも思う。

大人になっても、特別に見えるように生きていることがえらいのだと勘違いしている人が沢山いる。

誰かの言う「特別になりなさい」「個性を売りにしなさい」「誰もやっていないことをしなさい」…そういう種類の言葉に胸の鼓動が早くなる時、どうか一度「本当にそうかな?」と胸の奥で聞き返してください。

こんなくだりもある。

自分を「特別」だと思い込めた人からすれば、それに対する否定的な意見はどれも「特別な存在である自分に嫉妬している凡人の戯言」くらいにしか聞こえないだろう。

なんて文才だ。ズバリ、その通りだと思う。

「特別」と「発信」がビジネスの餌食になっている

誰しも少なからず「特別」でありたいという気持ちはあるだろう。
平凡だよね、と言われるより、面白いね、凄いね、カッコいいね、など形容されるうれしさは、存在承認欲求としてヒト科の生き物の基盤部分にビルトインされている仕様だから仕方ない。

しかし、「特別」という言葉の先に無理やり「成功」とか「自由」という言葉を結びつけようとする空気がないだろうか。
そして、逃げ場を無くし追い込むように、二元論ですべてを肩付けようとする社会がないだろうか。

たとえば、
「特別」になりたくて→起業/自営業=成功&自由
なんてイメージないだろうか。

さらに極端にいえば、

特別 = 自営業 = 好きなことできる、高給、自由
         → カッコイイ
平凡 = 雇用者 = 言いなり、社畜、安月給、不自由 
         → ダサい

というイメージはないだろうか。

暗に「ダサい」と言わずとも、ベンチャーや若手起業家をきらめかせ、夢、希望、憧れ視させることによって、「それに比べてサラリーマンて」・・と自信を無くさせる空気というか。

※一方、「逆オルタナティブ系」とでも呼びたくなる「ぜったい会社を辞めない。『ゼツヤメ』」なんてサイトがあったりして、世界は面白い。

「平凡」から「特別」へ。このキャズム(谷)を越えるためのビジネスを無理やりつくろうとしているようなきな臭さを感じる。あなたもノアの方舟特別号に乗れるのだ、みたいな。

「発信」をコトタマで読み解けば、その「本質」が見えてくる

ここからかなり迂回開始。

「発」はいわずとしれた内から外に向けたエネルギーのことだ。

では「信」とは?(wiki)

まこと。
真実で偽りのないこと。うそを言わないこと。
儒教では、五常(仁義礼智信)の一徳目であり、友情に厚く、人をあざむかないこと、誠実なことをいう。孔子は「民、信なければ立たず」(人間は信がなければ生きていくことができない)と「信」の重要性を指摘している。


これを発するのが「発信」だ。
信だけにシンプル。


なお「シン」という発音の言霊(コトタマ)には、ほかに
真、心、芯、親、進、新などながある。
漢字の意味を感じるだけでも、発信に際して大切にすべきことがわかる。

そして大御所「神」(シン)もあるわけだ。
この大宇宙の摩訶不思議さの解消のため、わかりやすい「意味づけ」をして納得するためのひとつの解釈に過ぎないが、以下のような話がある。

神=この宇宙の創造主=起源意識=天(あ)は、あるとき虚無のなかのわずかなゆらぎに誕生した。

すると意志(い)を持ち始めた。
自分を知りたい。わたしは、なんなんだ?
わたしには、何ができて、どんな存在なんだ?

それを知るには、自分以外の鏡となる存在を作る必要があることに気づく。

そこで、合わせ鏡から自分を見て知るために、自分以外のものを産み出した。
 (これが大宇宙初の「発神」なのかもしれない。しかも極めて純真な。)

産み出された存在もまた、自らの存在意義や能力を確認したいがために、また様々なものを産み出し、やがてそれは次々に連鎖した。
※話がややこしくなるのでここではその末裔の人類以外の物質等については置いておこう。

我々もそんな創造主をルーツにもつ存在、もしくは今もなおその「神が自分を知るための確認作業の一部」であるから、自分の可能性を知りたいのは無理もない。


『あいうえお』のコトタマ

言霊学の世界では、「かな」は神名。
天()の、
意()、つまり愛が、
宇宙()という様々な星々や生命体の存在する空間をつくり、
円、縁()で銀河や食物連鎖といった理(コトワリ)をもたせ、
緒()という、物事の始まりと終わり、つまり生と死、死は新たな生のはじまり、というサイクルをもたせた。
これがあいうえお

誰もが行うOUTPUTであるウンコも、このサイクルを回す重要なシステムであることがここらでおわかりだろう。神が創造した森羅万象に無駄は無い。
ウンコは自分自身の合わせ鏡。
ウンコの元気さで、自分の心身の健康状態もわかる。
嘘ではない。大宇宙サイクルに逆流だが「便移植」という医療方法がある。
うつやネガティブな人に、元気でポジティブな人のウンコをINPUTすると元気になる。
そしてウンコは土壌、地球の肥やしとなり、次の生命を産み出す。そこにフォーカスしてみれば、人間は「ウンコ製造機」とも言える。

発信、OUTPUTが苦手と思い込んでいる人は、まずは自分自身が「健康なウンコ」をOUTPUTできることから目指せば良いのかもしれない。OUTPUTそのものはできているのだから。

さて、「あいうんこ」。
いや、「あいうえお」。
それら一文字一文字がすべて、大宇宙のシステムを存在せしめる機能、ハタラキをもつ神々のことであるという概念がある。われわれもその一部。

「わたし」の語源も、日本総鎮守である愛媛県大三島の大山祇神社の御祭神「大山祇神」(オオヤマヅミノカミ)の別名「和多志神」にあり、わたしとは、「和する多くの志」ということだ。
現代人が使う「わたし」は、分離意識におけるここにいる独立した自分のことだとほとんどの人は思っているだろう。
しかし「和多志」本来の意味は、統合意識としての全ての存在のこと。すなわち自分はその一部。
前述の創造主の行った行為と相似象であり、「分け御霊」の概念の裏付けそのもの。
それを知らずにわたしたちは、わたしは、わたしは、と言っている。

ちなみに「自分」だって、分離された存在のことではなく、「“自”然の“分”身」と書く。

つまり、セルフブランディングコーチ、ちょこざいなテクニックばかりを売り物にする自称マーケターなどに「個性」や「強み」の押し売りを指南されずとも、すべき「発信」の本質は、DNAレベルで知っているはず、ということになる。

あなたもわたしも、「神の存在理由の確認作業」という創造主の究極ミッションの一部の役目を果たすためにこの星にうまれた、唯一無二の重要かつ貴重な存在である。

この世の誰1人として、そのミッションに関わっていない人はいない。つまり、神の分け御霊、八百万の神ってそういうことだろう。

出典:http://ch.kanagawa-museum.jp/
八百万の神々のミーティング風景。

よってわたしたちは、嘘偽りない、等身大のありのままの自分として、その確認作業=「発信」をしなければならない。
自分らしい、マコトのコトダマ、想いを伝えること。
(マーケティングも根底に「あい(愛)」がなければ、価値などないとおもうわけで)

「自分以外の存在は自分の鏡である」とは良く聞く言葉だが、宇宙創成からそれは本当なのであった。
しかし「欲」に支配されたとき、鏡に映った自分はどのように見えるだろう。
「かがみ」に映った「が(我=我欲)」を手放していかないと、「かみ」には近づけない。答えはわかっているのだ。

伊勢神宮の御祭神である天照大御神は、弟のスサノオの暴れっぷりに嫌気がさして、スネて天岩戸に隠れてしまった。(日本初の引きこもり)
そのとき岩戸から出てこれたのは、「鏡の中に映ったありのままの自分があまりに美しかったから」、ふいをつかれて腕をつかまれ、引っ張り出されたためだ。
そしてこの世に光が戻った。


他人と違う奇抜なことを探し求めたり、自由なふり、リア充なふりをして「信(まこと)」から遠ざかれば遠ざかるほど・・・自分に割り当てられた神のミッションの宿題は、歳をとってからのしかかる。

そして、それに気づきクリアするひとが増えなければ、大宇宙ミッション企画はコンプリートできず、いつまでたっても大宇宙は次のステージへと進めない。

「平凡」なことを続けることの「特別」さ

日本を守るために、古来より結界をはる家系が人知れず日本各地の要所にいるとかいないとか。

結界!!陰陽師のように何かスゴい呪文、御神事、護摩炊きしたりするのかなぁ!
さては地下にエヴァンゲリヲンを隠していてATフィールドをはっているのか!
とか思ってみた。

しかしきいたはなしはこうだった。

「朝、日の出とともに起き、
畑仕事をして、
作った地産地消、自給自足の農作物を食べ、
山林の手入れをし、暗くなったら寝る。
特に旅にも出ず、できるだけその土地にいて、
毎日同じ生活をたんたんと続けること。」

これを平凡と呼んでいいのかはわからない。
しかし、ハッとしないだろうか。
コツコツとたんたんとルーチンワークを続けることが、いかに大切で、奇跡的で有り難いことであるかに気づくことができた。

そもそも「有り難い」とは、「有る」ことが「難しい」ほどの奇跡であり、それに感謝が絶えない、という意味である。


ネット上の顔も見えない赤の他人の言葉や、見られかたなど気にしない。
いいねの数や反響などに一喜一憂しない。
自由ぶった人、特別っぽくなってきた自分に酔ってる人からの蔑みコメントが入っても、「まだ大宇宙ミッションに気づけていない欲深いかわいそうな人」とでも思っていればいいのだ。

自分をじ、
リアルで本音を伝えてくれる仲間をじる。

その信頼で紡いだネットワークをひろげつつ、
まことの自分を、自信をもって、自己成長のために発信する。

神のアルゴリズムである五十音を駆使して、
偽りのない信で発する

怖がらず、誇張しすぎず、ありのままの自分を発信しよう。

それが、「発信の本質」だとおもうわけだ。

創造主は人間に(ウンコ以外にも)、文章、アート、もの作り、音、ダンスなどなど、ありとあらゆるOUTPUT方法を具備している。

ネットからノイズが減った方がきっと、自分の発信を受け止めてくれる人々との縁に、心から感謝しあえる世界になると思う。

問題の一部であり続けるのではなく、解決の一部でありたいと思っています。