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かわら版No.45 米沢をどう守り、つくっていくか、自然・風景・景観など、について

東北の「自然」は、けつして巨きくもなければ、けわしくもないが、やはり独得の風貌をもっている。うまくいいあらわすことができないが、・・・一言にしていえば、動きやけわしさが、つぎの瞬間にはじまるかもしれないのに、それ以前に冷たく抑制している「自然」とでも言おうか。身をすりよせようとすれば、少し冷たく、怖れを感じさせるには、何となく親しい単純をもちすぎているといつた感じである。街をとりまく丘陵から、その後方に並んでいる吾妻連峯にいたるまで、この感じはかわらない。

吉本隆明『初期ノート』光文社,(547頁)

いつもお読みいただきありがとうございます。

この引用は、吉本隆明さんが、米沢での生活をもとに、「東北」の自然観を描いたものです。吉本さんは、文字通り吾妻連峰を見ながら、東北の自然の大きな特徴を考えていました。その一番近くの肌で感じる自然は、ここ米沢の自然で、だから引用の冒頭の「東北」は「米沢」と読み替えることもできると思います。

一口に、自然、風景、景観といっても、このような言葉は、単なる対象を記述したにすぎないのではなく、環境、時代、歴史、文化、人々とその営みなどを統合的に含む言葉として使用されています。吉本さんの表した「米沢の自然」も、実に吉本さんらしく、私たちと自然の本質的なつながりに感覚を研ぎ澄ませた中での、主観的でも客観的でもない統合的な表現です。

・・・そこでは天然は自生物の音響によって語り、植物や動物も言葉をもっていて、人語に響いている。そういう認知は迷信や錯覚ではない仕方で、人間が天然や自然の本性のところまで下りてゆくことができる深層をしめしている。

吉本隆明『アフリカ的段階についてー史観の拡張』春秋社、1998年

後に、吉本さんは、「アフリカ的段階」というあまりにもインプレッシブな(印象的な、感動的な)歴史哲学的な自然と人間の時間的な解釈を提示するわけですが、一方で実は、地理哲学的な自然と人間の空間的な解釈を、私たちのまち米沢で思考していたことは、特筆に値します。吉本さんは、私たちの住む米沢から、自生物の音響を、人語に響いてくる声に耳を澄まし聴き入っていたわけです。

私たちはこれまで、この米沢の自然や、風景、景観を所与のものとして、つまり与えられたものとして、前提として取り扱い考えすぎているのではないでしょうか。どのように自然を守り、残し、またつくっていくのか。どのような風景がこのまちの風景として理解されるのか。どのような景観を、米沢の歴史的景観、文化的景観、自然景観として、次世代へ受け継ぐ財産であることを認識し、これらを整備し、保全するよう努めていくのか。米沢をどう守り、つくっていくか。自然・風景・景観などについて考え、何を求めるかを決断をするのは、私たち市民一人一人です。

この他にも、環境問題がさまざまに論じられる中で、環境(environment)、生態系(ecosystem)、風土(milieu)、など「環境」に相当する概念をその違いに注意し、取り違えたり混同したりぜずに使用することも大切です。思慮深く、本質的な議論と判断力が必要です。より現実的で具体的な事案で考えるためにも、この度は総論として頭出しをさせていただきました。

最後までお読みいただきありがとうございます。

かわら版No.45





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