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死ぬことばかり考えてしまうのはきっと生きることに真面目過ぎるから


魔女・アマントです。職業、魔女

地球では需要が少ないらしく、こっそりと社会の片隅に紛れ込んで


週一ペースでnoteにしょうもない小説を書き綴っております。
とても暗い小説が多くて、これは私の心象風景を綴ったものです。

わたしがなぜこのような自分の心象風景を綴った小説をアップしているか
その理由について書いていきたいと思います。

現在、私は双極Ⅱ型という精神病を患っており、病気療養中です。
ルーチンワークが出来ない状態なので、生活保護を受給しています。

私は幼いころより、感受性と共感能力が異常に鋭く、人の心の中を呼んでしまうような子供でした。いま認知度が高まってきたHSPのエンパス型です。

私は共感能力の高さから母の気持ちが読めてしまうため、いつも聞き分けのよい、親にとって都合のいい子供でした。そのためか、いつも母親のモラハラに遭っていました。今でいう虐待児童です。

私は昭和37年11月15日生まれ、今年で58歳になります。
私が育った家庭は、外側から見るとごく普通の家庭でした。
父親は今でいう国土交通省(昔は建設省)の技官でした。

母は専業主婦、父が29歳、母が27歳の時にお見合いで結婚し、翌年
私が第一子として生まれました。
戦後17年目という時代背景で、まだ社会情勢は貧しかったと思います。

父は母と結婚してすぐに日本共産党の支持者として、組合活動を始めました。父と母の仲人は創価学会の方で、母親はご本尊なる物をいただいておりましたが、活動家ではありませんでした。

母はごく普通の女性で、特定の宗教や特定の思想を支持するような人ではなく、普通の公務員の奥さんとして暮らしていたかったようですが、それに反して父は組織の人間として、熱心に組合活動をしておりました。

私が二、三歳ころには、夜になると組合の活動家の方が家にきて、父はその方たちと組織活動の打ち合わせといいながら、夜遅くまでお酒を酌み交わしていたものです。

父は組織に対する信頼感が強く、カンパといってお金を組織活動に出資してしまうため、毎月家に持ち帰るお給料は微々たるもので、半月もするとお米が買えないといったような経済状況でした。そのため、母は洋裁の内職をして半月分の家計を切り盛りしていました。

物作りには納期があります。
母は、お客様にお渡しする洋服の納期が迫ると、胃を壊し精神的な不調を訴えて苛立ち始めます。そこからわたしが、母の苛立ちのはけ口の役割を担うようになっていったのです。

三歳違いで妹が生まれましたが、彼女は虚弱体質でしょっちゅう熱をだしたり、下痢をしたりを繰り返していましたので、それも母親のストレスになっていきました。妹の世話に手がかかるため、私はほとんどネグレクトの状態でした。

母親は四人兄弟の末っ子でした。生まれた時すでに父親が亡くなっていたため、祖母は母親を特別扱いして育てました。
母の兄弟は、長男の伯父、長女の伯母、母のすぐ上の伯父、そして末子が母親という構成でした。

2人の兄は、母を可愛がっていたようですが、長女の伯母が母親に嫉妬心がつよく、母は陰で伯母に虐待されて育ちました。
その虐待の連鎖がおそらく私に回ってきたのだろうと、推察します。

さて、伯母は『エホバの証人』という宗教を一家そろって信仰していました。母は伯母に信仰を迫られていました。分厚い『旧約聖書』なる物がわが家にもおいてあり、『ものみの塔』という冊子もありました。

私は活字が好きだったので冊子を手に取り読んでみましたが、
この『ものみの塔』という冊子の内容が、何をいいたいのかさっぱり理解できません。

そのうち15歳ころ、母に自分の代わりに聖書の勉強に行ってくれと頼まれ、信仰者の家庭に分厚い聖書を携えて、通うことになりました。
聖書を教えてくれたその方はとてもきれいな女性だったのですが、家にあるものがひどく質素でひとめで貧しい家庭なんだなあ、と子供心に感じました。

その人が私に教えてくれた言葉が今でも心に残っています。
「私たちはエホバの与えられたもので満足しなければなりません。この世界はいつか滅んでしまうのですから」

何をいっているんだろう、そんな信仰をしていたら、勇気も希望もわかないし、厭世的になるだけじゃないか。と私の心の中で猛反発が起こりました。
父親の血が濃いのでしょうか、私は反抗心だけは人一倍強いのです。

父は日曜日になると共産党の新聞『赤旗日曜版』(現在は新聞アカハタ)を配達するのが日課でした。普段は出勤ぎりぎりまで寝ている父親が、日曜日になると朝五時半には起床していそいそと新聞配達に行く姿が不思議でした。

しかし、私は父が好きでした。父が眉間にしわを寄せながら『理想の世界』を語るのを見て、子ども心に格好いいなあと思ったものです。
現在も何かに一生懸命になる人が好きなのは、思想・信条はともかく父親の理想に燃える情熱(エモさ)を目の当たりにして育ったからかもしれません。

私が大学に行きたいと思ったのは実は、学生運動の活動家にあこがれていたからです。今となってはおかしなことですが、それだけ私の中の父親という存在は正義のヒーローのようなものだったのです。

さて、心理学や教育学などに詳しい方がこれまでの経緯を読まれていたなら
すでにお気づきになるかもしれません。
このような相反する思想、信条、信仰が混淆した家庭環境で繊細な神経を持つ子供がどのように育つか?想像してみてください。

『気が狂います』

実は私は普通という概念がさっぱりわからないのです。
今思えばすでに思春期の頃から双極Ⅱ型だったのではないかと思います。
真面目でがり勉タイプの優等生だったので、それなりに勉強はしましたし、
一応、福島県の進学校と言われる学校を卒業しています。(偏差値67くらい)

しかし、躁の時期と鬱の時期では勉強に対するモチベーションが全く正反対になって現れます。夏は成績が上がるのですが、冬はもう別人のようになって記憶力が著しく低下します。教師はなまじ私が出来るときは出来る、と知っているので、鬱状態になった時は、怠けていると叱咤します。

鬱のときは人と会うことさえできなくなります。クラスの友人と会話することもできず、学校に行っても一日中机に突っ伏したまま何もする気が起きません。

他の生徒は出来るのに、何故わたしはできないんだろう。自己肯定感のひくさ、甘えているといわれるつらさ、勉強してもしても覚えることが出来ない惨めさ。

私はあるとき、川原でアセトアミノフェンを百錠飲んで自殺しようとしました。
高校二年の冬でした。

学校に行くのも、家に帰ってくる道も、まるで地球上の重力が一遍にのしかかってくるかのように体が重く、自分の体が自分のモノのようではない感じが常にしていました。

通学路の道すがら、精神病院があり今すぐ精神科を受診しないと自分はダメかもしれない。常々そう思っていました。
死にたいという気持ちで毎日登校していました。世界は灰色に見えました。

過食症と、拒食症にも悩まされました。過食の時は156センチで体重65キロもありました。食べ吐きをして53キロまで痩せました。その後は食べるのが怖くなり、一切何も口にしないで、学校で意識を失って倒れたこともあります。

どうしてわたしはみんなのように明るく楽しく暮らせないのだろう。
大学受験をしましたが、冬季鬱の時期の受験はきつかったです。
当然ながら見事に落ちました。
家庭が裕福ではなかったので予備校に行く余裕はありませんでした。

私は地元の会社に三か月努めてから、そこをやめ、手荷物ひとつで上京しました。高校のころの同窓生が住む高田の馬場の四畳半のアパートに転がり込み、その後、実家に10万だけ支援してもらって、中野区沼袋の学生アパート
(アパートと言っても下宿みたいなところ)に引っ越ししました。

たかみ壮という名前のアパートでした。
今もあるなら一度見に行ってみたいです。

沼袋に引っ越しして少したってから私は、新宿の職安を一人で訪ね、職を得ました。商品取引の会社に入社してOLをしながら夜はジャーナリストの専門学校に通っていました。ここで少々ですが、書くことを学んだわけです。

本当は大学に行きたかったのですが、お金を稼いでそれを貯金してという発想がその当時の自分にはありませんでした。
転職はアルバイトも含め、数えきれないほどしました。昼と夜のダブルワークもしました。

町金融で働いていた二十歳ころ、何もかもがうまくいかなくなっていました。ジャーナリストの専門学校もお金が底をつきて退学してしまいました。

勉強したいと思いながら、大学にも行けず、通信制大学で学ぼうと思ってもその意欲もわかず、なぜ自分だけがいつも暗い気持ちで生きなきゃいけないのか、と悩みが深くなっていました。

そんなある日、会社の同僚に創価学会に誘われて入信したのです。
創価の人は優しく世間の人が言うほど悪い世界ではない、と私は思いました。

それまで、死にたい死にたい、と思いながら暮らし、何故自分ばかりがこんなつらい気持ちで生きなければばらないのか、訳が分からなかったのです。

そんな時に、「それには理由があるのよ」と意味深に言われたら、
「どんな理由?教えて」という具合になってしまいます。

私は創価に三十年間どっぷりはまりました。選挙も新聞も題目も、言われたことは全部やり切りました。これをしていれば、私は守られる、そう信じていたからです。

けれども、正直なところ、『池田先生』という人を信じなさい、というのには抵抗がありました。最初のころ、選挙ではこっそり『日本共産党』に一票投じていました。

私は創価の仏法の哲学とか教義とか、そういったものに対しては全く抵抗がなかったのですが、政治にたいする抵抗感というのはかなり強かったと思います。

そうこうしているうちに世の中はバブル時代に突入します。
22歳のころ私はマンション仲介業の会社に転職しました。
億ションが飛ぶように売れて、会社の月商は右肩上がり。私の一か月の給料は確か12万ほどだったと思いますが、月末になると大入り袋を渡されて、それにはいつも10万入っていました。

万札でタクシーを停める時代、と言ったら今の人はびっくりするでしょう。
飲み会の時は上司が一万円をくれて、「これでタクシーを拾って帰りなさい」というのです。お昼時、女子社員はいつも常務に中華屋さんに連れて行ってもらい、昼からランチビールを飲んでいました。

「この会社、気が狂ってる!」とずーっと思っていました。

お金が湯水のように入ってきて、湯水のように消え去っていきました。
今までのお金に困っている私ではなくなったので、これが創価の信心の功徳というものだと思い込んでいました。いや、思いこまされていました。

24歳。1985年8月12日、日航機墜落事故の日、父が直腸がんで手術をしました。私は福島の郡山が地元なので急遽仕事を休んで実家に帰りました。
手術の途中、自衛隊が生存者の一人、川上慶子さんをヘリコプターで釣り上げる場面を待合室で見ていました。それを見て、父は助かるとずっと思っていました。

手術は無事終わりましたが、父は人工肛門となってしまいました。
今では身障者用トイレにオスメイト用の洗浄場所があり、利便性が高いですが1985年当時はそのような施設はありません。

人工肛門自体もクオリティが高かったわけではありません。
露出した腸に直接プラスチックのパックをつけるのです。
便の刺激が傷口に染みて父も辛そうでしたし、母に至っては「ウンチの世話をするためにこの人と結婚したわけじゃない」と
私に愚痴ばかりこぼしていました。

わたしは父の癌をきっかけにその年で東京の部屋をたたみ、地元の郡山に戻ってきました。

創価だったので、父の病気を治してあげたくて、必死にお題目を上げました。泣きながら題目を上げてもどういうわけか、父は死ぬしかないのだ、というネガティブな思考しか湧いてきません。大好きな父だったので、
「私が代わりになってもいいから父を助けてください」と祈っていましたが、結果は覆ることはありませんでした。

五年生存すれば寛解といわれている癌ですが、父は三年で帰らぬ人となりました。父のお葬式が終わった時、父が私の寝ている部屋に現れて、お別れを言いに来ました。

幽霊というのでもなく、本当にリアルなしっかりした形を持っていて、ちゃんと握手をして別れました。
「行かなきゃならない」握手のあと、父はそう言ってまどからすうっといなくなりました。あれは父の残存思念というものだったのかもしれません。

父の死後、母は呆けたようになって妹と二人で眠ってばかりいました。
そしてわたしには、「お金がない、お金がない、どうしたらいいだろう、助けて」というのです。

わたしは郡山に帰った時も不動産の会社で働いていました。
宅建もなんどか受けましたが、頭が悪すぎるんですね、何度受けても失敗ばかりでした。

そのころ、ある不動産のブローカーの人が、私が事務員をしていた会社に
たびたび訪れるようになりました。四国の香川出身の方でした。

そのひとが、秘書を探しているというのです。
私は特に気が利くわけでもないですし、秘書なんてとてもとても、と思っていましたが何故か務めていた会社の社長が、私をそのブローカーの人に推薦するのです。

何か裏があるのかなあ、と思いましたが、やっぱり裏がありました。
秘書、という名前の「愛人」というわけです
「いい加減にしてほしいなあ」と思いつつ、お金になるなら目をつぶって
『秘書』なる物をしてみるか、と思いました。

そのブローカーの人の仕事は、会津と栃木の県境の土地を買い占めて、第三セクターも絡む温泉とスキーのリゾート地を作るという、一大プロジェクトでした。私も用地買収の交渉に同席したりしました。買取の資金源はあるパチンコ店の社長からでした。

「経費で落とすから何でも好きなものを買いなさい」とブローカーの社長から言われました。百万円入る財布を買い求め、常に札束を常備していました。「パチンコ屋ってすごいんだなあ」
そのとき、私ははじめて在日朝鮮人の経済力の強さを目の当たりにしたのです。

仕事場では、新たに他の女の子が何人か事務員として雇われて、なんとか私は人身御供を回避しました。悪運だけは強いのです。この時から私は、『逃げは最強の戦略』という自分なりの哲学を身に着けていったような気がします。

とりあえず、母親には三か月間、毎月三十万渡して、当座をしのいでもらいました。あとになってその話をする機会があったのですが、「あら、そうだっけ?全然覚えていない」と言われて意気消沈した覚えがあります。
母のように、自分に都合のイイ生き方が出来たらどんなに楽だろう。
私はいつもそう思っていました。

お金のためにしていた秘書をやめることが出来たので、また私は同じような業種に就きました。中小企業の建設会社でした。その建設会社に勤めていたころ、元夫に出会いました。

元夫は高校教諭でした。私がよくいっていた喫茶店の常連でした。初めは私の方が先に通い詰めていたのですが、そのうちその店のママから、「最近、高校の美術の先生をしているっていう人がうちに来るんだけど、ちょっと変わった人なのよね」という話を聞きました。

「え、どんな感じに変わっているの?」「それがね、ほらうちはアンティークの商品もおいてあるでしょ?『時計を見せてください』っていって時計ばかり見ていくの」「時計が好きなの?」「そうみたいね」

まだ父が亡くなって一周忌も過ぎないうちでした。それなのに、母はまた私に無理難題を押し付けるのです。

「うちには男がいないから世間から馬鹿にされる。あんたは結婚して男を家に入れなさい」

その言葉とともに、母親のお見合い攻撃が始まりました。郵便局の局員、中小企業の工場長、得体のしれない人物ばかりあてがわれて、私はやけになっていました。

今では考えられないですが、私は常々母親に「お前は長女なんだからお前が私の老後を見るんだよ」と洗脳され続けていたのです。

母親のいうことは私にとっては絶対でした。なぜならわたしが母親に反抗すれば、母親は私に罪悪感を感じるような言葉を投げかけてくるからです。

「あたしはばあちゃんのいうことは何でも聞いた。お前は親不孝だね。老後、子どもに面倒を見てもらえないなら何のために子どもを産んで、何のために苦労して育てたかわからない」

この言葉は私にとっては非常に苦しい言葉でした。私はまさに母親に洗脳されていたのです。私は、私が何のために生きているのか、私の欲しいものはなんなのか、私はどのような状態であれば幸せなのか、まるで分らないのです。

まるで分らない状態であればこそ、何かがわかるのかもしれない、という望みを抱いて創価の信心をしていたのかもしれません。

また、創価の信心は『人のため』に尽くすことを良しとします。自己犠牲をいとわず、法のため、同志のため、池田先生のために尽くす。尽くすという

在り方が人間として尊い、ということを骨身に染みるまで繰り返し教わりました。その信仰の在り方と、母親の洗脳のはざまで随分苦しみました。

今思えば、なんのことはない、「それはできません」「それは無理です」と断れば済むことだったのです。私は多重にわたる洗脳を受けて、自分というものがまるでなくなってしまいました。

抜け殻になった私の前に、母親の大好物の公務員という肩書を持った男の人が現れました。しかもその人は『先生』という職業なのです。

こういう職業の人と結婚出来たらお母さん喜ぶだろうなあ。わたしは彼が大好きというわけではなかったのです。

母親と一緒に居るのは耐えがたかったので、出会って二か月くらいで私は元夫のアパートに転がり込んで同棲を始めました。27歳の秋でした。ちょうど

テレビドラマで『東京ラブストーリー』が流行っていたころです。二人でドラマを見ながらハヤシライスを食べていたのを思い出します。

父の喪が明けた翌年の11月私は結婚しました。

結納の時に今は亡き姑に言われた一言がいまだに忘れられません。「詩月さんは××と結婚しても幸せにはなれませんよ」まるで眠り姫の魔女の呪いの文言のようでした。

言霊というのは恐ろしいものです。姑のいうとおり、私の結婚生活はほとんどがDVで埋められていましたから。

子どもが二人できましたが、DVの合間に子育てをしたような気さえします。しかし、私は子供の無邪気さにとても救われていました。夫のDVの内容は

①経済的封鎖、給料を出さないし働きに出られないようにすること。

➁言葉の暴力、「誰が食わせていると思っているんだ」というあれです。

③肉体的暴力、かッとなるとすぐ殴るけるを行う。

④性的暴力、断っても自分のモノという扱い。

⑤親族から遠ざける、私の実家とも、夫の実家とも離れた田舎に家を建てる。

⑥近所の人から遠ざける

とにかく孤立させて、孤独感を強め、洗脳していくというやり方です。

これはおかしいと早い段階で気づいていました。そのころアメリカでドメスティックバイオレンスという概念があるということを翻訳本で知りました。

加害者男性をバター、被害者女性をバタードウーマンと呼ぶということを、すでに2000年初頭から知っていました。

夫から暴力を振るわれて脳外科に行ったときに女医にその話題を振ると「なに、それ、わかんない」と言われました。医者なのに知らないんだ、と。

こうなったら自分で調べようと徹底的に自分の病気と、DVのことについて調べました。DVは犯罪ですというステッカーがスーパーの女性トイレに張ってあるのを見て腹が立ちました。「そんなのわかってるよ、あんたが助けてくれるの」ステッカーにむけて吐き捨てました。

警察と保健所の保健福祉、女性児童課と、心療内科と、子どもの学校カウンセラーと、とにかく考えられるありとあらゆる場所に相談しました。創価学会が支持母体の公明党の地方議員にも相談しました。けれどもだれも助けてくれなかった。

親に言えば「あんたが反抗してるから悪いんじゃないの?××は学校の先生なんだからそんなことするわけない。あんたが創価学会やってるから悪い」と言われ、

創価の同志には「愚痴と文句は福運を消すよ、しっかり活動して福運つけなきゃだめよ」といわれ、挙句「過去世の謗法が悪いからしっかりご本尊にあやまりなさい」といわれ、

「やめてくれ、過去世なんて知るか。あんたたちはどうしてそんなに鈍いんだ」と私が切れたこともあります。

自分で自分を救うんだ、誰も助けてくれない。その思いの中、平成13年4月13日、DVにかかわる通報、相談、保護、自立支援等の体制が整備され、平成26年DV防止法が法改正されたときは「これで自由になれる」と真面目に喜んだものです。

とにかく、私は法が整備されるのを待っていたのです。

その間、劇症鬱を発症、一年に一回は腸閉塞の発症、睡眠薬の多量摂取による自殺未遂、などいろいろなことがありました。

子どもを二人も成人させられたのが奇跡のようでした。

その渦中の中、私を支え続けてくれたのが『書く』ということでした。夫とはできるだけ没交渉でいようと思い、夫が自分の趣味でバイクをいじったり、ビデオやテレビに夢中になっているすきを狙って、私は小説を書いていました。書くうちに、だんだん慣れてきて、百枚くらいの小説は軽く書けるようになっていました。

文芸社に原稿を持ち込むと、うちで出しませんか?とのお誘いもうけましたが、自費出版は経済能力がないため見送るしかできません。やっぱり駄目なのかなあ、という自己否定に襲われてしまいます。

しかし、書いている間は、現実を忘れ、自分が書いた物語の中で好きなように好きな人生を生きることが出来る。なにより、没頭することが一番幸せな時間だ、ということを知ってしまったわけです。

原稿を書くのと、DVについて調べること、心理学を学ぶことがいつしか自分の生きがいとなっていきました。

カウンセラーの資格を取ろう。と思ったのもこの時期です。学術としての心理学のエビデンスにはとぼしいけれど、私にはもって生まれた『共感能力』という強みがある。なぜか簡単にカウンセラーになれる、と思ってしまいました。

離婚したのは2015年9月のことです。その年の正月にとうとう事件になり、夫が逮捕されました。まだ高校生の子がいたので、夫の事件は不起訴としましたが、私はその代わりに、措置入院させてくれるように地検の検察官に頼みました。

その結果、わかりました。夫も双極性障害だったのです。ただ、夫の場合は双極Ⅰ型で、躁状態の変化が激しく、瞬間湯沸かし器のような状態を見せるのです。今思うと夫を起訴しないで良かったと思います。

なぜかその時、わたしは夫を許さなければならない、という気持ちになっていたからです。

離婚に当たって弁護士もお願いしましたが、「慰謝料、三百万はとれますよ」と、言われたものの結局「ないものは出せません」の夫の一言で何も保証はされず、年金分割をしただけでした。

それから、五年の月日が流れました。離婚後の生活については小説という形で書き連ねていこうと思います。離婚後の五年間、自分はよく頑張ってきたと思います。

家無し、仕事なし、つてなし、今すぐ生活保護、でも家がないからダメ。という生活でした。男の人だったら路上生活だったと思います。私の小説はそういった、社会の底辺にいる人々の叫びなのです。

いま、もしも、DVに遭っている、親に虐待されている、シングルマザーで子どもを殺しそうです、引きこもりで辛い、孤独死しそうです。アルコール依存です。病気で働けません、路上生活です。待機所にいます。自殺したいです。

そんな人たちがいたら、私にツイートしてください。あなたが少しでも楽になれるなら、私で良ければ寄り添います。離婚後、私は傾聴心理士というカウンセラーの民間資格を取りました。

誰かのためじゃ、ありません。自分の心の声を聴くために、です。仕事をしていた間は、本当にいろんな方々の心の声を聴かせていただきました。

その答えがいまこうして、恐れも不安も何一つなく自分の一番したかった『書く』という作業につながっているのだと思います。

わたしはまだまだ未熟ものです。書くことも決してうまくはありません。けれども、私の作品をよんでくださった、あなたに対する感謝と愛は人一倍強いです。

これから死ぬまでの間にどれくらいの作品が書けるかわかりません。しかし、私は書くことを恐れない。書くことは恥をさらすこと、自分のありのままをさらしながら表現することだからです。

表題は、私の好きな曲、『僕が死のうと思ったのは』の歌詞の一節を拝借しました。どうか、一番つらいところにいるあなた、私と一緒に死ぬまで生きましょう。

ちなみに、創価学会の組織の方はめでたく卒業とさせていただきました。お世話になった方々に御礼申し上げます。

魔女・アマントこと筒井詩月は、書くことが好きです。そして私の書いた出来損ないの子どもたちを読んでくれてありがとう。

みんな、愛しています。アマントは社会の底辺で今日も愛を叫んでいます。









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