見出し画像

高山宏×中沢新一『インヴェンション』

デフォーを中心とした、17,18世紀の英文学を専門としながらも、文化、美術など幅広い領域を横断し、時に「学魔」とも呼ばれる高山宏さんと、彼に負けず劣らず幅広いジャンルを駆け抜けていく知性の持ち主、中沢新一さんの対談です。

対談としては最初の顔合わせとなった「<自然>新論」の章こそ、やや高山さんが様子を見るというか、自分の中の中沢新一像を確認しているような雰囲気がありますが、中沢さんがマニエリスムも好きとわかって「なんだ、中沢くん、僕のお友達じゃないですか(笑)」となってからは、実にのびやかな会話が繰り広げられていきます。自分が持ち出した物事や概念にいちいち注釈をしなくてもスッと話が通じるという互いへの信頼と安心感が、この会話を「講釈」や「激論」から遠ざけ、高山さんの言葉を借りていうならば「カンヴァセーション」として成立させているのです。

なので読者としても次々に飛び出す固有名詞に怯むことなく、2人の楽しげな様子を楽しみ、自身の分かる範囲でこの会話を味わうのが吉でしょう。

私が面白く感じたところをいくつかあげましょう。
まず、読書の快楽について。中沢さんが「読書は快楽で、音楽が聞こえない本って続かない。」と述べ、具体例としてマラルメ、プルーストを挙げ、そしてレヴィ=ストロースについて「ちょっと過激でとてもいい音楽だね」と投げかけると、すかさず高山さんが「フーコーだってそうだよ。『言葉と物』は完璧にそうだ。さっきラップの話が出たけど、フランス語のラップでフーコーをやるとけっこう面白いと思うよ」と返し、それを受けて中沢さんが「思考っていうものは音楽で、常に持続しているものがなければ、思考とはいわない。言葉の選び方とか、つなぎ方が、思考を断ち切ったりするようではいけないわけです」と締めるやりとり。

次に『ハリー・ポッター』について高山さんが語るところ。高山さんの専門分野の知識が存分に発揮されています。
高山 日本であんなに人気があるのにちゃんとした批評が出ないのは、イングランド対スコットランドの本当の問題が理解されていないせいだよね。だいたい「ポッター」って壺つくりのことだよ。人間を土からこねて作るという、要するにゴーレム思想みたいなものだね。一方で「ハリー」って悪魔のことだからね。特に「オールド・ハリー」といったらサタンのことだ。だから、「ハリー・ポッター」って聞いただけで、とんでもないストーリーだってころがわかるはずなんだ。ロマン派本流です。アースダイヴしている(※中沢さんの著作「アースダイバー」にかけていますね)。現に、ほとんどの話は地下で進むわけでしょ。

もうひとつ。高山さんが得意のアナロジーで文学と科学を結びつけたくだりです。
高山 『グレート・ギャツビー』なんて、よく読んでみると、テーブルの上に並んだ料理の話ばっかりだ。それで本人が熱力学に興味があったなっちゃうとさ、どういう読み方をすればいいのか、ってことになる。(中略)たぶんピンチョンよりフィッツジェラルドの方が実は熱力学に近い。最近発見したんだけどね。
中沢 それは面白いな。

こうして面白いところをあげていけばきりがありませんが、こうしたジャンルを横断していく知性の先達として2人に大きな影響を与えたのが文化人類学の山口昌男tです。山口の死後、雑誌「ユリイカ」で組まれた山口昌男特集が初出の対談「軽業としての学問」には、2人の目からみた山口の学問的、人間的魅力がふんだんに語られています。対談の締めくくりの2人の言葉がまた味わい深い。
中沢 あんな豊饒な日本人はかつてなかったし、これからもないでしょう。
高山 (中略)彼の存在は天啓、天の恵みですよ。戦争や世界、知識人との関係からいってもちょっとしたエアポケットに幼な神が入ってしまった奇跡的な40年だよ。本当に珍らかな人というか、珍らかな風景を見せてもらったなあ。いいアートを堪能できたって感じだよ。

現在の日本に、こうした「豊饒な日本人」はどれだけいるのでしょうか。複雑な感慨を覚えずにはいられません。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?