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いま悲しんでいる人は、いま悲しんでいる人を癒してあげてください。

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やりたいことが見つからないとか、将来に希望が持てないと言って悩む人がいるけど、それはむしろ幸せなことだとわたしは思う。

本当に満ち足りていれば、あとは食う・寝る・遊ぶくらいしかやることなんてないわけで、幸せそうに見える人ほど、今よりレベルの高い“食う・寝る・遊ぶ”を追求する方にエネルギーを注いでたりするのも事実。

わたしも気になる車の試乗目的でカーシェアリングを利用したり、シモンズのベッドの寝心地を試したいがために桜木町駅前にオープンしたホテルに3連泊したりと結構気ままな生活を送っている。食べたいものがあれば、明日死んでもいいようにすぐに食べるようにもしている。

たとえ自分の意思で生きる遠回りをしたとしても、人はある段階を経ると「いま」と「幸せ」という言葉が限りなく近い意味を持っていることに気づくのかもしれない。

けれども、「いま」を感じることほど難しいことはない。それは、人間は「理想」を持つことが可能だからだとわたしは思う。理想を持つことで、他人やモノを自分基準で判断し、「いま」という時間の選択を先延ばしにしてしまう。理想を持たない生活こそが、実は最高の贅沢なのかもしれない。

食う寝る遊ぶを追求するのは平和ボケだと思われるかもしれない。しかし、平和だからこそ平和ボケができるわけで、実際、80年代末のバブル全盛期に糸井重里氏が作った「くうねるあそぶ」というコピーフレーズが話題になったことがある。

日本人はどの国よりも、平和という「理想」をすでに手に入れたという事実を忘れてしまっている。それが本当の平和ボケである。

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理想は時として自分を守る盾となる。けれども、「いま」という濃密な“間(ま)”の積み重ねがなければ、人生は限りなくノンフィクションに近いフィクションになってしまう。その、理想という言葉の入る余地がない濃密な間の連続こそが、我々が求める理想ではないだろうか。

理想を持たなくても、人は腑抜けになることはない。あなたの背中は、あなたが見えている人だけが押すとは限らない。むしろ、目に見えない力によって我々は生かされている。

今年は自粛するつもりだが、ここ数年わたしはある目的のために沖縄に行くことにしている。リゾートエリアとかには全く興味はなく、戦争関連の施設や琉球王朝時代から大切にされてきた聖地を巡礼するためである。

76年前の今日、沖縄を出航した学童疎開船「対馬丸」は長崎に向かう途中にアメリカ軍の潜水艦に撃沈され、1484人が犠牲になった。那覇の中心部から10分ほど歩き、寂れたホテル街のすぐ近くに「対馬丸記念館」と犠牲者を祀る慰霊碑がある。

小舟や丸太にしがみつきながら、暗い海の中を漂い生還した人たちの証言も残されていて、わたしが特に心を痛めたのは、皆一様に自分が生き残ったことに対する後ろめたさを語っていることである。

いまが平和だと感じたならば、戦争を体験していない我々の世代も、“生存者”なのだ。生きたくて生き残ったのに、喜ぶことを許されずに生きてきた人たちの悲しみ。必ずしも、生きることは喜びであるとは言えない現実。その事実を突きつけられたとき、現実の対極にあるものが「理想」だなんて誰が言えるのだろうか。

人は言語と文字を発明した代償に、たくさんの悩みを抱えて生きる動物になった。悩みは言語化でき、文字でも表せる。だから、恋の悩みは「好きだよ」と言われれば容易く消え、お金の悩みは預金通帳に数字が印字されることで軽減される。

しかし、心が発する言葉よりも涙が先に溢れるような悲しみを癒せるもの、それは悲しみ以外に存在しない。そして、悲しみの波動は時空を超える。もし、あなたが誰かの悲しみを感じたならば、その悲しみはあなたを選んだのである。

悲しみを悲しみで癒やす。この発見は、人間が神様に対してできた唯一の恩返しなのかもしれない。わたしはそう思う。あなたはどうだろうか?

Live your life !

※写真は横浜市内で撮ったもの。

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