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「平和」があふれる街に、足りないモノ

昨日、知人から連絡が来た。「イスラエルに対し、目下のガザ攻撃の即時停止はもちろんのこと、ガザ封鎖を解除しパレスチナ占領を終わらせるよう求めます。1948年のイスラエル建国以降73年目となるパレスチナ人の苦難に思いをはせ、73分間のスタンディングを行います」とのこと。

今朝、イスラエルとハマスが停戦に入ったというニュースが飛び込んだ。

ニュースを見ているとき、6歳の息子が、ガザ地区の映像を見て、「どしたん?せんそうがはじまったん?」というので、ざっくり今の状況をかみ砕いて説明していた。あなたたちと同じような子どもたちも大変な目に遭っていると。

夕方、子どもを迎えにいったあと、スタンディングが行われる原爆ドーム前にいった。マスク姿の人たち30人ほどが、アラビア語や英語で書かれたプラカードを手に、ドームを背に静かに立っていた。こどもたちはきゃっきゃいいながらその辺を走り回っていたが、「ここにいるひとたちは、ひろしまからとおくのひとたちに、しんぱいしてるよ、ってつたえたくてたっているんだよ」とは伝えた。

緊急事態宣言下の広島は人通りも少なく、ドーム前も人はまばら。今日のスタンディングは、おそらく3社くらいが取材に来ていたが、それはそれは静かな時間だった。



広島って、平和、平和って言うけれど、他の国や他の街で起きている、平和をむしばむできごとにはちょっと冷たくないかーー。何となく最近そう思っている。一部の心ある人たちは、こうして集まって、黙々と連帯のメッセージを送っているけれど。

そんな思いが募るのには訳がある。広島市議会の政策立案検討会議が、議会提案に向けて議論をしている、「広島市平和の推進に関する条例(広島市平和推進条例)《仮称》」だ。

「世界恒久平和の実現を願うヒロシマの心の共有」「平和への思いを後世に伝えるため」。前文には、そんな表現がちりばめられている。続く第2条は、平和をこう定義している。「この条例において『平和』とは、世界中の核兵器が廃絶され、かつ、戦争その他の武力紛争がない状態をいう」

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この定義に、地元の多くの平和団体の関係者たちが異議を唱えた。「平和が原爆の有無で判断されかねない」「世界の人々が平和を求めて広島を訪問するのだから、それに応えることのできる、世界中の言葉に翻訳して通用するような崇高な定義であってほしい」「最低でも人権や正義が貫かれない平和というのは空疎」ーー。市議会が募集した市民意見でも、40件近くの異論が寄せられた。

市民意見は、全体で約1千項目が寄せられた。市議会事務局の想像を大幅に上回る反応で、広島市当局が募集したあらゆる市民意見募集よりも数が多かったという。

こうした中、広島市議会の政策立案検討会議は、会合を開いて、定義について寄せられた市民意見をベースに再度議論をした。素案の条文に修正を加える案も一部議員からでたが、意見が全員一致した場合のみ、修正に臨むという基本方針のため、結果的には素案通りの表現になることになった。

この条例に関しては、今年1月発効した核兵器禁止条約についての言及がない点などについても、失望の声が上がっている。

平和、平和というけれど、やっぱり平和のとらえ方があまりに狭すぎないだろうか。世界中で起きているできごとに目を向け、平和を願う世界中の人々の動きをしなやかに採り入れることで、より世界の多くの人たちと手をつなぐことができるのに。

ちょっと前(コロナの前)、幼なじみが、米国人のご一行をつれて広島を訪れて被爆証言を聞いた後、私に伝えてきた感想が忘れられない。「被爆者の方が一方的にしゃべってるだけで退屈だった」。もっと双方向の対話を期待していたというのだ。

でも、今回の市議会の議論をみていても、思った。全会一致でないと意見を採り入れないというが、合意点や着地点を見いだすための議論は深められていない。というか、まっとうな対話がない。

先日、ある研究者を訪ねた際、この議論になった。相手は、私が昨年の秋に書いたコラムがよかったとほめてくださった。

「平和っていいね!」って、うなずきあっているだけでいいのだろうか。
そうではなく、平和を阻害するものにちゃんと向き合い、それに対して堂々と声を上げることこそが必要なのではないだろうか。人種差別、人権侵害、不平等、不正義、多様性への不寛容。そうした社会の現実に目を向け、自分の頭で考えて自分の言葉にすること。そして違いを乗り越えて議論すること。それこそが「平和教育」なのではないか。国際平和文化都市・広島で「平和」が、単なるかけ声になってはいけないーー。そんなことを書いていた。

平和、平和というけれど、広島から発信する平和ってなんなんだろう。「平和」をもうちょっと因数分解することが、必要なんじゃないか。今日の参加者の方も言っていた。無関心が一番よくない、と。少なくとも、広島から視点を広げて、世界各地で起きている、「平和」をむしばむ出来事に、無関心でいてはいけないのではないかーー。プラカードに書かれた読めないアラビア語と、マスク姿の市民のみなさんの真剣なまなざしを見て、そう思った。

平和を掲げる街に暮らす以上、私自身も、いまこの瞬間に起きている各地のさまざまなことをもっとちゃんと見つめなければと切に思う。

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