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パフォーマーは、なぜ同じタイミングで消えていけるか

こちらは「たびするつゆのふね プロセス便[2022]」のディレクターズノートです。創作プロセスにまつわることを、この作品の創作視点から描きました

2022年のクリエイションを振り返って

今年、原泉での4年目の滞在制作を終えこれを書いています。風景を舞台としたランドスケープ・シアター(風景演劇)をこの3年間、全国様々な場所で制作していますが、場所が変わるとひとつとして同じものはできません。
しかしその中にも、少しずつ共通点や創作期間に何度も何度も触れているキーワードが浮かび上がるにつれ、この作品の魅力のようなものを私達自身がつかめてきたように感じています。よりこの作品群を進化させていくためには、足跡をつけていくようにその都度振り返り、足跡のより濃いところを言葉にしていくしかありません。それこそが、近年の私達のアーカイブの取り組みに見られる、記録を作品化する試みなのかもしれません。

今年上演した『風景によせて2022 たびするつゆのふね』における、パフォーマーの動きへの指定は、いつの間にか出てきていて、ゆっくり歩いて、いつの間にかみんな消えてしまう、ほぼこれだけです。4人の人(パフォーマー)が風景のあちらこちらから、別々のタイミングで出発して30分移動し続け(あまりにゆっくりと歩くので、歩くというよりもすべるように場所を移動しているように見えます)、指定された位置にほぼ同時に全員が到着し、風景から消えるようになっています。
広大な舞台においてパフォーマー同士は遠く離れているのでほとんどお互いが見えず、掛け声や合図も一切使えません。こちらから指示をしているのでも、リズムに合わせて歩いているのでもありません。よく訊かれるのですが、客席に流れている音楽もパフォーマーには一切聴こえていないのです。それでも30分後にほぼ誤差なく、指定された位置に到着します。

パフォーマーの感覚を信じる

「なぜ同じタイミングで消えていけるか?」その答えは、ランドスケープ・シアターにおいては、外から与えられる基準で演じるのではなく、パフォーマ一人一人と、4人の共同体の内に演技の基準を求めることで実現できるから、と私は考えます。
つまり、パフォーマーにとっては自分と共演者の身体・時間感覚を、そして演出としては、パフォーマーの感覚をただひとえに信じた(他のものに頼らないと決めた)からだったのです。しかしながら、すぐこの答えにたどり着いたわけではありません。シンプルなアウトプットの中にも、実は様々な創作の軌跡が含まれています。

今回アプローチした方法は、以下の3つです。
①最初から最後までを通して何度も繰り返し演じることで、共通の時間感覚を生み出す
②自分の身体のニュートラルな(日々のコンディションの変化に左右されない身体の)状態をつくりだせるメソッドトレーニングの開発をする
③稽古前に上演会場の散歩の時間をつくる=自分と共演者の導線を歩く

まず、確実に再現できる物理的・客観的な方法として、メトロノームのテンポに合わせて歩いてみました。小学校の算数で習った「は・じ・き」を思い出しながら、移動距離と時間から速さを割り出し、各パフォーマーの歩くbpm(一分間にカウントする拍数)を決め、その音を聞きながら歩いてもらいました。
しかしどういうわけか、30分を目指した上演時間が何度やっても50〜60分と、倍近くに延びてしまいました。何度やっても計算とあわないのです。しかも、テンポ主導で歩くということで、目指す表現とは遠いものになっていました。機械的というか、時間に操られているように感じたのです。

私達が目指しているのはただ歩くことではなく、風景の中に根付いたものやさまよっているもの、そしてまだ無いものすら内包して、あちらこちらに点在することです。目の前の本当にゆっくりと変化していく風景を入り口に、一瞬が永遠に、永遠が一瞬に感じられるような、そんな時間をもたらすことのできる表現です。それこそが、この作品にパフォーマーが欠かせない理由だと私は考えます。パフォーマー達の言葉を借りれば、歩くことそれ自体が表現になるには……。果たして、全員一緒のタイミングで到着すること(構成上の目標)と、表現(演技)としての移動がどう折り合うのか。その答えが見つかるまでには、長い時間と試行錯誤が必要だったのです。

また、台詞を用いる演劇の場合、通し稽古は本番の直前にありその前にシーンごとの稽古を重ねる場合が多いですが、今回は滞在制作の強みを活かし、演目をフルで通すことを2週間、毎日のように繰り返しました。
クリエイション以外の時間も、何度もそこに足を運んで、その場所で長い時間を過ごしました。その中でパフォーマーの身体が、そこで起きることを客観的に感じるのではなく、自分自身もその中の一部であり、まわりの風景と自分たちが常に関係しあい、影響し合って、まさしく場所に馴染んでいくような感覚を得ていっているように、私には感じられました。それが一体どんなものか誰かに伝えたくて、また他の人に見えるものはどんなものか知りたくて、イメージのスケッチをはじめて、多くのクリエイションメンバーとああだこうだと言いながら、長い時間をかけ、ようやくそれはやって来て、ひとつの作品になっていったのです。

理想郷を目指す旅

自分で言うのもなんですが、このようなプロセスがなぜできたのか、当時の私はとても不思議でした。はっきりとわからないができていた、というのが正直なところだったのです。考えれば考えるほど、ランドスケープ・シアターで私達が目指すものは、まるで理想郷を探すように遠く果てしない旅のどこかにあるのかもしれません。
「それが美しい」または「それが良い」と思う最終の形態が、きっとどこかにあるだろうということです。しかしそれは、ある日突然やってきたり、ひとりでに浮かんでくることはおそらくないのでしょう。まだまだ先かもしれないので、気長に待ちます。いや、待っているだけではもったいないので、自らそこへ歩み出しましょう。そこにある日常と、風景の中に現れたり消えたりするパフォーマーから立ち上がるイマジネーションが、きっと私をそこまで連れていってくれます。その時、目の前には無数の色彩が見えます。かすかに音楽も聴こえてきます。動作が、想像力が、記憶が、その場所を飛び出して様々な情景を描き出します。それは私にしかない心象風景のことです。いつかたどり着けるように、これからも試行錯誤を続けていきます。また、こうして旅の記録を書き留めることも忘れずに。

私自身は今回も素直な観客として、長くて短い一部始終を、まだかまだかと待ちわびたり、その成長の速さに驚いたり、まるで子育ての過程を見るように見届けていたように思います。

構成・演出 中谷和代

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