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漱石の多様性と『こころ』——柄谷行人『言葉と悲劇』を読む

漱石という作家は、初期の『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』、また『漾虚集』や『道草』から『明暗』にいたる小説、さらに俳句や漢詩を書いていますね。つまり、多種多様な文体やジャンルに及んでいるのです。こういう作家は日本だけでなく、外国にもいないと思います。この多様性がどうしてありえたのでしょうか。これは大きな謎です。漱石の研究をしている人は、たとえば漱石のテクストをめぐる謎を漱石自身の実生活、なかでも恋愛体験に見出したりしますが、そんなことは「謎」と呼ぶに値しません。この言語的多様性は、たんに多芸であるとか文才があるとかいうことではすませないものです。これはやはり「歴史」的な問題とかかわっています。どんなに文才があっても、漱石のようなことは二度とできないでしょう。

柄谷行人『言葉と悲劇』講談社学術文庫, 1993. p.40.(太字強調は筆者による)

柄谷行人(からたに こうじん, 1941 - )氏は哲学者・文学者・文芸批評家。過去の記事においても紹介しているので合わせて参照してほしい(小林敏明『柄谷行人論』合田正人『吉本隆明と柄谷行人』)。柄谷の関心と射程は哲学、数学、経済学、歴史学など実に幅広いが、その出発点は、夏目漱石研究である。彼のペンネーム「行人」が、漱石の小説『行人』から来ているのも有名な話だ。本書『言葉と悲劇』は1984年から88年にかけてさまざまな場所で行われた講演を集めたもので、そのタイトルだけをみても「バフチンとウィトゲンシュタイン」「ドストエフスキーの幾何学」「日本的「自然」について」「スピノザの「無限」」「ファシズムの問題」「安吾その可能性の中心」など非常に興味深いものが並んでいる。今回は、夏目漱石の謎の一つとされる『こころ』を論じた講演「漱石の多様性―『こころ』をめぐって」より引用した。

柄谷は、漱石の言語的多様性にまず驚く。そしてそれは、漱石が持つ大きな謎である。これは単に文才があるという個人の問題ではなく、「歴史」の問題と関係しているという。そのことを小説『こころ』を例にして解き明かしてく。柄谷は、『こころ』が普通の「小説」として書かれたものではないという。ノースロップ・フライによるとフィクションには4つのジャンルがあり、それは「ロマンス(物語)」「告白」「アナトミー」「小説」である。近代小説というものが成立する以前、この4ジャンルは対等なものとして存在した。しかし、近代小説が成立すると、小説以外の3ジャンルは、小説の一形態として吸収されていった。いわば、歴史の中で覆い隠され、消えていったのである。そして、漱石が多様なジャンルの文章を書いていた時期は、ちょうど日本において近代小説が成立していく時期にあたる。『こころ』は「小説」としてよりは「告白」として書かれた。ただし柄谷は、漱石の多様性の謎を、単に近代小説揺籃期の実験的な文体の揺れとみるのではなく、近代の「歴史」の中で覆い隠され、忘却されていったものとみる。それを柄谷は「遅れ」の問題として定義する。この「遅れ」とは、精神分析的に言うと、自己の欲望は常に他者の欲望であるという『こころ』の「先生」の心理と関連しており、さらには歴史の問題として、『こころ』の中で取り上げられる乃木将軍の殉死問題とも関連づけられる。

『こころ』の「先生」は親友Kと現在の妻との三角関係の中で思い悩み自殺してしまう。先生は親友Kに嘘をついたこと、自分を偽ったことを思い悩んだとされている。しかし、柄谷の分析では、先生は一度も自分を偽ってはいない。なぜなら、精神分析的に考えると、自己の「欲望」とは常に他者を介在するからである。例えるならば、子どもが、他の子が欲しがっているおもちゃがどうしても欲しくなってしまう。しかし他の子が見向きもしなくなったとき自分も欲しくなくなってしまう、というあの心理である。これが「欲望」とは常に「遅れ」を伴うという問題である。

これと同じことが歴史の問題としても起きている、と柄谷はいう。『こころ』の中で、明治天皇崩御に際して乃木将軍も殉死したことが報じられる。このとき「先生」は、「明治の精神」が終わってしまったと感じ、自殺してしまうのである。自分が「時勢遅れ」になってしまったと感じたとある。しかし、この「先生」が殉じた「明治の精神」とは何だったのだろうか。柄谷は、これを「"明治十年代"にありえた多様な可能性」のことだと言う。明治10年に西南戦争とともに、それまでありえた明治の多様な可能性が終わってしまった。そして明治10年代の人びとは、例えば北村透谷がキリスト教に、西田幾多郎が禅に向かったように、内面の絶対性に閉じこもっていく。それは、明治10年代末に明治維新にあった可能性が閉ざされ、他方で、制度的に近代国家の体制が確立されていった過程があったからだ。明治20年代には、その近代化の過程であらゆる可能性が排除されていった、そのようなことを指している。

同様のことを漱石も感じていたはずである。『こころ』を書いていたとき、漱石はおそらく「小説」としてではなく、「告白」として書いていた。もっといえば、「近代小説」として確立されていく文章を書いているのではなくて、それ以前の、多様な可能性を持っている「文」というものとしてそれを書いていた。しかし、それは「歴史」の流れの中で、いつか覆い隠され、忘却されていく。その歴史的な「遅れ」の問題をはらんだのが『こころ』という小説なのである。漱石は、19世紀西洋の近代小説だけが文学なのではない。そこに向かうのが発展なのではない。漱石は近代の「小説」中心主義に、あるいはそれがはらむ抑圧感に抵抗しつづけたのではないか。それが漱石の「明治の精神」への殉死だったのではないか。そのように柄谷は分析している。


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