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対話で得られる自由と責任——梶谷真司さんの『考えるとはどういうことか』を読む

そのようにして選んだこと、決めたことは、結果がどうあれ、責任をとることができる。そうして私たちは、ただ自由だけを求めるのでも、責任だけを甘受するのでもなく、その間で妥協するのでもなく、自由と責任をいっしょに取り戻す。それは他でもない、自分自身の人生を生きることなのだ。
しかもそれは、対話を通して生まれた他者との共同的な関係に根ざしている。だからこそ引き受ける責任は、一人で負わなければならない責めでも、できれば避けたい負担でもない。他者と共に享受する権利となるのだ。

梶谷真司『考えるとはどういうことか:0歳から100歳までの哲学入門』幻冬舎, 2018. p.104.(太字強調は原著では傍点)

梶谷真司さんは1966年生まれの哲学者。京都大学博士(人間・環境学)。現在、東京大学大学院総合文化研究科教授。著書に『シュミッツ現象学の根本問題』(京都大学学術出版会)などがある。「哲学対話」を通して、子どもたちや地域の人びとに考えることを通した哲学を広めている。

本書は、世界的に実践されている「哲学対話」の考え方や手法をわかりやすく解説した一冊である。それとともに、「哲学する」とは本質的どういうことなのか、私たちは考えることを通して何を手に入れることができるのかといった、根本的なことについて考えさせてくれる本である。

梶谷さんは、私たちが日常の中で、いかに考えることを奪われているか、もっと言えば自由に発言する機会さえ奪われてるかという現状を説く。そして哲学というのはそもそも「ムズカシイ」ものではなく、誰にでも、子どもにでも高齢者にでも、高等教育を受けていない人にでもできるものなのだという。なぜなら、哲学あるいは哲学対話の本質とは「考えること」なのであり、もっと言えば「考えることを通して自由を手に入れること」なのだという。

私たちは対話することによって、自由を手に入れることができる。それは、それまで見えていなかった「自由を奪われている自分」に気づくことができるからだ。そしてもっと言えば、私たちはポジティブな意味での「責任」も手に入れることができる。「責任」という言葉にはたいていネガティブな意味がつきまとう。非難され、何かの責めを負うような責任である。しかし、本来の責任の意味は違うのではないか。何か自分にとって根本的に重要な問題を自ら考え、決断できるような機会のことを「責任」というのではないか。普段、私たちはそうしたポジティブな権利としての責任さえ、奪われているのではないか。梶谷さんはそう指摘する。

対話によって得られる自由と責任とは、そうした自分の人生や生活にとって重要な根本問題を自分の手元に取り戻すようなものである。しかも、それは自分ひとりで手に入れるものではなく、他者との共同行為である「対話」によって得られるものであり、そうした意味で他者との共同的な関係に根ざした、他者と共に享受する権利としての自由と責任なのである。



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