見出し画像

日本の海運の歴史をざっくり書く

さあ、月曜日だ。
月曜日はボクの得意分野の物流について書く日だ。
先週、陸運の歴史(江戸時代~昭和50年代)について書いたが、今日は海運の歴史について書いていこうと思う。


島国であるが故の海上輸送

日本は島国であるうえに古来から樹木にも恵まれていたので、早くから海運は発達していた。歴史の教科書に出てくる「漢委奴国王の金印」が1世紀(弥生時代後期)頃のものとされているので、その頃にはすでに日本と朝鮮半島との交流はあったようだ。奈良時代になると「渡来人」と呼ばれる、朝鮮半島から日本に移住してくる人が増え、農耕技術や土器、織物、漢字や儒学、仏教などを伝えたとされている。

鎌倉時代に「廻船」と呼ばれる船による行商が生まれたようだ。
廻船は瀬戸内海からスタートしたようで、奈良時代には海上交通を取り締まる法規が制定されている。瀬戸内海は内海で年中穏やかなので比較的安全であったのだろう。現在の兵庫県たつの市と尼崎市の間を一日かけて移動したようだ。ちなみに現代では車で1時間半程度の距離である。そして、江戸に幕府が開かれると、江戸は政治都市として、大阪は経済都市として、日本の二大主要都市となり、この二つの都市を結ぶ交通が盛んになってくるのだ。

江戸時代に栄えた廻船問屋

徳川家康が死去し、秀忠が家督を継いだ頃、泉州堺の商人が、紀州富田浦(現在の和歌山県和歌山市: 戦国時代から海運の拠点として栄えていた)から二百五十石(約37.5t)積みの廻船(木造の帆船)を借り受け、それを使って大阪から木綿・油・酒・酢・醤油などを江戸に送った。これが廻船問屋の始まりと言われているようだ。

廻船問屋とは、船舶を所有・運航し、日本の各地だけでなく、朝鮮半島者中国との交易を行っていた組織である。彼らは海上運航の専門知識を持つ人材や船員、および荷物の積み下ろし作業を行う人足などを雇用し、江戸時代に重量物を大量に輸送する物流システムとして重要な役割を果たしていた。
そして、いつの時代も同じようなことが起きるものだが、同じ区間をより早く運ぶ廻船問屋が現れ、また運賃を安くして競争力を上げようとする者が出てくる。またその逆に不正な方法で荷物を詐取しようとする者も出てきたことから、廻船問屋の組合ができ、協定を結んだりしたようだ。

明治時代に西洋式の造船が始まる

そんな廻船問屋も明治時代に入って急速に衰退する。
日本は1637年から長く鎖国を続けていたが、1853年にペリーが浦賀にやってきたことをきっかけに開国が進んでいくこととなる。ペリー来航の翌年、ロシアのプチャーチンという人物が長崎に来航し、日本との外交を迫った。この交渉は上手くまとまらなかったようだが、運悪く彼らの船が下田に入港していた時に「安政東海大地震」が発生し、津波によって航行不能になってしまったそうだ。その時のロシアの乗組員が日本の船大工を招集して大型帆船を築造したのが、日本の洋式造船の始まりと言われている。
日本人の技術習得力は昔から優秀で、黒船来襲から7年後には自力で太平洋の横断に成功している。そしてその後、幕府は大型船の築造および外国船の購入を推奨するようになり、1868年頃には日本国内(幕府や諸藩が所有していた)に西洋型の汽船と帆船が138隻に増えていたようだ。しかし、それまで運航していた日本式の帆船は西洋式の船に比べて輸送能力が劣ったことから、廻船問屋は急速に衰退していくことになるのだが…

ここから先は

1,086字

¥ 150

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?