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ドラッカーのマネジメントについて学ぼう -③人が最大の資産である

さあ、金曜日だ。
金曜日は、ドラッカーの「マネジメント」について学ぶ日だ。

この本は非常に緻密に書かれており、記事としてはドラッカーが書いた内容を順になぞっていくようなものになってしまうかもしれないと思っているが、可能な限り現代的な解釈をして、わかりやすく解説を加えていきたいと思っている。

ご興味おありの方は引き続きお読みいただけると幸いだ。


それにしても、改めてこの本を隅々まで読んでいくと「こんなことが書いてあったんだ!」と驚くことが多い。

「仕事」と「労働」

仕事と労働は異なるものだ。
ドラッカーの言葉を借りて、その違いを端的に表現するならば「仕事の論理」と「労働の力学」の違いだ。

仕事は論理だ。
論理であるから、客観的で系統だったアプローチが必要だ。
系統だったアプローチは以下のようになる。

1. 業務の分析
 →基本的な作業を明らかにし、論理的な順序に並べる。
2. 業務プロセスの組立
 →ひとつひとつの業務を人単位に組み立て、人単位の業務をプロセスに統合する
3. 修正の仕組み
 →予期せぬ変動を感知する仕組みを作り、そのフィードバックを元に、プロセスの修正を行う

それに対して、労働は力学だ。
しかも、それは人間の、場合によっては集団の力学だ。
労働の力学を次元ごとに分けると、以下の5つとなる。

1. 生理的な次元
 →ヒトは疲労する。同じ業務を続けていると飽きてきて生産性が落ちる。一定のリズムで働くより変化を付けた方が生産性が上がる。そして人によってスピード、リズム、持続力が異なる。労働を考えるとき、そういったバッファを持たせておかなければならない。
2. 心理的な次元
 →働くことは人格の延長で自己実現の手段である。その人自身の価値を測り、人間性を定義するものである。
3. 社会的な次元
 →社会において、労働が人と社会をつなぐ重要な絆になり、その人の位置づけも決まる。
4. 経済的な次元
 →労働は生計の元手を作り、その人の存在の基盤になる。そしてそれはグルっと回って社会の経済活動となる。
5. 政治的な次元
 →集団や組織には権力関係が発生する。そして誰かがその権力を行使する。

知識労働者と肉体労働者

表現が時代的であるのは勘弁していただこう。
「マネジメント」の日本版が発刊されたのがおよそ70年前、本の中の表現がそうなっているのだ。ここでは「肉体労働者=現場で手を使って働く人」と置き換えて読んでいただきたい。

産業革命の頃には労働人口の中心は肉体労働者だった。
だけど、現代の労働者の中心は肉体労働者から知識労働者に移っている。

ドラッカーは本の中で興味深い表現をしている。
「知識労働者といえども、必ずしも高学歴は必要ない。文章のファイリングには、高度の知的能力や高等教育は必要ない。しかしその道具は、ハンマーや鎌ではなく、アルファベットという高度に抽象化した道具である。物ではなく記号である。」
つまり、肉体労働者と知識労働者の間にヒトとしての能力に大きな差はない(知識労働の生産性・貢献度を正確に定義して測定することはできない)にも関わらず、階級分裂が進んでいるのだ。

知識労働者に必要なもの

ドラッカーは、労働を「肉」、仕事を「ソース」に例えている。ソースが不味ければ、どんなに最高の肉であっても、それが台無しになるように、仕事自体にやりがい(魅力)がなければ、人が責任感を持って仕事をすることができない。まずはここだ。

そして、人に働きがいを与えるには、仕事そのものに責任を持たせることが重要だ。それはマネジメント(この記事内では、マネジメント=管理や育成を行うチームの意)の責任であるが、マネジメントだけが一方的に取り組むものでもない。マネジメントと労働者が一体となって、仕事・プロセス・道具・情報などの仔細にわたって検討し、労働者の知識と経験と欲求が、仕事自体に生かされなければならない。そのために、仕事として必要なのが(最初に戻って)「1.業務の分析」「2. 業務プロセスの組立」「3. 修正の仕組み」だ。

そしてそれに加えて「4. 継続的な学習」となる。
それは肉体労働者にも知識労働者も同様だが、知識労働者集団が成果を上げるためには、実際にそれぞれの専門分野の課題やニーズに触れて、専門的な経験を積まなければならない。知識労働者は学習集団でなければならないのだ。

肉体労働者に必要なもの

労働の現場には、実質的な責任を与えなければならない。
しかし、多くの現場においてそれは適切に行われていない。

現場にはコミュニティがある。そしてそのコミュニティが生活上の重要な問題として日々直面するのが、食堂の問題であったり、休暇をどう取るかだったり、休憩時間をどう過ごすか、だったりする。しかし、それらの管理はマネジメントが行っていることが多く、しかもそういった事柄は、マネジメントから見たときにプライオリティが高くないと考えてしまうことが多い。しかし職場のコミュニティとしては、毎日の生活に直結する重要な問題だ。ここに不満と摩擦が生まれ、その結果としてコミュニティの士気が低下するのだ。

なので、ドラッカーはコミュニティの問題はコミュニティ自身に自治させるべきだと説いている。そして、その自治方法は民主的なものでなくて良いとも。もし今でも「アメとムチ」で管理を行っている会社があるなら、それは70年遅れているシーラカンスみたいな会社だということができるだろう。

権限と権力

肉体労働者も知識労働者も、みんな「責任を持ちたい」と思っている。それは人としての純粋な欲求だ。そして労働者からは、時として(日本人は往々にしてわかりづらい表現で)責任を持ちたいという声が上がる。しかし、その要求を実現に移すマネジメントは少ない。

それは、マネジメントが権限と権力を混同しているからだ。
マネジメントは、肉体労働者および知識労働者からの「責任を持ちたい」という声を、「おまえたち自身の権限を放棄せよ」と誤解する。そして自分たちの権限が危うくなると思い込んで抵抗する。

ここで理解しておかなければならないのは、
マネジメントはそもそも「権力」は持っておらず「責任」を持っているだけだということだ。そして、その責任を果たすために「権限」が必要なので、現実的に権限を持っているということを理解しなければならない。

人が最大の資産である

会社にはいろいろな資産があるが、言うまでもなく最も重要な資産は「人」である。しかし人は企業の所有物ではない。人は他の資産のように処分することができず、清算するときに価値を生まない。そして人は弱く、問題を起こす。いろいろな手続きや雑事を必要とする。

だから、マネジメントの多くは、人を資産としてではなく(財務諸表上の)「コスト」として扱う。だから、企業はその資産の中で最も人を活用することができないのだ。

企業が人を雇うとき、その人の弱いところを評価して採用するではなく、その人の強みを評価して採用する。マネジメントには、その人の強みを生産に結び付け、その人の弱みを中和することが求められるのだ。

(続きはまた来週)

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