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アドラー心理学について学ぼう - ⑤ボクたちが生きる世界を定義しよう

さあ、木曜日だ。
木曜日は「アドラー心理学」について書く日だ。

先週は「自由とは何か」という記事を書いた。
その自由とは、組織やコミュニティに所属していながらにして自分の生き方を貫くことだ。自分の生き方を貫くためには、自分の課題と他人の課題を分離させて、自分の課題だけを選び取ること。そして、他人からの評価を持ち込んではいけないということだ。


ボクたちが生きる世界とは

ボクたちがどんな世界に生きているのか考えてみよう。

以前の記事で書いた通り、ボクらは他人から切り離された状態で生きることはできない。つまり、誰もが何らかのコミュニティに属して生きている。例えば職場、例えば学校、例えば家庭…

自分の人生は自分を中心に進んでいく。
しかし、コミュニティは自分を中心にして回ってはくれない。コミュニティは、少なくとも2人以上の人、場合によっては数万人(例えばnoteは660万人のコミュニティだ)の人たちの集合体だ。その多くの人の集合体が自分を中心にして動いてくれるはずがない。

そのコミュニティの中で、誰もが自分と他人を比較し、しばしばそれが劣等感を生み、場合によっては劣等コンプレックスや優越コンプレックスに変化する。そして誰もが、自分の人生は自分中心に進んでいるのに、コミュニティは自分を中心に回ってくれないことに気づき、そこにジレンマを感じてしまう。

そして、そのジレンマがいつしか居心地の悪さに変わっていくのだ。

マルチバースをイメージしてみよう

「マルチバース」とは、マルチ(複数)とユニバース(宇宙・世界)を掛け合わせた造語だ。ここ数年、マルチバースを題材にした映画が増えている。ボクたちが見ている世界はひとつ(ユニバース)だが、実はボクたちの世界に非常に酷似した異なる世界が無数に存在するという概念がマルチバースだ。

ボクたちが所属している組織やコミュニティも単一ではない。
家族、会社、町内会、同じお店で買い物をしている人たち、同じイベントに居合わせた人たち、同じ飛行機に乗り合わせた人たち、同じSNSに参加している人たち…。そして、そのそれぞれのコミュニティは、コミュニティごとに明確な境界線が引かれているわけではない。またそれぞれのコミュニティは、上位に存在するより大きなコミュニティに内包されている場合が多い。例えば、家族→親戚、親戚→一族、会社→業界…のようにだ。また逆に家族→夫婦/親子のように、定義を細分化していくことも可能だ。

高さ300mからの俯瞰

ボクたちは単一のコミュニティに生きているわけではない。皆、複数の組織やコミュニティを行き交いながら生きている。さながらマルチバースを行き来するように。

まずは、視点を変えてみるといい。
東京タワーの展望台くらいの高さをイメージするのがいいだろう。東京の街が見渡せて、行き交う人や車がよく見えるくらいの高さだ。そうすると、自分がひとつのコミュニティだけで生きているわけではないことが見えてくる。

今、誰かと会話しているその場所だけが世界のすべてではない。
世界は宇宙のように無限に広がっている。だけど自分が関わっているコミュニティは見えている範囲のいくつかだけだ。そして、どのコミュニティも自分の視点から見えてはいるが、自分を中心に回っているわけではなく、多くの人たちの思惑や行動によってそれぞれに大きなうねりを描いている…

それがボクたちが生きる世界の正体だ。

自分の価値を感じるには

ああ、話が逸れてしまった…

アドラー心理学に話を戻すが、
アドラーは、「人が自分の価値を実感できるのは、自分の存在がそれぞれのコミュニティにおいて有益だと実感できたとき」だと説いている。

では、どのようにして、有益であると感じることができるのか…
次回以降でこの部分について触れていこうと思う。


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