アドラー心理学について学ぼう - ②人生は他人との競争ではない
さあ、木曜日だ。
木曜日は「アドラー心理学」について書く日だ。
先週は、アドラー心理学がどのようなものなのかを書いたが、今週は劣等感、劣等コンプレックス、優越コンプレックスあたりに触れていこうと思う。
どのように人格は形成されるのか
「人は孤独を感じることさえも他人を必要とする」
アドラーは、人間の悩みはすべて対人関係の悩みであると言っている。
人間は他人から切り離された状態で生きることはできない。
どんな引きこもりの人であっても、たった一人で誰とも接触しないで生きていくことはできない。人間は本質的に他人の存在を前提として生きているので、人の悩みの大半も他人との関係性の中で生じるのだ。
アドラーの提唱する心理学は「原因論」を否定し、「目的論」を軸に人間心理を考えていく。つまり、過去のトラウマ(例えば学校でひどいいじめに遭ったことが原因)で引きこもりになった人が、「トラウマが原因で外に出ようとすると恐怖に駆られてしまう」のではなく、「外に出るのが嫌だから、(過去の経験に意味を与えて)自分で恐怖という感情を作り出している」という考え方だ。
そう、過去の経験そのものがその人のライフスタイルを決定づけるのではなく、その経験に自分で意味づけをすることによって、その人のライフスタイルが形成されるのだ。ここでいう「ライフスタイル」とは、その人の「人生のあり方」を指し、人は概ね10歳前後で自分のライフスタイルを選択すると、アドラーは言っている。
人は常に変わらないという決心をしている
では、前述の引きこもりの彼が、なんで引きこもっているかというと、それは引きこもることが彼にとって幸せだからだ。もちろん本人が明確に計算高くそのような行動をとっているとは限らない。しかし、少なくとも心の奥底で、引きこもってさえいれば母親がちやほやしてくれる現状を変えようとしていない=そのライフスタイルを選択している、ということだ。
もし本人がその状況を変えたいと思っているなら、いじめに遭ったという過去の経験は置いておいて、新しいライフスタイルを選びなおせばいいだけなのだ。アドラーはそれを「目的論」と定義して「これまでの人生に何があったとしても、今後の人生をどう生きるかについて何の影響もない」と言っている。
劣等感と劣等コンプレックス
「劣等感」とは主観的な価値観である。
そう、それは事実ではなく解釈だ。
この劣等感は他人との比較から生まれる。
劣等感自体は悪いものではない。他の人や理想とする自分に対して劣っていると感じるのは正常な感覚であり、むしろ良いことだ。志が高ければ高いほど劣等感は大きくなるわけだが、それにはなんの問題もない。
問題なのは、その劣等感を言い訳に使い始めることだ。
そうなると、劣等感ではなく「劣等コンプレックス」になる。
わかりやすい例を挙げると、素晴らしい文章を書くクリエイターさんを見て、「私はあの人に比べると文章力が劣っている。だからもっと努力して私も良い文章を書けるようになろう」と思うこと、これは上手に「劣等感」を感じていることだ。しかし「私はあの人に比べると文章力が劣っている。だからnoteに文章を書くことをやめよう。」となってくると、それは「劣等コンプレックス」になってくる。
見かけの因果律
劣等コンプレックスを論理的に説明しようとして、人は何の因果関係もないものを、あたかも因果関係があるかのように解釈することがある。それは他人に向けたものというより、自らを説得し、自らを納得させてしまうためのものであることが多い。これまた身近なところで置き換えてお話するなら、「私にはあの人のように長文を毎日書く時間がないから仕方ないよね。」と言って、自分で自分を納得させてしまうようなことだ。
なぜそのように考えが変化するかというと、人は劣等感を持ったまま、その状態を維持し続けることに耐えられないからだ。人はそれぞれが抱えている劣等感(=他の人や理想の自分との差)をどうにかして埋めようとするのだ。この差を埋めるために勉強したり訓練を積んだりすることが最も健全な姿であるが、そこに踏み込む勇気を持っていない人が「劣等コンプレックス」に陥ることになる。
つまり「私は本来素晴らしく優秀な人物なのだが、〇〇という障害があることで、私は理想の自分になることができていない。だから社会から価値を認められていないのだ。」と自分で自分に言い聞かせて、無意識に他の人や理想の自分との差を埋めようとするということだ。
優越コンプレックスとは
強い劣等感を持っている人が、正しく劣等感を用いることができず、さらに劣等コンプレックスも我慢できない、という状態になると「優越コンプレックス」という心理状態に陥ってしまう場合がある。
それは、あたかも自分が優れている人のように振舞い、偽りの優越感に浸る行為である。例えば、過度なブランド志向な人、著名人と懇意であることをことさらにアピールする人、過去の手柄をいつまでも自慢する人などは優越コンプレックスの傾向があるかもしれない。何度も例に挙げて恐縮だが、某通訳の人も経歴詐称していたと話題に上がっているが、それも優越コンプレックスのひとつであると言える。
自慢は劣等感の裏返しだ。
例えば不幸自慢をする人は、不幸であることで「特別」であろうとし、不幸であるという一点で人の上に立とうとする。その人に関わる誰かを「おまえなんかに〇〇がわかるものか!」と言って拒絶することで、相手がその人のことを大事に(正しく言うと慎重に)扱うことになる。そうすると自分自身がその関係性において特別な存在になれる(相手を支配することができる)のだ。それが前述の引きこもりの人だったりする。
人生は他人との競争ではない
人がより優れた存在であろうとすることは普遍的な欲求である。
しかし、人生は他人との競争ではない。
対人関係を競争という軸で考えてしまうと、他人の幸福を自分の負けととらえてしまうことになる。そして負けたと自覚してしまうと、その先に劣等コンプレックスや優越コンプレックスが待ち受ける。
しかし、人生は他人との競争ではない。
競争をしなければ誰かに勝つ必要はないのだ。そうすると、勝たなければならないというプレッシャーも、負けるかもしれないという恐怖も存在しない。そうして初めて他人の幸せを心から祝福できるようになり、他人の幸せのために積極的な貢献ができるようになる。
それが「仲間」だ。
アドラーは、自分に関係する人々が自分の仲間だと実感できれば、世界は安全で快適な場所になり、対人関係の悩みも減ると説いている。
(続きはまた来週)
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