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ガードナーの「自己革新」について学ぼう - ⑤自由のために社会は何をするべきか

さあ、土曜日だ。
土曜日は、ガードナーの「自己革新」を読み解いていこうと思っている。
先週の記事の冒頭にも書いたが、これから書く一連の記事には、ボク自身のバイアスがかなりかかるだろうと思っていて、ガードナーが本来書いていたものと若干乖離するかもしれないことを予めお伝えしておく。

先週は「自由のために組織は何をするべきか」というタイトルで書いた。
今日はお話をもう少し拡大して、自由のために「社会」が何をするべきか?というお話にお付き合いいただきたい。


社会の中における個人の尊厳と価値

「自由」というテーマはなかなかに難しい。

ガードナーの言葉を借りるならば、以下の通りだ。
-- 自分自身とその運命を支配することができ、すべての邪魔なしがらみを断ち切れば、個人は大空を自由に飛ぶ鳥のようになれるというロマンチックな考えを持つ人は多い。しかし、こうした考えは危険に満ちた混乱をもたらす。完全な個人の自律性など考えられない。
私たちは集団の没個性的なメンバーになることが人間の最も望ましい姿だとする全体主義の概念を受け入れることはできないが、同時に完全な個人の自律性というロマンチックな概念を受け入れることもできないのである。-- 

これは、アドラーも言っていることだが、
人間は他人から切り離された状態で生きることはできない。
自由とは組織やコミュニティから独立することではないのだ。

個人の責務

現代社会は高度に組織化されているので、その中で自由であろうとすると、社会から厳しく否定される場合が多い。どんな人であっても自由であろうとすることはその人のストレスになり、場合によってはその人の成長を阻害する壁となる。しかし、その壁を超越して、感情的・道徳的・精神的に社会と強く結びつくことができた人だけが、理想とする個人の自由と尊厳を手に入れることができるのだ。

ボクたちが理想とする個人の自由と尊厳を担保するためには、ボクたち自身が一定基準の独立性を持っていなければならない。そして、それと同時に自分自身の限界を知って、社会との折り合いをつけていかなければならない。

これが自由に対して個人の負うべき責務だ。

社会の責務

社会の側にも責任がある。
ボクたちは社会の(良い)伝統を守っていかなければならない。それは政治かもしれないし、宗教や風習かもしれない、制度や規範、思想、学問、芸術…。それはどれも長い年月の中で人が集まって作り上げてきたもので、社会の基盤を為しているものだ。

社会の伝統を守ること、
それは図らずも自由に対する壁を設けることであり、その壁を丁寧に整備して一定の高さに維持することだ。それを否定してはいけない。社会が個人に対して(特に若い人たちに対して)行わなければならないのは、その壁を壊したり低くしたりすることではなく、個人に「手を差し伸べる」ことだ。

複雑な現代社会の中では、若い人たちの多くはこの壁を乗り越えることに苦労する。そして場合によっては、その壁の外側に居続けることが自由だと勘違いしてしまう。だからボクたちは彼らが自由の壁を乗り越えられるよう、手を差し伸べなければならない。そうすることで彼らは社会の中で最大限の能力を発揮することができるはずだ。

これが自由に対して社会が負うべき責務である。


(続きはまた来週)

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