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【連載小説】『小さな悲劇で満ちたこの世界で』 14. 長野刑務所

【これまでのお話】
プロローグ
1. 硝子のマリア像 2. 不器用な教え子
3. 弱い男
4. 都合のいい夫
5. 好奇心
6. 悲劇の未亡人
7. 刑事たち
8. 交わる運命
9. 未亡人の告白
10. 藤原美羽
11. 不幸な少女
12. 消えた未亡人
13. 脱出

14. 長野刑務所
 
 愛知県警特捜本部は、駅、航空会社、空港、タクシー会社、レンタカー会社などの交通機関関係、そしてホテル、旅館などの宿泊施設に偽の澤口美羽の写真を配布し、捜索への協力を求めた。同時に、偽の美羽の交友関係を過去に遡って調べ上げ、数少ない友人知人の自宅に捜査員を配置した。
 1週間経つまでに、多くの偽の美羽に似た人物の目撃情報が届いた。しかし、捜査員が調べに行くと、いずれも誤情報だったり、単に似た人物に過ぎなかったり、似ても似つかない人物の場合すらあった。
 特捜本部では、聖マシュー大の石川修の殺人に加え、本物の藤原美羽、そしてすでに犯人が服役中の澤口圭佑の殺人にまで偽の美羽の容疑が広がる可能性を考慮し始めた。
 愛知県警としては、偽の美羽が行方不明になるという失態のあとでは、これ以上の失態の余地はゼロだった。もし偽の美羽がいずれの殺人や失踪にも関与していないのであれば、それはそれで構わないという警視正の島田の判断だった。
 偽の美羽捜索の包囲網が張られたところで、島田は城島と袴田に、住居侵入罪および強盗致死罪で長野刑務所で服役中の稲村健介と内々に面会するように命じた。
 偽の美羽が発見され、万が一にも夫圭佑の殺害を自白するような事態になり、稲村の強盗致死罪が冤罪であった場合に備える必要があった。
 一課の恨まれ役になりかねない役回りだったが、城島は大して気にならなかった。むしろ、真実を突き止められるかも知れないと思うと、刑事の血が沸き立った。
 それに、筑波山の麓で生まれ育ち、藤原美羽、のちに澤口美羽と名乗っていた幸薄い安田晴香という女の、本当の姿を見極めたかった。
「袴田、俺と島田との確執に巻き込んでまったみたいで悪いな」
城島は長野刑務所に向かう車の中で袴田に言った。袴田は慌てて否定した。
「そんなこと言わないでくださいよ。巻き込んだのは僕の方です。僕が澤口美羽にこだわったんです。でも城島さんには悪いですが、僕はやっぱり澤口美羽を捜査してよかったと思っています。城島さんがおっしゃったとおり、警察をちゃんと機能させましょう」
 運転する袴田の横顔を見ながら、城島は、ごく短い間に袴田が刑事として大きく成長した気がして嬉しくなった。
「いや、そう言ってくれるんならよかったわ。俺も美羽の捜査は正しかったと思っとる。特捜本部では、捜査が終わる前から、偽の美羽が3人殺した極悪非道な悪女だと言っとる想像力の貧困な奴もおるけどな。そんな単純なわけがないことも分からんとは情けない」
 袴田はいつもの城島らしさが戻ってきて安心した。行き着く先で何を感じるのか、何を知ることになるのか。中央道を走りながら、何があってもひるまず受け止める覚悟を決めた。
 面会室に現れた稲村健介は、思ったよりずっと小柄だった。事件から11年が過ぎ、稲村は43歳のはずだった。間近で見る稲村は、その陰鬱な表情のためか、ずっと老けて見えた。
 城島と袴田は、自分たちが愛知県警の警察官であること、11年前の澤口圭佑の事件の事実関係を確認したい旨を伝えた。
 稲村は、協力に難色を示しても仕方がないと思われたが、なんの感情の動きも見せることもしなければ、抵抗もしなかった。
「県警の。構わんよ。泉のマンションで俺が殺した事件だね」
 城島と袴田は、自分のことを他人事のように話す稲村を見て、警察が稲村にとって「独裁政権の拷問官」ではなかったことを祈らずにはいられなかった。
 稲村は、11年前の10月19日のことをごく短く、こう言った。
「あの日は、一日中家で寝てました。終わり」
城島と袴田は顔を見合わせた。
「でも調書には」
と、袴田が言いかけると、稲村が透明な仕切り越しに2人を睨みつけた。
「こう書いてあったんだろ!
 
 平成23年10月19日、私は東区泉1丁目3の2の菊花マンションの北側の雨樋をよじ登り、8階の澤口圭佑宅のベランダで窓ガラスを割り、鍵を開けて侵入しました。侵入した部屋の隣の衣装部屋に行き、金庫を開け、中にあった現金1200万円と高級時計や貴金属類を盗みました。その後、衣装部屋内の洋服を金庫に詰めました。さらに盗む物を探すために居間に行って物色していると、住民の澤口圭佑さんが帰宅し、居間に入ってきました。動転した私はそばにあったガラスの花瓶で澤口さんの頭部を何度も殴りました。澤口さんが動かなくなったので怖くなり、北側の窓から外に出て、雨樋を伝って逃げました」
 
 そこまで言って数秒黙ったとあと、急に泣き崩れた。
「違うんだ。入ったのは10月18日なんだ。殺してない。澤口圭佑に会ったこともない。でも捕まったとき、日付がごっちゃになって認めたんだ。ガラスを割って入って盗ったこと。でも日付が違うんだ。殺してない。何度も言ったのに。前の日も、その前の日も盗みには入った。でもその日はうちにいたんだ」
 稲村が興奮状態に陥り、面会はそこで打ち切らざるをえなくなった。
 城島と袴田は、暗い推測に苛まれながら、刑務官に支えられるようにして面会室を出ていく稲村を見送った。
 もし稲村の言うとおり稲村が空き巣に入ったのが10月18日なら、19日には何が起こったのか。誰が圭佑を撲殺したのか。帰途、2人の刑事は、限られた可能性、そして立証可能性について話し合った。
 春日井インターを過ぎた頃、袴田が道路から目を離さずに言った。
「あくまで仮説の域を出ませんが、圭佑殺害の前日に稲村が澤口宅に空き巣に入り、それに気づいた美羽が警察に通報しないで、夫の圭佑を殺した。そして、稲村の空き巣の証拠を利用して圭佑殺害の罪を稲村になすりつけたってことでしょうか」
「ああ、そんなところだな。小説みたいだがな。圭佑に気づかれる危険も冒してるってことは、何かよっぽどの事情があったってことだろう。ただ、物的証拠はない。美羽が自供しない限り立証は不可能かもな」
 城島は「美羽」と呼んだ女が実は「晴香」であることを思い出し、他人として20年生きるということの意味を考えた。(つづく


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